第5話 殺意の混浴温泉
「殺された…?」
日常生活で使う語ではない。余りに不穏な言葉だ。部外者の僕など、涼花が言い放ったその言葉に違和感すらしたものだ。
僕にとってはまだまだ涼花は、女優の秋山すずかなのだ。
その秋山すずかが言ったものだと言うと、母親を殺された、と表現することが、どこか現実離れしていて、実際それが誰かが命を奪われたことだと言うのに、どこか実感が持てないのだ。
「お客様の前で、何を言うの涼花」
硬い声で思わず、児玉さんが叱りつけたが、それを受ける涼花の眼差しは見ていて凍りつくほどに冷たい。
「ただの事実でしょ。そこにいる那智さんにだって、検索したらすぐばれちゃうんだから」
僕の名前が出た。すると途端に、児玉さんの顔色が変わった。
「すっ、涼花っ!」
涼花は何も応えなかった。うるさそうに手を振ると、涼花はいなくなってしまった。
「今の、どう言うことですか?」
九王沢さんの問いに、児玉さんは覚悟したように息を吐いた。涼花にああ言われた以上、下手に隠しても、仕方ないと思ったのだろう。
「今から言う言葉で、検索してみてください。昨年ここであったことについて、まだ記事が残っているはずです」
言われるままに僕は、スマホを取り出した。
ちょうど一年前の話である。
涼花が殺されたのだと言う、広瀬靜子の死。若い頃に引退した女優だからないとは思ったが、児玉さんに言われるままに週刊誌の記事をスマホで検索してみると確かに出た。
立派な事件である。
奥久慈 女流画家不審死自殺か
元俳優・
写真には、くせ毛の髪を撫でつけた顔の彫りの深い中年男が映っていた。
この顔もよく知っている顔だ。
僕が中学生くらいの頃には、割りとドラマに出ていた中堅の俳優だ。最近見ないと思ったが確か、別件で大事件を起こしてメディアから消えたのだった。
「実は、この男が、涼花の父親なんです」
他言無用を前提とした上で、児玉さんはきっぱりと断言した。
乃木雅人は、小劇場出身の実力派俳優で、広瀬靜子のデビュー作をきっかけに顔が売れ出した。
六歳年上だが、十代の頃から靜子は乃木と交際を始め、仲を深めていったと言う。
脚本や演出もやり、劇団畑に顔が広かった乃木に、靜子が憧れる形で付き合いが始まったのだが、ブレイクの仕方は段違いであっという間に二人に大差をつけてしまった。
靜子には、アイドル女優に収まりきらない才能があったのだろう。
演技派男優とアイドル女優では本来人気の尺度や価値観が違うらしいのだが、乃木の嫉妬が強くなり、日に日に乱行が目立つようになった。
そこでついに靜子は女優を辞めた。画家となって、メキシコに旅立ったのは、乃木と距離を置くためでもあったのである。
それでようやく乃木の行状も改まったかに見えた。だがさらに決定的な出来事が、二人を引き裂いたのだ。
乃木が覚醒剤取締法違反で現行犯逮捕されたのだ。乃木はそれで、不倫していた若い劇団員の女性を死なせかけた。涼花が生まれる前後のことだったと言う。
「乃木は薬物所持は初犯でしたが、不倫相手を死なせかけた罪も加わり、実刑を喰らいました。広瀬は離婚を申し出ましたが、乃木はそれを承知せず、獄中から長いやり取りになりました」
その間に涼花が生まれた。しかし、いつまでも離婚に応じない乃木に危険を感じた靜子はその存在を知らせずに、密かに遠くに住んでいる叔母の家に預けたらしい。
それが今の涼花の後見人の大叔母、と言うわけだ。
「乃木から逃れるように、広瀬はその存在を避け続けました。法的にはすでに離婚も成立していましたし、女優を辞めて十年以上、何の接点もなかったのです。ですが、涼花が活躍することで、乃木にも自分と広瀬の間に娘がいることが分かってしまって」
「離婚をするなら、慰謝料を寄越せ」
乃木は、脅迫者に転じた。金を払わないなら、涼花の出生のネタを週刊誌に売る、と言うのだ。もはやなりふり構わない感じである。
この頃、乃木は最初の逮捕から数えて三度の薬物での逮捕歴を重ね、生活の糧もなく完全にストーカー化していた。
まだ都内で仕事をしていた靜子を待ち伏せたり、事務所に乗りこんだりして、警察沙汰になったこともあったと言う。
ろれつの回らない口調で、なりふり構わず叫び散らす乃木の怒声を、多くの人間が耳にしている。
「いいのかおいッ!次は娘の事務所に行くぞッ!」
これが乃木の決まり文句だった。
靜子は被害届を出した。何度も警察に実際の被害を詳細に説明したらしい。いつ殺されるかの恐怖に、怯えていたとも言われる。そのうちに三十九歳で癌を宣告され、余命いくばくもなくなってしまったのだそうな。
「ちょうど一年前は、広瀬の余命半年前に当たりました。在宅医療を択んだ広瀬は、この奥久慈の別荘を本宅にして、出来る仕事を続けていました。そこでまだ話がきちんと出来るうちに財産の整理をしておこうと考えて、一族を呼んだんです」
事件はその席で起こった。遺産協議を行うのに親族が続々と集まる中、靜子は、自宅の一室で死んでいるのが発見されたのだ。
「それ完全に殺人じゃないですか?」
そもそも遺産協議の席を自分で設けておいて、自殺する人間はいない。しかも靜子は度々、乃木につきまとわれて暴力を受けていたのだ。話の流れからいけば、どう考えても犯人は乃木である。
「乃木は聴取を受けましたよ。でも、広瀬は自殺でした。警察の方が実況見分して判断したのですから、間違いはありません」
児玉さんはその部分は、きっぱりと断言した。警察は逮捕状をとることもなく、乃木を解放したのだと言う。
「そしてその乃木も、今はいません。だから今回こそ円満に、広瀬の遺産を分配できる運びとなったのです」
靜子は涼花の後見人になってくれる親族には特別に、自分の資産の直接の相続を一部認めているのだと言う。
本来相続には法廷遺留分と言って、法的に相続権が認められた人間には、遺言の如何に関わらず分配される資産が決まっているそうな。
だが、兄妹の場合はそれが、遺言に書かれた場合のみにしか認められないために、涼花の後見人にならない親族は一切、その恩恵に預かれない仕組みになっているのだと言う。
に、しても下世話な話だ。つまり末妹の資産が目当てで、二人の兄と入り婿が、こぞって東京からやってきているのだ。
その点は同感らしく、児玉さんは難しい顔で、眉をひそめる。
「広瀬がよく言ってました。九王沢の本家と同じく、この血族は女系一族だ、と。謙三さんも征之助さんもどうも、早いお金が必要みたいで、あんな年若の涼花にずっと付きまとってばかりいるんです」
「女系…?」
「男性がおしなべて、だらしないようです」
何が言いたいのか、じとっとした目で児玉さんは僕を見た。
「それでも謙三さんと征之助さん、どっちが涼花の後見人になるにしても、広瀬が遺した条件で相続が終われば、少しはまともになってくれるでしょう。そうなればわたしも、広瀬から課せられた重い荷がようやく下ろせます」
と児玉さんは、大きく息を吐くのだった。
乃木雅人は、ちょうどこの夏に死んでいた。
覚醒剤の
遺体は都内の大型量販店の駐車場の隅に炎天下、二日以上、放置されていたらしい。
直接の死因は心臓発作で目立った外傷はなし。度重なる逮捕歴と、乱行の数々はご存知警察沙汰にもなっており、事故死として取り扱われた。
児玉さんの言う通り、乃木はすでにいない。また警察が調べた内容では、靜子の自殺に不審はなく、乃木の関与は薄いと言わざるを得なかったようだ。
「確かに疑問が残りますね。まず、すうちゃんはどうして、お母さんが殺された、と言ったのでしょうか…?」
九王沢さんは麗しの唇に人差し指をあて完全に思考モードである。
あれから涼花もいなくなったし、気まずーい感じを振り払って僕たちは宿に帰ったのだが、どうも空気が重たい。
押し黙っている九王沢さんとどうにか話題を作ろうと、乃木雅人のことを調べたのだが、見事に藪蛇であった。
「一年前の靜子さんの死の状況が、分かればいいのですが、やはりそれらしい記事は、載っていないのですね…?」
僕は頷いた。あれから少ない記事を僕は寄せ集めてみたのだが、靜子さんの死の周辺の情報については具体的な状況を記したものはほぼないと言えた。
「…病院に搬送されてから、亡くなられているみたいですね」
なんと刃物がお腹に刺さっていたらしい。切腹に近い。壮絶な亡くなり方だ。
使われたのは六園家に伝わる伝・
「短刀での自殺、とりわけ切腹はかなりの覚悟が要るものかも知れませんね」
よく追い詰められた武士やお姫様など高貴な子女が、短刀で自害した、などと聞くが、それは一人で成し遂げるには、中々に難しい話なのだそうな。まさに、九王沢さんならではの推理が展開する。
「古くから短刀で切腹の記事が登場しますが、切腹それ自体は自害の手段としては適当ではないようです。実は生存率が案外、高いんです。例えば有名なのは平治元年(一一五九年)平治の乱の敗者、
『平治物語』によると、土の中から掘り起こされた信西はまだ正気だった。
堂々と自ら腹を掻き切ったにも関わらず、息をしているのはもちろん、目の焦点も普通に合っていたらしい。
そのまま哀れ、首を討たれたと言う。かわいそうな死に方だ。
また、あの南北朝の英雄、
このように、一人切腹は中々死ねないのだそうだ。だから大体、介錯に首を斬る人が控えているのである。
「でもお母さんがそんな死に方をしたって聞いたら、涼花ちゃんも、殺されたって思うだろうね…?」
率直な感想を、僕は述べた。
靜子に付きまとっていた乃木が口論の末、刺した、と言っても、ことの経緯からしたら不自然ではない。
「もちろんウェブ上に書かれていることが、すべて真実とは限らない、とは思いますが」
靜子は刃物で死んでいるのだ。それも剃刀で手首を切った、とかじゃなく、日本刀だ。
僕が調べたことが本当なら、警察が事件性を疑わないのは、ちょっと不自然ではある。
「何か理由があったんではないでしょうか。実況見分で警察はまず、事件性の有無を判断するそうですから。一度は最も怪しい乃木さんが呼ばれて解放されたのも、警察が自殺、と断定せざるを得ない、そんな状況があって」
そこまで話しておいて、九王沢さんは、ああっ!と大きな声を上げた。あーびっくりした。
何かと思ったら九王沢さん、吸い込まれそうに大きな目をうるうる潤ませて、何を言うかと思ったら。
「ごっ、ごめんなさい!せっかくっ、せっかく那智さんがお金を貯めて、こんな楽しい温泉旅行に誘ってくれたのに!…わたしっなんということを、わたしっ、わたしなんかの、親戚の話で…こんなに楽しい旅行を台無しにしてしまって!」
「そんなことないって。いいんだよ、九王沢さん」
僕はあわてて、泣きべそまで掻いている九王沢さんをフォローした。
「涼花ちゃんのこと、かわいがってあげてたんだろ。だったら困ってるときは、ちゃんと心配してあげなきゃじゃないか」
それにやたららしい、と思った。
九王沢さんならではのぶっ飛び方である。偶然出会った親戚がなんと今をときめく秋山すずかで、聞きたくもない芸能界裏話をとっぷり聞かされた上、厄介な遺産相続事件に巻き込まれようとしている。
うん、誰に話しても、絶っ対信じてくれない。依田ちゃんに話したら、さぞや辛辣な反応が返って来るだろう。
って言うか、ぐすぐす泣いている九王沢さんがかわいすぎる。思わず抱き止めてしまったが、咽喉元に甘く濡れた吐息の荒い気配を感じているだけで、軽く血迷いそうになる。
仲居さんが布団さえひいてくれていたなら、即、押し倒しているレベルだ。
「じゃっ、じゃあどっ、どうしましょう…?!」
と不意に九王沢さんが言った。例の切ない上目遣いである。
「えっ、じゃあ、ど、どうしましょうって…?」
何かあったの?もじもじする九王沢さんを前に、僕は、無意味に辺りを見回してしまう。馬鹿である。
九王沢さんは、しばらくその様子を見ていたが、やがてもどかしくなったか、すがりつくように身を寄せると僕に掻き口説いた。
「おっ…お風呂に入りましょうか?もう、少し暗いですよね…?」
「う、うん。大浴場も、紅葉のライトアップがあるみたいだったよね…?」
そうじゃなくって、と言うように、九王沢さんは一生懸命かぶりを振った。
「さ、さっきの…さっきの約束ですよう。…(消え入りそうな小声)一緒に、お部屋のお風呂に入ろうって…」
「あっ」
それを忘れていた。
まさに、不覚ッ、不覚の極みである。九王沢さんと僕は、約束したのだ。あれは、確かに夢ではなかった。入る約束をしたのだ。九王沢さんと二人で、お部屋の露天風呂を。
「那智さんっ」
その瞬間、邪な気を感じたのか九王沢さんは、ばっと僕から離れた。服を着てるのに、なぜか手で大事なところを隠してる。
「あっ、明るいと恥ずかしいですから。あんまり、見ないで下さいね…?」
鼻血が出そうになった。まだ見てないのに。服を着てるのに、どうしてこんなにえっちに見えるんだろう。
これぞ見えていないのに見えてしまう、絶対領域の
てゆうか見ないわけにいくか!?
(生きてて良かった)
余計な一回を挟んだが、ついに混・浴!である。僕の野望は、まだ死んではいなかった。
起死回生、臥薪嘗胆、捲土重来を期してついに大願成就である。…って何言ってるか自分では分からないが、ここまで来れば、ここさえ越えちゃえば、性交と言う名の成功までは、後一歩もない。チェックメイトも同然だ。
とか思っていると、部屋のチャイムが鳴った。
なんだよ仲居かくそッ、気が利かねえなあッ!クレーム親父のごとく僕が憤然と入口に殺到すると、そこに涼花が立っていた。
この温泉、日帰り入浴があるのである。しっかり髪をゴムバンドでまとめて、タオルと籠、それに浴衣まで借りて。今から撮影かよ、と言うようなイイ笑顔をしていた。
「慧里亜お嬢さまっ、すうと、お風呂に入りに行きませんか☆」
僕は込み上げる殺意を圧し殺しつつ、引き攣った笑顔の裏で絶叫した。
帰れよお前ッ!?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます