九王沢さんにやっぱり誰も突っ込めない

第1話 密室ラブホクリスマス

 どうも宿泊施設とは思えない分厚い鉄扉を閉めると、かちゃん、とオートロックのかかる冷たい音がした。


 その瞬間、僕は酔いもぶっ飛んで息を呑んだ。何かこのドア心臓に悪い。

 お前らやることやるまで決して外へは出さないぞ、と言ってるみたいで。いや、でもさ、何かあると困るのだ。でもでも、何かないとまた困るのだ。あああ僕は、何を言ってるんだ、自分でもよく分からない。


「那智しゃん…ここ、どこですか…?」


 僕の肩につかまったまま、九王沢さんはほとんど眠っている。どうにか靴を脱がせて部屋に入ったが、寝られると分かるや、そのまま脱力してベッドの上に倒れ込んだ。


 その途端、テレビがついて、無遠慮な録音の声。


「ご利用ありがとうございます。ごゆっくりおくつろぎ下さい!」

「うるせえよ!!」

 思わず機械に突っ込んでいた。


 僕と九王沢さんはラブホにいる。もう一度言うよ、よりによってクリスマスにラブホテルにいるのだ。どうしてこうなった?いや、カップルだからいいとは思うんだけども。



「先輩、九王沢さんのこと、ちゃんと愛してあげてますか?」


 いきなり根本的質問だ。なんの前置きもなく。そんな突っ込んだこと聞く依田ちゃんは、今日も抜群のキレ具合で眉をひそめている。


「愛してあげてるって…え、なにそれ一体?」


 言った途端、ちっ、と思いっきり舌打ちされた。要領を得ない答えをしてしまったのだろうか、依田ちゃんの顔、亀裂が走ったような苦あい表情になって。


「まさかとは思いますけど、まだキスしかしてないとかないですよねえ?」

「いや…お前、それはさ。答えなきゃいけないこと?」

 つかなんでこいつに、そんな心配されなきゃいけないんだ。

「いいから答える。て言うか去年、どうだったんですか?クリスマスデートして、お泊りだったんでしょう?」

「いや、あれはお泊りって言ったってさあ…」


 朝まで深あい話をして、仲良くお蕎麦を食べて別れただけだ。その話をした途端、依田ちゃんは怪鳥けちょうのごとき甲高い声を上げて僕を威嚇したのだ。


「はあ!?やってないんですか!?一発も?」

「一発ってなんだよ!?声が大きいよ!ここ食堂!今、真昼間!」

 僕はあわてて依田ちゃんの口を塞いだ。いや、なんつうこと言うんだこいつ。

「そう言う問題じゃないんですよ!?大学生の、思春期過ぎたいい大人が、クリスマスにデートして、ホテルまで泊まって、一ッ・発も・やって・ない、ってなんですか!?先輩、どこで修行してきた高僧なんですか!?ミスター・ストイックですか!?わたし言いましたよね!?九王沢さんを、がっかりさせるなって!」

「いや言ったの憶えてるし、そうしたつもりなんだけど」

「ああもういい!もぉう、いい!!」


 皆まで言わせてくれない。こいつ駄目だ。駄目すぎる。とばかりに、大きなため息をつく依田ちゃん。



「ぢ、ぢつは那智さんと…まだなんです」


 数日前、二人はお泊り会をしたらしい。そのときの九王沢さんの深夜の女子トークだ。


「わっ、わたし!その、カトリックですし、まだ学生でもあるわけですから、そう言うことは結婚してからでも、いいとは思うんですが」


 布団に『の』の字を書きながら、恥ずかしそうに告白するパジャマ姿の九王沢さん。


 依田ちゃんが貸したピンクのパジャマの胸が伸びて、着れなくなったと言う。なんで一枚撮っておかないんだ。いや、そう言うことじゃなくて、あの九王沢さんに、なんつうとんでもないことを話させる後輩だ。


「キス、はしましたよ。こっ、この前もしました。おうちにもお泊まりましたし、その、順調、だとは思ってます」



「いやでも、そこまで来て、それ以上何もないって逆におかしいでしょう!?中学生ですか!ラブホにも堂々行ける大学生でしょ!?せめて、赤いのれんは踏み込みましょうよ!?」

「悪いか」

 健全な男女交際と言うやつだ。いや、むしろ何に臆することやあらん。

「なーに言ってるんですか!?て言うか、戦前ですか!?九王沢さん、先輩のせいで悩んでるんですからね!?」


 次の一言は、驚愕だった。依田ちゃんによると、九王沢さんは自分のせいだとばかりに悩んでいたのだ。



「もしかしたらわたし、まだ女性として魅力がないのでしょうか。那智さん、わたしのことまだコドモだと思ってるから…?だからそう言うこと、したがらないんでしょうか?」



「違う!絶対違う!断じて違うぞ!?」


 僕が九王沢さんの傍でどれだけ苦悩に悶えているか。僕の欲望を、九王沢さんに感じている魅力を、数値化すれば分かる。


 きっと天文学的数値である。あんな魅力的な女の子は他にいない。て言うか、あれ以上どう魅力を引き出せと言うのだ。


「だったらなんで手を出さないんですか!?」

「いや、それはその…なんて言うか逆に?…あれだけかわいすぎると、いざって言うときにこっちが尻込みする、って言うか」


 相手は、リアル聖処女だ。なのにHカップの爆乳が標準装備、と言う恐るべきツワモノだ。て言うか最終兵器ファイナル・ウェポンだ。情けない話、とても相対する覚悟が出てくるわけない。



「へっ、『へたれ』?…そっ、それは病理学的に解決できる症状なのでしょうか?」


 依田ちゃん、とんでもない言葉を九王沢さんに教えたものだ。考え込むことが好きな九王沢さんは新しい言語を与えられて、完全なる思考モードに入りかけたと言う。さすがに依田ちゃんもここは焦った。


「い、いや九王沢さん…とにかく、病気とかじゃないから安心して。先輩にっ(泣)…先輩にただっ、勇気がないだけだからっ(涙声)!」



「なぜお前がそこで泣く?」

「あんんん…まり先輩が情けないからですよ!へたれだとは思ってたけど、まさかここまで他の追随を許さないとは。九王沢さんに同情したんです。先輩には一ミリも同情してません!」


 と言った依田ちゃん、バッグから取り出したのは。性欲が黄昏時のおっちゃんとかが飲む、まむしドリンクである。


「なっ、何だよこれ!?」

「医学的なものの方が良かったですか?だって、あんまり九王沢さんが可哀想だから(声を詰まらせて泣く)…いいですか、先輩。これから納会なんです。クリスマスです。あたしがどうにか突破口を開いてみせます。男でしょう!?先輩、ここで根性みせないでいつ見せるんですか!?」


 と、往年の少年誌のようなテンションの依田ちゃんに迫られて、僕は勇者の聖剣を受け取った。依田ちゃんが駅の薬局で買ってきた赤まむしドリンクを。


 街は今、聖夜からカップルの性夜と書いてクリスマス。対して非リアが集まると書いて、サークルの納会である。


 街にはサンタとカップルが溢れる中、お持ち帰られない男女が酒を求めてあてどなくさまよう。これが正しく年末の納会の醍醐味。


「皆さんで出かけるって、やっぱり楽しいですね」


 九王沢さんもご満悦だ。に、しても下手な芸能人など足元にも及ばない九王沢さんである。


 クリスマスの街を歩くと、街頭インタビューは寄って来るわ、通りの角ごとにナンパされるわで、依田ちゃんが僕と腕を組むことを推奨した。お蔭で仲間内からも、敵意の視線と露骨な舌打ちだ。


「那智先輩が九王沢さんに手をつけてないって知れたら、どうなると思います?」


 文芸部は末期の帝政ロシアのような疑心暗鬼と裏切りの無法地帯になることは確実だろうと、依田ちゃんは言うのだ。


「今夜はミッションだと思ってください。一次会はともかく、二次はカラオケです。抜け出すチャンスはいくらでもありますから」


 まーたミッションか。僕、クリスマスはいつも007である。



 一次会は駅近の、ビルの中の串焼き屋だった。例の注文ボタンも完備だ。生ジョッキで乾杯してとりあえず口開けである。


「やっぱり、来てよかったです」

 と、注文を積極的に募る九王沢さん。


 だがふと気づいた。そう言えば彼女は、今日は珍しく疲れた様子だったからだ。


「本国(イングランドの大学だ)の研究会の発表が、年明けにあるんです。なので先週はまた、九州に行きました。日向の土豪の家から、初震姫はつふりひめの記録が、また出て来たんですよ?」


 嬉しそうに語る九王沢さんだが、実はこの納会のために予定を切り上げて、飛行機で東京に帰って来たらしい。爆発的な好奇心と行動力のある彼女も、研究発表の準備の合間を縫って遠出の連続はさすがに堪えたと思う。


 なんと珍しく、一次で潰れてしまったのだ。

 部長の退屈な話のうちから、九王沢さんは櫓を漕ぎ出していた。二次会に行く頃には、夢の世界である。


 皆を先に立たせると、依田ちゃんと二人で九王沢さんを介護する。あのお酒に強い九王沢さんが、ぐでんぐでんだ。たぶん、よっぽど疲れていたんだろう。


「チャンスじゃないですか」

 にやりとしてあごをしゃくる依田ちゃん。

「二人は先に帰ったって言っときます。二人でゆっくり朝まで過ごして下さい。朗報を期待しています」


 と、言うわけでラブホである。い、いや、ラブホ!?だって寝てるよ九王沢さん!?これ、まずいパターンじゃないか?さすがに彼氏とは言え、酔っている女の子をホテルに連れ込んで、なんてのは駄目だろう。いくらなんでも、ひどすぎる。まして相手は九王沢さんだぞ。


「出よう」


 即座に僕は決意した。自慢じゃないが、家だって電車に乗らなくたって近くにあるのだ。こんな場所に朝までいるんなら、自宅で九王沢さんを寝かせてあげた方が、よっぽど安心だ。


 しかし玄関に出て、はたと気づいた。形態は数あれどラブホと言うのは、料金を払わないと出ていけない仕組みのものが多い。


 表が分厚い鉄扉とオートロックになっているのもそのためだ。入口にある精算機で精算しないと、ロックは解除されないのだ。僕はその『精算』のボタンを押して、早速後悔した。


『料金は、六八〇〇円、です』


 残金三千と四十三円。辛うじて二次会に行く費用しか、持ち出してない。

 終わった。

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