第1話 誕生日の脅威

 深い山を縫ってトンネルを抜けると、右手に海が見えた。


 切り立った山の端が途切れ、眼下に常陸ひたちの海が広やかに拓けたのだ。

 これで九王沢さんが喜ばないはずはない。



「ほらっ!海ですよ那智さん!常陸の海です☆」


 いや僕も見たいのだが、九王沢さんがせっつく方向に、注目するわけにはいかない。何となれば僕は自分の命とハンドルと、何より大切な九王沢さんの命を握っているからである。


 とにかく、絶景へ首を無理やり動かそうとするのだけはやめてほしい。やめて。いたっ。死んじゃうから。


 今いる場所はなだらかに山裾を降っていく、崖沿いのトンネルなのである。

 て言うか九王沢さんのせいでさっきセンターラインを割って長距離輸送の十トントラックにパッシングされたばかりだ。景色がいいのは分かったから。五分でいいから少しじっとしていて欲しい。



 僕たちは今、北茨城きたいばらきにいる。


 実家から借りた車で、秋の旅行中なのだ。晩秋になり、紅葉もますます深くなって、常陸の山は行楽シーズン真っ盛りだ。天候にも恵まれて本当に、言うことなしだ。学校とバイトをサボった甲斐があったと思う。


「本当に来てよかったですね☆」


 たぶん九王沢さんは満面の天使の笑みで微笑みかけているだろう。慣れないハンドルを握りながら、僕は頷いた。そこは大賛成である。


 だって感無量と言っていい。あの九王沢さんと、完全二人きりでお泊り旅行が出来るなんて。



 この十一月二十五日は、九王沢さんの誕生日だったのだ。僕など想像もつかないほどに超級セレブな九王沢さんにはもはや何をプレゼントしていいか分からないほどだったが、それでも半年前から僕はせっせとバイト代を積み立てておいたのだ。これぞ今年こそ、今回こそは、と言う思いの一念である。



 思えば、付き合い始めてから最初の誕生日だ。僕は誕生日の半月前から悩みに悩んだ。恥を忍んで依田ちゃんにも、相談した。露骨にうざがられた。思うさま罵られた。


「もおッ馬鹿ですかっ!?馬鹿って言うのもそろそろめんどいですよ!毎度毎度、のろけだか愚痴だか、死ぬほどどーでもいいことを相談されるわたしの身にもなって下さいッ!もう季節ひと回りしてるんですよ!?プレゼント?はっ!先輩が手に入れることの出来るもので、あの九王沢さんが欲しいと思うもの一つだってありますか!?それくらいわたしに頼らずとも、常識として考えて下さいよ!」



 そうだよなあ。そもそも僕の誕生日だった三月八日には、プレゼントをもらう方が困る、と言うような異様な事態が発生したのである。


「那智さんて、確かミスチルがお好き、なんですよね…?」

 誕生日の一か月前だ。九王沢さんが、ふと尋ねてきた。

「う、うん。酔っ払ってまあ、よく歌うけど」


 でも好きなだけあってアルバムからツアー映像から何から、あらかた持っている。酔っ払っては大好きな歌を聞いて何度でも泣くし、たまにはツアーのチケットも取れたときは行くけど、それほど熱狂的ってわけでもない。


 だが九王沢さんはその美しすぎる眉根を寄せてしばらく考えていたが、ふと僕を魅惑の上目づかいでみると、とんでもないことを言った。


「…その方たち、お誕生日にお呼びましょうか?」

「遠慮します!」


 冗談とは思えないトーンだった。この子、目が本気だ。確かにミスチル来たら気絶するほど嬉しいがそんなことは天地がひっくり返ってもあり得ないし、もしあったらあったで、色んな人にかかった迷惑を想像し、死ぬほど申し訳ない気分になる。


 ともかく笑えないのは、普通の人ならいざ知らず九王沢さんなら、実現しかねない、と言うことである。全貌はまだ明かされていないが、九王沢家の財力とコネクションは、軽くワールドワイドな範疇なのだ。


 結局そのときは、土鍋を買ってもらった。一人暮らしの友達同士、ご馳走持ち寄って鍋パーティやるのが流行っていたので、うちにはちゃんとした鍋がなかったからと言い張った。


 彼氏の誕生日に土鍋。と言うセンスもどうかと思うが、この土鍋を見たとき、僕は心底ほっとしたものだ。


 だがこれ、どこにも似たの売ってないな、と思ったら、名前は出せないがある人間国宝が焼き上げた逸品で市場に出回るはずのない作品だった。


 特別に焼いてもらったのか(たった一か月で出来るものか?)元々存在したのを頼み込んで譲ってもらったのかは知らないが、話を聞きつけた好事家、と言う人が九州からわざわざ僕に会いに来た。袱紗の包みの中に五百万円ほど札束を包んで譲ってくれと言うのだ。



「だめです!このお鍋は那智さんが鍋パーティでお友達と使う大切なものなんです!そもそもそんなお金なんかでっ、那智さんの大切なお鍋に、価値などつけられません!」

「きっ、きさんらっ!そん先生のお鍋でっ、ま、ま、ま、まさかっ!もつ鍋ばしちょるとか!?」

「昨夜はキムチ鍋でした!」


 と、九王沢さんが泣きながら断固断ったので(どんな断り方だ)、その人のショックは計り知れず、引き攣った悲鳴を上げながら帰っていった。


 だがこの件で真の価値を知った今、肝心の僕は逆に怖くなってもつ鍋とかキムチ鍋とか出来ないまま、寒くなっても台所の棚に仕舞ってある。




 で、今年、僕の番である。プレゼントは旅行なのでまず九王沢さんと意思と予定を確かめなきゃと思い、早めに切りだしたのだが、九王沢さんは二人きりで旅行、と言った瞬間に放置された池の錦鯉のようにぐいぐい来たのだ。


「那智さんと二人きりで、旅行!?行きたいですっ、あらゆる予定を排除して何をおいても日取りは死守します!で、どこに行きましょうか?パリでもニューヨークでもドバイでも香港でも知り合いがいますから、宿泊と観光は任せて下さい!…あっ、パリはどうでしょうか。今ならまだ寒くありませんし、ちょうどワインの収穫祭の時季なのでどこへ行ってもお酒が飲めます。実は、叔母がボルドー地区のシャトーに嫁いでいて」


「いや、あのっちょっと待って落ち着いて!(さすがにこの超反応には焦った)これっ、あくまで九王沢さんのお誕生日だからさ。九王沢さんや九王沢家の人にお世話になったらプレゼントにならないでしょ?…さすがにちょっと海外には行けないけど、ともかく旅費は僕持ちでプレゼントしたいと思って。…その、奥久慈おくくじって言って北茨城の山の中に、温泉旅館があって、今、紅葉が綺麗なんだけどね」


 恐る恐る切りだすと、九王沢さんは感涙して身もだえした。


「おっ、温泉旅館っ!?…わたしぜひっ、どんなことがあっても、そこにしたいです!しかも那智さんと二人きり。わたし、なんて幸せなんでしょうか。でもいいんですか?本当に、わたしで!?」


「そりゃ、九王沢さんのお誕生日だからね」


 あーたが行かなきゃ誰が行くんだ。心の中でそう突っ込みながらも、これだけ喜んでもらえた感動に僕は浸っていた。


「で、一応さ、お誕生日ど真ん中は他に祝いたい人もいるだろうから、日取りは少し外して」

 と言うまでもなく、九王沢さんはその時点でスマホを取り出していた。


 手遅れだった。気づいたときには、九王沢さんはあらゆる場所に予定の確保を連絡してしまったのだ。


「二十五日は絶っ対駄目です!…はいっ、前日から明後日いっぱいまで(二泊三日の旅程なのだ)。月末までのすべての予定を、今すぐクリアしてください。…(さらに別に電話をかける)申し訳ありませんっウィンズロウ准教授、はい、例の那智さんと二人きりなんです。二人だけの大事な行動予定なので…(国際電話、しかも英語)アロー、スージーさん、父はウェブ会議中ですか?では、母に代わって下さい。あっ…お母さま、今年は、那智さんと二人きりの大事な旅行に行くので!お泊りですから!だから、帰国はできません!」

「あっ、ちょっと…」


 図らずも、九王沢さんのお母さんにまで知られてしまった。

 あーあ、もう何があろうと後には退けないぞこりゃ。



 て、わけで前日一足早く帰郷した僕は、千葉の実家から車を借りてきたのである。都内で九王沢さんを拾って、約二時間。秋晴れの中、車が少ない常磐道をひたすら北上し、那珂インターで降りて、一路、奥久慈おくくじへ。


 山に抱かれる道に出た瞬間、来てよかった、と心から思った。


 常陸の山の懐は深く、色鮮やかな紅葉と銀杏でどこも真っ盛り、見事なばかりの色彩の海だ。早朝からの長いドライブで眠たくなる頃だが、九王沢さんは一睡もしない姿勢である。大成功だ。


 しかしこの大成功は、すでに想定内の出来事である。真夏の合宿と日本の海水浴といい、九王沢さんが何で喜ぶかなど、分かり切ったことなのだ。問題はこの成功を次の到達点に持って行くことだ。ここは、通過地点なのだ。そう行くは、今まで誰も突っ込めなかった場所に。


 やっちゃえ那智さん。


 ありていに言えば、この成功を『性交』につなげることこそ、僕の最大の目的なのである。思えば僕は前漢の劉邦や、足利尊氏もかくやと言う惨敗につぐ惨敗を重ねてきた。


 恋人たちの性夜のはずのクリスマスですらも失敗し、開放感抜群の真夏の海も惜敗を喫した。ぶっちゃけもう、後がないのだ。


 だが何しろ相手は、天下の覇権に匹敵する稀にみる大物である。いわゆる大物喰いジャイアント・キリングにはそれ相応のリスクも犠牲もあってしかるべきだったのだ。


 しかし僕は王手を確信していた。あわてる那智はもらいが少ない、前回あと一歩で涙を呑んだ真夏の海で、僕は九王沢さん自ら、リベンジOKの言質を頂いたのだ。



「今度はちゃんと最後まで続き、して下さいね?」

 からの二人きり旅行である。しかも二つ返事の上、なんと言うこの喜びよう。


 二人きりってことは、二人きりだぞ?どういうことなのか、ここで活字にして言えないが、九王沢さんも嫌じゃない。つまり、そう言うことなのである。



 その証拠に、すでに尋常じゃない事態が起きている。

 さっきトイレ休憩でインターに停まった時だ。


「運転お疲れ様です。缶コーヒー買ってきますね☆」

 と、九王沢さんがシートを立った瞬間に、バッグからこぼれたのである。


 高村光太郎の詩集と志賀直哉しがなおやの短編集と一緒に。よくある、女性向けの成年雑誌の特集だった。『彼氏と初めてのお泊り旅行』『今度こそ彼氏に退かれない!エッチを成功させる10のポイント』…僕はそれを見た途端、硬直してしまった。


「ああっ!」


 いつ戻って来たか九王沢さん、あわててそれを隠した。顔にフィルムを張ったのかなと思ったくらい、真っ赤になっていた。


「あのっ…これはそのっ、違うんです!依田さんが、絶対持ってけ、って言うから…わたしのじゃないんです、依田さんがっ無理やりっ!」


 九王沢さんはそれから静かになって、ちょっと口を利いてくれなかったが。


 来ている。流れは、完全に来ている。

 つまり、ここは突っ込むしかないのである。今日はついに、来るべき日が来たのだ。

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