九王沢さんにまたしても誰も突っ込めない
第1話
「
ひどく切迫した眼差しで九王沢さんは僕を見上げる。生ぬるい夏の闇の中で彼女はかすかに息を荒げ、生々しく芳しい呼気の気配がする。
ぐいぐいと、身を寄せて来る豊かすぎる胸の奥の鼓動がどくんどくん、直接僕の心臓をも刺激してくるみたいで。ああ。
「もっとこっちに来てください」
これ以上。彼女が
「だ、だめっ、お願いです…離れちゃ…いやっ」
ぎゅっと身体を抱き寄せて九王沢さんは切なさを訴えた。しどけない色を帯びた大きな瞳が切なそうに潤んで光っている。
「何があっても離れないで下さい…」
やましいことをしているわけではない。
この点は断じて誤解しないで頂きたい。いや、恋人なのだし、まあ普通にエッチなこともしたいのだが、こんなに天使な九王沢さん相手に僕が、突然そんな思いきったことが出来るはずがない。
疑うなら、周りをみてもらいたい。外の光は月明かりと、はるかな街灯の明かりだけ、夏の海鳴りの音がそこはかとなく流れたりしている藪の中である。
やぶ蚊まみれ、しかも篠藪で風が抜けないのでやたら蒸し暑い、と言うまさにムード満点の場所だ。そしてさらには、僕たちの前に立つ朽ち果てた史跡の表示。
『
戦国時代には、ここはいくさ場だったらしい。古い土地に詳しい九王沢さんが無駄に調べてくれたのだが、この海沿いの森一帯が『
夏の合宿で僕たちは南房総にいる。
引きの強いことでは定評がある依田ちゃんが、僕たち貧乏学生のために勝浦の海沿いの激安民宿を発見してくれたのだ。
多少ぼろくとも、海岸に近くて地元漁師の新鮮な船盛りがサービス、と言うオンシーズンの釣り宿を確保してくれた依田ちゃんの強運は並みじゃない。
「民宿ですか!?はいっ、わたし何をおいても参加します!」
九王沢さんも、目を輝かせると大喜びでついてきた。
恐らくは山の上にでんとそびえるあのリゾートホテルのロイヤルスイートでも九王沢さんはさほどびっくりしなかっただろうが、古い船宿はやっぱり九王沢さんのど真ん中で、到着して二時間後には女将さんやお宿の子供たちとすっかり仲良くなる始末である。
「綺麗な海ですね!わたし、すぐ泳ぎたいです!」
と、はしゃぐ九王沢さんを後目に僕たちはと言うと観光客でごった返す海水浴場に半ばうんざりしながら、海の家でだらだらビールでも飲む算段などしていたのだが。
「何やってるんですか那智さん皆さん!早く海へ行きましょうよう!」
この夏、全文芸部員が驚愕した。
伝説級のHカップを持つ九王沢さんの水着姿が、ついに解禁になったのである。
破壊力は予想以上、と言うか我々は沈黙するしかなかった。
正直今から海岸にゴジラが上陸しても、これほどの衝撃はなかったろう。
九王沢さんが択んだのは、ホルターネックの白。正統派の三角ビキニだ。胸といい、腰回りからお尻といい、この水着はあらゆる部分に誤魔化しの効かない、覇王のアイテムなのである。
少年漫画もラーメンもカレーもそうだが(我ながら何たる貧困な語彙だ)、王道直球と言うのが最も難しい。しかるに九王沢さんの場合はこれは『正解』と言う他なかった。たった一つの完全正答。これ以外に、九王沢さんが手に取る水着は、他にあろうか。
「変、でしょうか…?依田さんに、海岸に出るのには勝負水着、と言うのが必要だとうかがったので、お買い物に付き合って頂いたのですが…」
さりげなく僕の腕を取ると、九王沢さんは心配そうにこっちを見上げてくる。
「いや…その、よく似合ってるよ」
むしろ、僕は狼狽えていた。なんて言うか、こんな月並みな表現しか出来ない自分がほとほと嫌になる。
「先輩、失礼じゃないですか。この夏、勝負水着を選んだのは、九王沢さんだけじゃないんですよ!?」
花柄のフリルのついた水着を、なぜか依田ちゃんはやたら見せびらかしてくる。
「ああ、依田ちゃんもね。うん、それっぽくていいんじゃん?」
なんでこいつが相手だと、こうやってさっさと言えるのだろう。
「はあ!?それっぽいってなんですか?どういうことですかっ?」
「ああ、依田ちゃんっぽいって意味。似合ってるんじゃない?」
「じゃないってなんですか!どうでもいいってことですか!せめてはっきりしてください!誉めてるんですか、けなしてるんですかあっ!?」
「あー誉めてる誉めてる」
って言うかどっちでもない。妹感覚と言うか、近所の年下の幼なじみとかが、知らない間に年頃になったんだなあ、と言う、何この素通り感覚。
そもそも、勝負と言うのは、五分五分の危うい境界線を狙って、あえて挑むものだ。半か丁か、一か八かと言うあれである。しかるに九王沢さんの場合はその勝負水着、と言うのを選んだ時点で、すでに勝負は決していた。
僕はこんな光景、初めて見た。九王沢さんが僕の腕をとってビーチを行くと、眼前の人波が割れるのである。まさに十戒のモーゼのごとく。
それは万人に一人、と断言したくなるようなHカップの神乳のせいばかりではない。グラビアモデルもかくやと思われる九王沢さんの水着姿である。
人いきれでむせ返るようなビーチが一瞬、水を打ったように静かになったと言う、錯覚すらしたほどだ。
こうして僕たちは誰にもぶつからずに、海水まで到達した。この異常事態に僕たちですら唖然としたものだが、九王沢さん本人は無邪気に依田ちゃんたちとビーチボールやボートなどを膨らませて、どんどん沖の方へ出て行ってしまう。
僕たち男も、都内から永くて暑いドライブを経て、折角の待望の海(と女子たちの水着だ)だ。なぜかちょっと前かがみになりつつも、ざぶんと冷たい海水に浸かったのだが、まあそれは長く続くわけもなく。
午前中で疲れた。こちとら文芸部である。体力に全く自信のない、ありていに言えば、選りすぐりのへたれどもが集まっているのだ。
さんさんと夏の陽を浴びて女の子たちが浪間を泳ぎ回ったり、元気にビーチバレーをする中、一人、また一人と抜け、殺人的な夏の太陽に堪えかね消えていった。扇風機とかき氷、そしてビールがある海の家へこそこそと脱出するのだった。
かくいう僕も暑いのと運動は大の苦手である。どちらかと言えば、薄暗い場所とお酒が大好物だ。心身共に不健康がデフォルトなのだ。と言うわけでまるで病み犬のようにぜえぜえ言い、汗と海水で貼りついた前髪を拭いつつ、さりげなーく僕も癒しの避難所へ旅立とうときである。
「どこへ行くんですか、那智さん?」
ひっしと九王沢さんに腕をつかまれた。
「いや、ちょっとトイレに…」
「さっきも行ったじゃないですか?」
天使の笑みで九王沢さんは返してくる。
気が付くと、がっちりと僕の腕はロックされている。水着の神乳が、タコか藤壺みたいに僕の腕を取りこんでくる。うっ、身動きがとれない。
「それより、泳ぎに行きましょう。あそこの岩場まで行ったら、海が綺麗ですよ☆」
九王沢さんは遥か彼岸を指して言う。冗談じゃない。ビールと扇風機から、あんなに離れるなんて僕には出来ない。
「いや、ちょっと僕その、用事が…」
「一緒に泳ぎましょう☆」
と、言われて僕が、九王沢さんに逆らえるわけがない。
しかし、うかつに返事をしてしまったのが、運の尽きである。
人柄としてはおっとりした子だが、九王沢さんの隠れた日課は水泳なのだ。日本に来てから季節を問わず、会員制ジムのプールで泳いでいるのを僕は知っていた。
Hカップの爆乳からくる肩こりの解消が目的らしいが、キロ単位の遠泳をこなし、バタフライも出来る本格派なのだ。そんな人と泳いで、僕が勝てるはずがない。
案の定、間もなく僕はガス欠である。午後にはついに顔色が青白くなり、海の家の誰も来ない陰でげっそり体育座り。もはやビールを飲む気力もなくなった。
「那智さんっ、焼きトウモロコシとビールですっ。ほらっ、焼きそばも!」
「うぷっ…ありがど…」
あんなに楽しみにしていたのに、吐きそうになってしまった。これが所詮、九王沢さんのようなメジャーと日陰者の僕との違いである。
それにしても、世間の見る目は得手勝手だ。まるで無法者の荒馬につながれてずたぼろになるまで引きずり回された感のある僕に対して、世間の評価はこれである。
「ふざけんな!!」
ビーチで九王沢さんは、僕の話しかしなかったらしい。さらにはどこへ行っても、九王沢さんが僕の腕をとって離さないので、下手なナンパも一分の入り込む隙がなかったようなのだ。
「
てわけで直々の部長命令が下り、夜は肝試しが決定した。どうも近くに絶好の心霊スポットがあるらしいのだ。
つまりは九王沢さんを怖がらせて、抱きつかれたりして、真夏などきどきイベントを発生させよう、と言う下らないにもほどがある魂胆の企画なのだが、
「反論は許されない。てゆうか那智、お前は九王沢さんと組むの禁止な?」
「はあ…」
しょうがなく僕は承知したが。
まあ、これからの展開が何となく読めなくもない。
つまり問題は。
果たしてあの、九王沢さんが怖がるか、と言うことである。
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