第2話 苦悶の聖夜
九王沢さんが目覚めて宿泊費を出してくれるまで、この部屋を出る術はない。て、言うかラブホだ。
「ラブホテルって…どんなホテルなんですか?」
って訊かれたら、九王沢さんになんて説明すればいいのだ。
前後不覚になったところを、連れ込んでいるわけである。しかもまむしドリンクだ。九王沢さんの純潔を証明するのには、言葉は余りに無力だ。
「ええいこんなものっ!」
僕はまむしドリンクを飲まずにトイレに流した。ごめん依田ちゃん。だってこれ、下手したら犯罪だよ!?いくらやりたくたってこれは無茶だ。
て言うかそんな僕の苦悩も知らず、九王沢さんはラブホの派手な回転ベッドで、日向の子犬みたいに寝こけている。あ…でもよく見るとなんて柔らかそうな
(いっ、いや馬鹿!頭を冷やせ!)
産まれて初めて、自分で自分を引っ叩いた。まむし棄てただろう!そうだ冷静になるのだ。まず、頭を冷やそう。
「シャワーでも浴びてこようか…」
これが大失敗だった。
五分後、丸まって爆睡する九王沢さんの前で、仁王立ちするバスローブ姿の僕。
これじゃ、やる気以外のナニモノでもないじゃないか!?
酔いを醒ますためとは言え、シャワーを浴びたのがまずかった。やってもうた。
そして服を脱いだら、いやあな汗を掻いたせいか、濡れた下着を身につけるのが嫌になったのが追い討ちだ。それで備え付けのバスローブ。戦闘準備万端である。
でもこれ不可抗力だ。だって、そこにあったから。なんて言い訳通用するか。よく考えてみろ。
九王沢さんにしてみれば、泥酔して目が覚めたら知らないホテルの部屋で、バスローブ一枚の彼氏。どんだけ男性経験がなくったって、何かあったことを疑う。いや、何もしないけど、状況証拠はばっちりだ。何もしないけどね!?
「な、何もしないのか…?」
思わず自問自答してしまったが、その途端、丸まっていた九王沢さんが仰向けに寝返ったのだ。
そのときに腕から解放されたふかふかの黒のセーターの下の爆乳。決して型崩れしない左右対称のHカップ。谷間はロッキー山脈より深い。
こんもり膨らんだ二つの頂きは、人類最高峰、最難関、カラコルムK2の頂きだ。あれがノーリミッツで一般解放されたのだ。
恥ずかしい話、ごくり、と音がするほどに僕は息を呑んだ。
「ぢ、ぢつは那智さんと…まだなんです」
九王沢さんは、依田ちゃんに言ったらしい。彼女だって、恋人なのに肉体関係がないのを気にしていないわけじゃないのだ。
「もしかしたらわたし、まだ女性として魅力がないのでしょうか。那智さん、わたしのことまだコドモだと思ってるから…?だからそう言うこと、したがらないんでしょうか?」
そんなことはない。て言うか、逆にありえないよ、九王沢さん。
こんな魅惑のHカップと、あんなにぷるぷるした美しい潤いの唇が目の前にあって、それに触れてみたいと思わない男なんていない。いっくらへたれだってそれはありえない。ありえないんだからね、九王沢さん。
知らず知らずに手が動く。指がわきわき、あの豊満な胸の形に屈まる。やらしい。あそこに指を埋めてみたい。これは理性で堪えがたい原始的な衝だ。本能だ。その抗いがたい力に否応なく動かされかけて、僕はおっぱいまであと一息。そこではたと気づいた。すっかり忘れていたじゃないか。
最後にして、最難関、最重要セキュリティシステムの存在を。ロジャーさんだ。九王沢さんは常に、シークレットサービス並みのSPに守られているのだ。
まだあれを突破していない。て言うか、突破不可能じゃないか。来るんじゃないか。うかつにも僕がこのおっぱいに手を触れた瞬間、警報装置が作動し、開かないはずの鉄扉が開くんじゃないか?
(落ち着け)
どちらかが。どっちかが当たりだ。そうに違いない。押したら警報が作動するのは、右のおっぱいか、左のおっぱいか。いや、左右関係ないし!て言うか爆弾じゃねえし!?何考えてるんだ僕は。何かもう、自分が。何をしたいのか分からない。
(今夜はクリスマスなんだ)
恋人同士が一線を踏み越える。それがニッポンの聖夜じゃないか。
「男でしょう!?先輩、ここで根性みせないでいつ見せるんですか!?」
心の中の依田ちゃんが火を点ける。そうだ、もうへたれなんて言わせない。九王沢さんだって悩んでるんだ。ここは九王沢さんを起こしてでも、一発決めるしかない。
その途端だ。
「那智さん」
はっきりとした声だった。九王沢さんが、僕を呼んだ。まだ、眠ったままで。でもはっきりと、話しかけて来た。
「もう一度言ってください。お願いします。あのときみたいに」
そう言った九王沢さんの眉は、切なげに潜められた。
「また、ランズエンドで。わたしが好き…だって」
「九王沢さん…」
僕は言葉を喪った。いつも、なのだろうか。九王沢さんは、夢の中で僕に、こんなにも切々と語りかけていたのだ。
「わたし、あなたの新しい特別になれるでしょうか…?」
そこで僕の、時間が停まった。
思い出した。
九王沢さんはもう、僕のただの恋人じゃないのだ。
忘却し、棄却された
そこから産まれた新しい果恵にはその果恵の正答があった。それに気づかせてくれた欠けがえのない人。そして僕が生きる、新しい世界と新しい答えにたどり着かせてくれた、ただ一人の女の子。
あのとき僕は思ったのだ。
その答えは僕が一人であったなら、たぶん一生を懸けても、解明できなかった。あのブラックボックスの意味を、空白を。それがただ一人、僕の前に現れた、空前絶後の直感を持った九王沢さんが、時間の呪縛から解き放ってくれたのだ。
九王沢さんはあのランズエンドとは違う、もう一つのランズエンドの彼方から来たのだ。
彼岸で出逢った僕たちは新しい世界に生きると決意したのだ。
「あなたが好きです」
僕たちはその言葉を交わし合った。
あれは正しく、僕が九王沢さんとそこへ、歩んでいくために決意した言葉だったじゃないか。
「いないよ」
誰にも聴こえていないのに、口をついて出た言葉は、九王沢さんが呟いた寝言の答えだった。
「そうだったんだ。九王沢さんはとっくに、僕のかけがえのない特別だ。もう、誰にも替われない。なんでも新しいことを、するなら二人でだよな。だって」
あなたが、好きだから。
続く言葉を、僕は胸に仕舞った。それは九王沢さんが僕に与えてくれた、新しい世界で最初にして、何よりもまず、大切な言葉だったから。
「那智さん、那智さん!」
すっごいテンション高い声に、起こされた。はっとして起きると、ベッドが回転していた。あれから寝落ちしていた。もう朝だったのだ。九王沢さんがはしゃぎながら、僕が乗ったベッドを動かしている最中だった。
「わたし、こんなベッドで寝たの初めてです!また那智さんに素敵な場所、教えてもらいました!那智さん、わたしこれと一緒に写真を撮りたいです。那智さんと撮った写真をイングランドの両親にぜひ送らなくては!」
「わっ、わああああやめろっ!」
朝から気絶しそうになった。やっと、我が理性が勝利を収めたのだ。そんな写真送信されたら、今までの努力が水の泡だ。
「ごめんなさい。昨夜は、とても疲れていて」
九王沢さんはまるで気にしていなかった。だって日本のラブホ知らないのだ。当然だ。ほっとしたけど、いや、九王沢さんにラブホのシステム説明しないと外に出られないんじゃないか?
「お金を払わないと出られない仕組み…なんですね?変わってますね。あ、飲み物以外にも自販機がありますよ?これは一体」
「興味を持たんでいいっ!」
僕は初めて大声で突っ込んで、九王沢さんに泣かれた。
それでもだ。
こうして九王沢さんの純潔は、辛くも守られたのだ。へたれじゃないぞ。焦らなくたっていいじゃないか。だまし討ちじゃなくて僕たちはちゃんと、結ばれるのだ。九王沢さんだって何が何だか分からないうちにことが済んでしまうなんて、どんなことであれ、嫌がるに違いない。
「今度こそ…今度こそはッ!」
「どっ、どうしたんですか?」
僕はクリスマス明けのビルの向こうの朝焼けに誓った。九王沢さんにびっくりされたけど、個人的な誓いだからこれでいいのだ。
「クリスマスが終わったら年明けですね、那智さん」
朝陽に輝く黒い髪を、なびかせて神々しい九王沢さんは今日も僕に微笑みかける。僕はそれに寄り添う。今年も、来年も。そしてそれがずっと続けばいい。ただ、僕たちは新しい世界に寄り添って行く。
九王沢さんは今日も、天使の笑みで僕に言った。
「来年もどうぞ、よろしくお願いしますね☆」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます