第3話 母の遺影と西瓜の絵と
涼花が九王沢さんに最後に会ったのは、すでに十年以上前だと言う。
九王沢さんが憶えてないわけだ。
このときロンドン在住だった九王沢さんの大邸宅に、涼花は連れて来られ少しだけ預けられたことがあったと言う。母親が仕事の用事を済ませている間、その大邸宅に放置され、親戚のお姉さんである九王沢さんに遊んでもらったそうな。
「抱っこしてもらったじゃないですか。慧里亜お嬢さま、お母さんより胸が大きくて、すっごくスタイルが良くて。わたし、お嬢さまみたいになりたくて、ずうっと憧れてたんです☆」
涼花はずっと、九王沢さんの神乳をわしづかみにしつつ話しかける。よく見ると、おっぱいに話しかけてないか。つか、いつまで掴んどんじゃい。
おっぱいが涼花の中で九王沢さんの識別条件かと疑うレベルである。にしてもいや待てよ、十年前だぞ。九王沢さん、小学生じゃないか?
「昔からうちには色んな人が、遊びに来るんです。すうちゃんのお母さんも、わたしが小さい時にはよく来てくれて。ロンドンにもお客さんが多かったようなので」
「お客さん?」
「画家だったんです。海外にも名声があった方ですよ」
九王沢さんは意味深な言葉を含んで、にっこり笑うと、
「見違えましたよう☆すうちゃん、大きくなりましたね」
「えっ」
なぜか涼花は、自分の来ているコートの
「い、いえっ、わたしのなんて!お嬢さまのに比べたら全然!」
おっぱいの話じゃねえっつうの。
「そんなことより!お嬢さま、こんな偶然ってあるんですね!?まさかご旅行中ですか!今、どこへご滞在なのですか?」
「あ、ちょうどね、この久慈川沿いの温泉宿に…」
じろりと涼花は僕の方を見た。お前に聞いてない。言葉を口にせずとも、その目が、はっきりとそう言っていた。
「すうちゃんのお家もこの近くなんですか?」
涼花はグラビア用の笑顔を見せて頷いた。
「はい!お母さまが五年前、この川沿いが気に入って別荘を新築したんです。最期は東京のお家を引き払って、ずっとここに住んでいたみたいです。すぐ、近くなんです。とってもいいところですよ?」
涼花はそこで、あざといためを作ってきた。
「えーっと…」
それまさか、僕たちに、来いっつうのか。遺産相続でぴりぴりしていると言う、資産家の邸宅とやらに。
「え…いいんですか?」
さすがの九王沢さんも天使な笑顔が、引きつっていた。
「はい!お嬢さまなら大歓迎です。わたし、お嬢さまに会えたのが嬉しくて。母が特に場所を選んで自分で設計も担当したんです。とーってもいいところなんですよ?」
またためやがった。限りなく胡散臭かった。言ってることに拭いがたい矛盾があった。大体、そのとーってもいいところから、お前居づらくて逃げ出して来たんだろうが。
「えっ、来ていただけないんですか?」
一瞬で涼花は薄幸少女な顔になった。
この顔、見たことあるぞ。僕は途端に嫌な予感がした。芝居だ。そう言えばこいつ、若手には稀有な演技派と言うことで絶賛売り出し中だったのだ。
「じゃあ、ご迷惑でなければ。少しお邪魔しましょう。那智さん、いいですか?」
「えっ、ええ…まあ、九王沢さんがいいなら僕は構いませんけど」
全っ然、良くねえ!本音を絞め殺して、僕は笑顔で答えた。
「良かったです。まさか、慧里亜お嬢さまが来てくれるなんて夢みたい。気が変わらないうち行きましょう!さあ行きましょう!」
そこで僕は、はたと気づいた。さっきのあの飛び込み自殺のふりも演技じゃないか?こいつ、九王沢さんのこと、遠くから気づいていてわざと小芝居を打ったんだ。
その遺産相続とやらでごたごたしてる家に、一人でいたくなくて。たまたま会った知り合いの九王沢さんを巻き込んだ、とか。
まさか。いや、まさか。
あまりにもあまりにもなことの裏側に僕が愕然としていると、涼花は九王沢さんの背中を押しながら、こっちを振り返ってきた。
いーだ。
口では言わなかったが今、僕にそう言う顔をした。
僕は見た。いっくらアイドル美少女だって見逃しゃしねえぞ。つか秋山すずかのイメージ変わった。くっそう、なんてやつだこいつ。思えばこれが、僕の前人未到の到達に暗雲が射しはじめた瞬間だった。
六園家の邸宅は、久慈川のかなり奥まった場所にあった。谷に落ち込みそうな場所に、ぴたりとはまった二階建ての木造。建坪は百坪ちょいと言ったところか。
黒い土壁に直角三角形の形に大きく傾斜した屋根、大きなサッシに、川を望むウッドデッキがある。
入口には真っ白な砂利がひかれ、まるで近代美術館のようだった。築五年を過ぎたようだが、やはりまだ真新しい。ガレージがいくつもあり、そこに無造作に高価そうな車が停められていた。涼花も恐らくこのどれかに乗ってここへ、連れて来られたのだろう。
「車庫もお部屋も多いんです。お母さん、病気だったから」
この立地なので在宅医療を、涼花の母親は頼んでいたのだろう。常駐の看護師に主治医、それに家政婦さんなどが、以前はここを使っていたようだ。
「どうぞ!居間から、紅葉がすっごく綺麗に見えるんですよ!」
涼花に入ってすぐのリビングを案内されて驚いた。まるでホテルのロビーだ。たっぷりと天井にゆとりを持たせたそこは、久慈川のせせらぎと爛漫の紅葉を独り占め出来る大きな一枚ガラスのサッシだ。
まるでドラマや映画のワンシーンに出てくるような、絵になる居間だった。雑多なうちの実家の寺とは大違いである。同じ個人宅とは思えない。
しかし、何だろ。この酒臭さ。みるとテーブルに水割りグラスだの、アイスバケツだの、ワインの空きビンなどがいっぱい残っていた。
この景色を肴に、誰かが昼酒していやがったのである。図々しくも押しかけて来た身で、人のこととやかく言えた義理ではないが、あまり行儀のいい風景ではない。
「涼花お嬢さま!ずうっとどこへいらしてたんですか!?皆さん、ご心配されてましたよ!?」
中年女性の声がした。家政婦さんか何かだろう。五十前後のエプロン姿のおばちゃんが、あわてて僕たちの間に割って入るところだった。
「出るなら出ると、誰かに言って頂かないと!この辺りは歩道もないし、人通りも少ないんですから」
「別にわたしの勝手でしょ」
涼花は子供っぽくほっぺを膨らませると、そっぽを向いてみせた。
「…それに、わたしが心配なんじゃない。死んだお母さんからもらえるお金がただ、心配なだけの癖して」
女性はそれは聞き流した。
「うちの娘と児玉さん、二人で探しに行ってくれてるんですよ。すぐ呼び戻さなきゃ。あれ、こちらは?」
「本家の慧里亜お嬢さま。たまたま旅行でいらしてたから、連れてきました」
涼花の硬い声に、なぜか女性は急反応だ。
「本家って、あの九王沢さまのお嬢さま!?えっ、そんなまさか!?」
九王沢さんが名前を名乗ると、ちょっと胡散臭そうに僕たちを見ていた女性の態度が一変した。何やらここでも、得体の知れない九王沢家のネームブランドの威力が発揮されている。
「
「
九王沢さんが初めて口にした。涼花のお母さんは、靜子、と言うのか。伊東さんは遺影のある場所に案内してくれた。こんな家だから仏壇や仏間があまり似合いそうな雰囲気ではなかったが、故人を偲ぶべき場所はきちんと遺してあるのだ。
だが驚くべきは、僕がその遺影に初めて接した瞬間のことだ。小さなポートレートには笑顔の柔らかなショートカットの女性が映っている。恐らく四十前後だと思うが、世間一般のそれより若作りで、二十代後半でも通る感じだ。
しかしどこかしら何か親近感があるのは、隣にいる涼花と面差しに共通点があるからか。いや、違う。この顔は、なぜかそれより以前に見たことがあるのだ。そんな馬鹿な。
「あっ…」
僕は思わず息を呑んだ。
そうだ、この人も芸能人だ。六園靜子。こっちもどこかで聞いた憶えがあると思った。女優の
「お母さんも女優です。若い頃やめちゃったし、非公表ですけど」
涼花の硬い声が響く。文春砲どころじゃない。ここ、暴露本でも書けそうなトップシークレットの宝庫だ。
「靜子さんが女優をされていたのは、二十歳くらいまでと聞いています。それからは以前から勉強されていた油彩画で、美術大学へ入り直したはずです」
なんと絶頂期に、女優を辞めたのだと言う。
しかもそれから美大に入り直して、二年後にはもう国内で賞をもらっている。全然知らなかった。本人の希望でメディアも、ほとんど取り上げなかったのだ。祭壇に彼女の絵らしいものが一つ、かけてあった。静物画だ。
外国のものらしい縞模様の薄い
それに西瓜の果肉の表面に何かが書いてある。どうも英語ではなさそうだ。僕が読みあぐねていると、
「『ビバ・ラ・ビーダ』」
と、九王沢さんが果肉に描かれた文字を読んだのはそのときだ。
「これは模写ですね。メキシコが産んだシュールレアリストの女性画家、フリーダ・カーロの遺作を模したものです。靜子さんは二十五歳のときにフリーダ・カーロの作品に遭い、これまでの技法をすべて捨て去って、画風を一変させました。フリーダが棲んでいたコヨアカンにも何年か住んだそうですよ」
「へえ…」
よく判らない。
て言うかこの西瓜の絵が、そんなに衝撃的なんだろうか。そう思ってコメントを
「わたしには全然、分からない。どうしてこんな絵がいいのかな。こんな、絵なんかのせいで、いつもわたしのこと、ほったらかしにして勝手に外国に住んだり、田舎に家建てたり。信じられない」
さすがにこの涼花の独白には、九王沢さんも切ない気持ちになったのだろう。
「靜子さんがフリーダに衝撃を受けたのは、理由があることと聞いています。…お母さんには、お母さんなりの事情があったんだと思いますよ」
気まずい沈黙が、僕たちに降りてきた。だが内心、僕も涼花に同情する気持ちだ。しかし広瀬靜子がそれほどまでにこの何の変哲もない西瓜の絵に入れ込む理由って、一体なんだったんだろう。言うまでもないことだがここでいくら考えても、判ると言うものではない。
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