第7話 観光パート

 結局、涼花の迎えが来たのは、なんと次の朝のことになった。つまり、完全に泊まられたのだ。が、まあ仕方がない。


 涼花が全く起きる気配がないので、二人で相談して児玉さんにはこちらから申し入れたのだから。


 しかし、大変だった。この期に及んで愚痴るわけじゃないけども。


 あれから僕たちは急きょ部屋食をキャンセルしてロビーのレストランに変更したり、仲居さんに涼花のことを話して特別に許可をもらったり、ばたばただったのだ。


 まさに普通に旅行していたじゃ味わえない、中々濃い一日と言えた。


「昨夜は、色々あってごめんなさい。那智さん…よく眠れましたか?」

 涼花が去って、九王沢さんは心配そうに僕を気遣ってくれた。

「うん、でもまあ夜は静かだったよね」


 確かにそれからは、旅の疲れもあってよく眠れた。


(いや、よく眠れたら駄目じゃん)


 九王沢さんと夢の温泉旅行の一泊目が、あえなく終わってしまったのである。


 目が覚めたら、楽しいはずの夜が朝である。その間の記憶が全く空白。しかもやたら寒いと思ったら涼花にみんな、布団を巻き取られていた。


 これだから川の字で三人寝るのは、嫌なのだ。心なしか朝から、うすら寒いくしゃみが出る。へっぷし。


「寒かったんじゃないですか、那智さん。朝ごはんの前に、お風呂に入った方が」

「う、うん。じゃあ、ちょっと入ろうかなあ。九王沢さんはどうする?」

「はいっ、わたしもまた入りたいです。すぐ支度しますね?」

 いそいそと、浴衣を羽織る九王沢さん。


 僕はふと、彼女が消えていった内風呂の入口の方をみた。あーあ。ため息が漏れる。


 本当だったらこのお風呂で昨日、九王沢さんと一緒に混・浴!を楽しめたのになあ。


 がっくりしながらも妄想をたくましくしていると、

「じゃあ、行きましょう♪那智さん」


 九王沢さんが、うきうきしながら洗面所から戻ってきた。

 あらぬ方向をみていた僕は、ばっちり目が合ってしまった。


「どうしたんですか?」

「あ、いや。お風呂って…」

「お風呂って?」


 思わず口走ってしまった言葉に反応して、九王沢さんは後ろを振り返る。その途端、ぼっと顔が真っ赤になった。


「えっ、あのっ…お風呂って…(消え入りそうな声)そっちのお風呂、でしたか…?」

「全然!いや、全っ然違うから!」


 すっかり勘違いされてしまった。いや、そりゃあちらっとは、考えましたよ。妄想もしました。


 でも今お風呂に誘ったのは、紛れもなく大浴場のことで朝から混浴なんて、そんなこと微塵も考えてないって。


「あっ…明るいと、恥ずかしいですから!」


 ばっ、と浴衣の袂を合わせる九王沢さん。魅惑の胸元まで、隠されてしまった。警戒感ばっちりである。


 それもこれも昨日、混浴を逃したばっかりに。涼花め。いや、不憫なあの子のせいにしても、もはやしょうがない。ひとえに僕が意気地ないからである。


(ふりだしに戻るかあ)


 思わず肩を落としていると、思いがけずに天からの救いが。浴衣姿の九王沢さんが、ぴたっと身体を寄せて来たのだ。


「でっ、でもっ、すうちゃんが来ちゃったから昨夜は大浴場でしたけど、お部屋のお風呂も、入らないともったいないですよね…?」

 その切なく潤んだ目線で、僕の時間が停まった。一瞬、硬直してしまった。

「う、うん!うん!そうだね!そう!そおッ」

 力おっぱい、同意してしまった。いや何がおっぱいだって、実際、ぎゅうっと力強く押しつけられているのだ。そのものずばり幻のHカップが。これは、実体のない幻想なんかじゃない。


 まだあいまみえてもいないのに、何たる存在感だ。それが僕を失意のどん底からぐいぐい引き揚げてきた。


 勝負はまだ終わってはいない。まさに、起死回生、大阪の陣で言えば、まだ夏の陣。あ、でも結局負けたんだっけ。


 いや、それは置いといて。テンションばかりは、天王寺合戦で徳川家康に敗走の憂き目を見せた、真田信繁さなだのぶしげの気概のそれである。つまりだ。本陣への突破口は、まだそこに、拓いているのである。


「今日は、軍鶏しゃも食べに行こうよ」


 さてそれは置いといて二日目、今度は土地の名産で九王沢さんを喜ばせるのだ。


 この温泉郷の名産、奥久慈軍鶏おくくじしゃもは一大ブランドである。


 読んで字のごとく軍鶏、とは闘鶏に用いられる気の荒い鶏だが、語源はその原産であるシャム(タイだ)に由来する。飼育が始まったのは江戸時代である。


 中世の常食はきじや鶴だったから、言ってみれば織田信長も徳川家康もこの軍鶏を味わってはいないのだ。


 軍鶏料理で有名なのは、何と言っても池波正太郎の『鬼平犯科帳』シリーズに登場する『五鉄ごてつ』の鍋だ。


 これは内臓を使ういわゆるもつ鍋なのだが、奥久慈ではいわゆるすき焼き仕立てにして軍鶏を味わう店も多いようだ。


 しっかりと育った軍鶏の筋肉の発達の具合は、そのまま肉の旨味の濃さに直結する。きしきしと歯に快い歯ごたえを伝える軍鶏の肉は食べ応えも抜群だ。


 鍋も美味いが、ご飯もの、特に軍鶏弁当も絶品である。甘辛の醤油だれで煮た軍鶏に、ふわふわの卵そぼろを添えたお重こそ、奥久慈の名物料理だ。


 駅近くの老舗旅館などではお昼ご飯だけでも利用できる。


 昔ながらの豪壮な梁や欄間彫刻が立派な旅館のお座敷で頂く、お重の軍鶏弁当。


 牛蒡ごぼうと煮た軍鶏のだしで掻きこむご飯はたまらない、の一言だ。


 車なのでお酒を飲めないのが歯がゆいが、この里の清流から造った地酒で、麗しい唇を濡らす九王沢さんの姿を肴にノンアルコールビールだけでもう、感無量である。


 ああ、戻ってきた。性欲の件はさておき、九王沢さんとの楽しい旅行が。昨日までの無駄に濃い展開が嘘のようだ。



「気持ちいいですね」


 ほろ酔いの頬を、清水を渡る風にさらす九王沢さん。


 乳白色に煙る肌が、桃の実のようにほんのり強い血の気を帯びて、昨日のそれより断然、艶めかしい。


「わたしもう、帰りたくなくなってきちゃいましたよう☆」


 複雑な闇の折り重ねを清水の飛沫が白く濡らす。


 大胆にも少し身を乗り出してそんな断崖の景を眺める九王沢さんを見て僕は知らずのうちに、涼花のことを思い出した。


「…あの子、あのまま帰して大丈夫だったかな?」


 九王沢さんが、はっと息を呑んだのが、僕には分かっていた。よく判る。九王沢さんは、僕に気を遣っていたのだ。


 気がかりがやや、いつもの九王沢さんのテンションに、影を落としているのを僕は知っていた。


 涼花を迎えに来た伊東香名子の話を、僕たちは聞いてしまったのだ。



「靜子が死んだ部屋には、誰かが隠れていた」


 確かに二人の話を聞けば、この件が自殺である、と言う判断には決してならなかったと思う。


 香名子と涼花、この二人の証言が事実とするならばむしろ、この事件は見過ごされた『殺人』である。


「えっ、すうちゃんがそんなことを…」


 香名子さんは、自分が話してはいけないことを話しそうになったと言うように、思わず口元を手で覆った。


「靜子さんの死に、すうちゃんは納得してない、と思います」


 でも今さら、あの六園家の誰にも話せない。涼花を守る立場の児玉さんですら、それに取り合ってくれないのだ。


「まあどうせ、あの人たちは、靜子奥さまの遺産がちゃんと自分に分配されるかどうかって言うのが、全てですからねえ…」


 香名子さんは眼鏡の奥の意外に涼しい瞳を細めて、ぽそっと毒を吐いたが、話した相手が本家の九王沢さんだったことに思い直したのか、今度は消え入りそうな声で今の毒舌を取り繕った。


「あ、いや、奥さまの件はもう自殺で、済んだことですから…」

「自殺と言うのは、あの部屋に当時、誰もいなかった、その前提で警察が下した判断なんですよね?」

 今度は、僕が切り込む。

「一族の誰が自殺にしたいとしても、二人の証言が取り上げられる限りは、事件は自殺になんか、なっていなかったはずです。何か理由があるんですか?」

 その途端、香名子さんのスマホが鳴った。児玉さんが心配してコールしているのだろう。

 彼女は涼花を車に乗せた旨だけ、簡潔に報告すると、

「い、居なかったんです」

 と、突然、思い切ったように言った。

「居なかった?」

「でもっ、でもそんなはずないんですよ」


 そこから先はせきを切ったようだった。彼女もまた、この一年間、主張したいことを我慢していたのだろう。


「わたしも、すうちゃんも、確かに見たんです。誰もいないはずの靜子奥さまの部屋のドアが勝手に閉まったのを。鍵まで中から掛けられてて。わっ、わたし自分の目でちゃんと、確かめたんですから!」

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