第2話 飛び込みヒロイン

 奥久慈の地名の由来である久慈川は、福島県を水源として日立市から太平洋にまで注ぐとてつもなく長い一級河川だと言う。しかし名前の由来である『久慈くじ』はこの久慈郡の地形から来ているそうな。


 九王沢さんによると『常陸風土記ひたちふどき』に、大和尊やまとたけるがこの奥まった地形に到った時に、その辺りの山だか小高い丘だかを見て、


「うわー、鯨鯢くじらっぽーい」


 と、言ったことに由来する。確かに見ての通り、周囲の山は、高いが切り立った稜線りょうせんではなく、ちょうど海坊主みたいにもっこり膨らんで円いのだ。


 まあ、別にそれはそれとして。


 今、大和尊の名が登場したように古くは古代史、鎌倉中世以来の由緒、と言う史跡の残る閑静なたたずまいの通りに、あの九王沢さんが感動しないはずはなかった。


 それを知らなくても、ところは谷あいの静かな街なのである。表通りはどこを歩いても見事な紅葉に久慈川の清流。しかも熱海や草津ほど観光地化されておらず、一日中自然の中で散策できると言う、とても心地のいい土地柄。


 お宿はもちろん、この清流の畔の温泉旅館だ。早めにチェックインして、僕たちは街を散策する。


 邪魔者は一人もいない。今、僕たちは正真正銘の二人きりだ。



(これだ)


 このシチュエーションが欲しかったのだ。石を投げれば同じ大学生に当たる、そんな場所では二人きりになっても必ず邪魔が入ったし、第一、ムードのむの字すらない。その点、人の少ない温泉街、一見年寄り臭く見えるがそれはベストの選択だった。


「那智さん、最高のお誕生日になりました。ありがとうございます。わたし、すっごく幸せです☆」

 と、ほくほく顔の九王沢さんと、つないだ手の感触のなんと心地よいことか。ここに誰も僕たちを知る者はいない。九王沢さんを独り占めである。

「フロントの方にうかがったんですが露天風呂から、久慈川が見えるみたいですよ」

 真っ赤な紅葉が散り敷くせせらぎを見つめながら、九王沢さんは言った。

「帰ったら、一緒にお風呂入りましょうね?」

「一緒に!?」

 思わず聞き返すと、自分の言ったことの意味に気づいたか九王沢さんの顔が真っ赤になった。

「一緒にって…あのっ、そう言うことじゃないです。大浴場に…露天のお風呂に帰ったら入りに行きましょう、と。あくまでそう言う意味で」

「う、うん。分かってるよ。分かってる。外のお風呂ね。帰ったら、別々に行こうね?」

 僕は急いで言った。すると、何かを思い出したのか、九王沢さんは眉をひそめて唇を噛むと、意を決したように言ったのだ。

「おっ、お部屋のお風呂も、露天のお風呂でしたよね…?」


 僕は絶句した。その瞬間、どん、とぶち当たるくらいの勢いで九王沢さんが自分の身体を僕に預けて来たから。


「えっ、それってどう言う…?」


 思わず、問い返してしまった。恋人同士だから同じ部屋をとったけど、一緒にお風呂まではさすがに踏み切れなかった。しかしそこを、九王沢さん自ら踏み込んで来てくれるとは。


「し、知りません!」

 涙目になりながら、九王沢さんはそっぽ向いた。


 な、なんと言うことだ。今日は九王沢さんの誕生日だが、完全に那智の日である。さっきの雑誌の件もそうだが、九王沢さんも頑張って僕に踏み込んで来てくれようとしているのだ。


 ようし。ならばここはいつもより一歩、僕も思い切って踏み込んでみるか。


「じゃ、じゃあ、まだ、明るいしさ。暗くなったら一緒に入ろうか…?」

 恐る恐る僕が切りだした時だ。


 九王沢さんはきっと僕を睨むと、一転、とても切なそうな顔で、こくん、と頷いた。この時、僕は前人未到の到達点を予感した。水着に次いで、なんと裸体解禁である。躍進だ。なんとついに、脱いでくれると言う。グラビアカメラマンか僕は。


 こうなると、もはや景色どころではない。どうやってさっさと引き返そうか、ちょっと泣きそうな顔の九王沢さんと僕が無言で歩いているとだ。


 五メートルほど先。渓流に佇んで、白いダッフルコートにチェックのスカートの女の子が崖をのぞき込んでいた。ちょうど、高校生になったばかりだろうか。ぴったり切り揃えたショートカットの襟足がまだ幼く、初々しかった。


 まるで子猫のように顔が小さく、伏した大きな瞳の睫毛も遠くからそれと分かるほど長かった。まだ膨らみは幼いが、足もすらっとして長く、健康的な美少女だ。ちょっと少年誌のグラビアを飾りそうな感じではある。


 地元の子?…にしては、ちょっと垢抜けすぎてないか。


 九王沢さんと二人で見ていると、その子は、手すりを乗り出してしきりに飛沫がかかる、真っ赤な紅葉散り敷く岩場を見ていた。ふと見渡すと周りには、その子の他は僕たちしかいない。おかしいな。彼女も旅行客、にしてもまだ、一人で来れるような年齢でもないはずだ。


 そう思っているとその思いつめた顔のまま、その子は手すりを乗り越えて崖下へ飛び出そうとしたのだ。


「ちょっ、ちょっと!ちょっと待ったあっ!」


 僕たちは急いでその女の子を、断崖から引き戻した。僕が腕を曳き、その隙に九王沢さんが、引き剥がそうと暴れる身体をしっかりと抱き止める。



「はっ、放して下さいっ!放してッ!」


 その間も甲高い声を上げてその子は、抵抗を止めない。こんなに必死になるなんて、やっぱりそうだ。この子、ここから飛び降りようとした。まさかの飛び降り自殺だ。


「落ち着いて!とにかく、早くこっちにっ」


 僕はまず、九王沢さんの背側に陣取って揉み合う二人が落ちないようにした。そのままどうにか手すりを越えさせたが、女の子は泣きじゃくって手に負えない様子だった。


「いいんですっ!ほっといて下さいっ!もうッ!ほっといてッ!」

「落ち着いて下さい。まず深呼吸を。…大丈夫、大丈夫ですから。そう、大きく息を吸って」


 震える身体を抱き止めて九王沢さんが、根気よく話しかけると、半狂乱になってかぶりを振るばかりだった彼女は段々と、呼吸が収まってきた。


 どうやら発作的行動だったらしい。事情は分からないが、ほっといてほしいを繰り返した女の子は、自分を取り戻すと、怯えた目で断崖を見やって、九王沢さんの身体にしがみついてきた。


 なんてこった。この平和な温泉街で、あろうことか、飛び込み自殺なんて。しかも、こんな若い子が、である。


 さすがにこれは放ってはおけない。



 九王沢さんがなだめている間、僕は飲み物を買いに行った。僕が温かい缶コーヒーを二人に手渡すと、その頃には彼女はもう落ち着いていて、かすかな声で九王沢さんの呼びかけにもちゃんと応えるようになっていた。



「ご、ご迷惑をおかけしました。…もっ、もうっ大丈夫ですから」

 まだ泣きべそを掻きながら、彼女は缶コーヒーを受け取った。

「君、地元の子?まさか一人で、来たわけじゃないよな。親御さんは…?」


 ちょっと踏み込んだ僕の問いかけに、その子は、はっとした表情をしたが、やがてまた面を伏せてまた塞ぎこんだ。どう見てもワケありである。


 この子に関わると、九王沢さんと混浴が遠のく。だがほとんどもらい泣きしている九王沢さんの、心底心配な顔を見ていると、やっぱほっとけない。ほっておけない…ですよね。しょうがない。


「近くにおうちがあるそうです…」

 九王沢さんが、その子の背を擦りながら言った。なんだ、やっぱ地元の子じゃん。するとその子は、大きくかぶりを振った。

「昨日、東京から。…明後日まで、どうしても居なきゃいけなくて」

「それが嫌になったの?」

 彼女は大きく頷いた。

「…しばらく一緒にいてあげましょう」


 僕は頷くしかなかった。っくしょう。こーんな厄介ながきんちょのせいで、おっぱいが僕から遠ざかっていく。なんて下衆なことは口が裂けても言えなかった。



 彼女の名前は、六園涼花りくえんすずかと言った。高校一年生らしい。学校は、あんまり行ってないらしかった。


「ちょっと、忙しくなってきて…」

「そ、そう」

 聞き流したが今、謎の言葉を彼女は口にした。忙しい、って。学校生活以外にこの年頃の女の子が忙しいことって、他にあるんだろうか。

「やっと休みが取れたと思ったら、お母さんのうちに来い、って。…でもわたし、行きたくなくて」

「おうちにはお母さんが、いるんですね?」

 涼花は首を横に振った。



 母親はちょうど一年前に、亡くなったらしい。この子の母親だからまだ若いと思うが、病気を患い、晩年はこの奥久慈に買った別荘に隠棲していたと言う。学業の問題もあり、早くから彼女は都内の別の家庭に預けられ育てられていた。


 その母の死後、一年して遺産相続が行われ、そのために涼花はここへ呼び出されたらしい。資産家だったその母親の住んでいた家には今、相続権のある親戚たちが集まってきていると言うのだ。


 その彼らの目当ては自分の相続分でもあるが、未成年の涼花の後見人になることらしい。母親はもちろん娘の涼花に遺産の大部分を遺すだろうからである。


 涼花は今、祖母の妹(大叔母おおおばである)の家に養われているが、健康上の問題があり、新しい後見人を立てたがっている。親戚たちは当然、その座を狙って涼花におもねってくるのだそうな。



「わたし、お母さんの遺産とか、どうでもいい…それなのに皆、わたしの機嫌とったり、わざと叱りつけたり、脅かしたり…だからもう、一緒に居るのも嫌になって」

「お母さんの居なくなったうちにいるのが、辛かったんですね…」

 もう、九王沢さんは完全に涼花に感情移入していた。これ、家がお金持ちだからこそ共感出来る話である。


 しかし、何たる重たい運命だ。庶民の方がよっぽど気楽だ。僕なんか高校生くらいのときは、毎日なーんにも考えず、気楽に遊びまわっていたと言うのに。


 彼女はなぜだか忙しい上に、犬神家級の厄介な遺産相続と親戚関係を背負わされている。到底、僕たちの手に負えるはずもない。大体なんでこんな高校生なのに、忙しいのだろう。んんっ?


「ごめん、さっきからなーんか気になってたんだけど…」


 僕は恐る恐るスマホを取り出した。六園涼花。その顔だちと言い、どこか見覚えがあるのだ。気になる名前で検索してみると、先週暇つぶしに買った少年誌の表紙がぽんと出てきた。そう言えば表紙グラビアに出ている、ショートカットの女の子。


「きっ、君まさか、秋山すずか…?」


 すると涼花は、サーチライトに発見された脱獄囚みたいに目を剥いた。いきなり僕に、すんごい警戒心である。分からなくもない。


 だって秋山すずかと言えば、最近出たてのアイドル女優の中では熱狂的なファンが多い女の子だ。先ごろ、漫画原作の映画に出てヒロインを演じ、若干十六歳にしてあっさりと最優秀新人賞をもらった。


 ここにヲタの文芸部の連中がいたなら、狂喜乱舞して大騒ぎしたろうが、リア充の僕には若干の余裕がある。涼花が抱きついている九王沢さんが、僕の彼女だからだ。



「テレビに出てる方なんですね…?」

 九王沢さんも、いまいち反応が薄い。現今のメディアにあまり関心がないのだ。

「あ、いや、ごめん。君が秋山すずかだから、どうこうってわけでもないし、今見たことは誰にも話さないから…」

 じとっとした目で僕は見られた。そんなに僕、信用が薄いんだろうか。

「那智さんは、大丈夫です。絶対他の人になんか話したりしませんから。ね?」

 僕は、がくがくと頷いた。内心、本音を必死で殺していた。


 話したい。人に自慢したい。芸能人に会ったのである。それが庶民の偽らざる本音だ。だってあの秋山すずかの手を僕が引っ張ったのだ。だが誰にも話せるわけない。遺産相続トラブルに自殺未遂なんてスキャンダルもいいとこだ。文春砲炸裂である。僕はあわててスマホを仕舞い込んだ。


「て言うか、じゃあわたしも言っていいですか?」

 すると、涼花が突然、圧し返してきた。


 なんだろう。そう思っていると、涼花は恐ろしいことに、ぐいっと掴んだのだ。九王沢さんの巨乳を。何してくれてんだ!?


「もしかして慧里亜、お嬢さま…?」

「えっ…ええっ?」


 まさかの知り合いである。九王沢さんは目をまん丸くして涼花の顔を見ていたが、検索に引っかからないらしく、涼花に胸を掴まれたままでいた。


「お忘れですか?わたしが小っちゃい頃、ロンドンのおうちでよく遊んでくれましたよね?分家の涼花ですう!」

「もしかしてすうちゃん?」


 僕は思わず、絶叫するところだった。あーあ誰かにしゃべりてえ。でも誰にもしゃべれねえ。まさかのまさかだ。秋山すずか、九王沢さんの親戚かよ!?

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