第28話

 すっかり朝になってしまった。僕たちはルームサービスを頼んだ。


 ハムエッグにトーストだ。なぜか九王沢さんはほとんど、手をつけなかった。しかも無口だ。さすがに僕は気になって尋ねた。


「どうかした?」

「さっき仰ってたことです。那智さんの、答えってなんでしょうか。それがずっと気になっていて…」


 九王沢さんはおこりを患ったように唇を震わせたあと、思いつめた目で問うてきた。


「…わたしは、那智さんにとっての果恵さんみたいになれませんか…?」

「それは無理だよ。そして、そんな必要はないじゃないか」


 切なげに瞳を歪めた九王沢さんに、僕は、はっきりと言った。


「だって九王沢さんを、九王沢さんとして僕は、ちゃんと好きなんだから」


 誰かの面影を仮託マップして他の誰かを好きになることは、決してしてはいけないことだ。それは使い古された答えの援用にしかならず、そしてその答えの中に安易に相手を押し込めて、都合よく利用しようとしているに過ぎない。


 本当に愛しているなら、むしろ相手の未知な顔を知ろうと想像することこそ、好きになる、と言うことではないだろうか。


 僕たちは生き続ける。

 だったら求めなくちゃ。

 また新しい答えを。


 例えば三十年後、シンギュラリティの世の中がやってきて。

 僕たちに人間の種としての進化や進歩がもう必要ない、と言われたって。

 まだ僕たちが人生を生きるなら、僕たちは、自分なりにだって無限に更新され続けなくちゃいけないのだ。


「憶えてる?九王沢さんが昨夜、言ってくれた言葉」

 僕は昨日のメモをたどった。九王沢さんの整った筆記体で、綴られていたあの言葉だ。


 Reason respects differences,

 and imagination the similitudes of things.


「パーシー・B・シェリーが遺した言葉だったね。日本語は、えっと」

「『知力は事物の相違点を重視し、想像力はその類似点を尊重する』」

「だっけ?実は英語苦手だし、よく判らないから、僕ならこうやって訳すかも知れない」

 僕はその下にさらさらと、自分の字を書き加えた。


 探せば『違う』しか判らない

 でも想えば『好き』は通じる


「そのはずだと思う。感じ方や考え方は違っても、『好きは同じ』だから」


 話しているうちに、すっかりお腹が冷えてしまった。


「そうだ、お蕎麦食べに行きませんか?大桟橋の下に立ち食いのお店があったんだ」


 僕はすっかり明るくなった山下公園の通りを眺めて言った。まだ早朝だが、港湾関係者が立ち寄る関係で、早くから開いているお店があるのだ。


「…少し待って下さい」


 すごく喜ぶかと思ったら、九王沢さんはあんまり喜ばなかった。彼女はただじっと、僕が書いたメモの文字に目を落としていたのだ。


「わたし、しなくてはいけないことがあったんでした」

「しなくてはいけないこと?」

 九王沢さんはこっちをみて、こくりと頷いた。


「まず、那智さんのお話、想像以上でした。果恵さんとのお話、まだ気持ちが去っていかない気がします。だって愛する、と言う言葉がこれだけはかなく力なく思えることって、これまでわたしの人生の中で、一度もありませんでしたから」


 僕は何とも、返事が出来なかった。その言葉の無力さを、僕は思い知ったけど、別にもう、虚しくは思わなくなっていたからだ。


 今ならちょっとは判る。『好き』さえ想っていれば、それを表現する言葉や方法は無限にある。そうすれば一つの言葉に過信したり、恨み言を言う必要もないことを。


「那智さんは、昨夜わたしに小説を書いたら、って言ってくれましたよね。わたしが、自分で表現したいことがない、言葉がない、そう言っても、それでも面白いはずだって」


 暗い表情をふわりと掻き消し、九王沢さんはいつもの天使の笑みを湛えた。気がつくと、彼女は音もなく立ち上がり、まるで神様か何かのように、朝日の輝きをまとってこちらを見ていた。


「わたしも自分がどうしても表現したい言葉が見つかったんです。でもそれは、小説を書かなくても、伝えられると思います」


 よし、となぜか意を決すると、九王沢さんは僕の間近に立った。


「言います」


 豊かな胸を張った九王沢さんは、潤んだ瞳で真っ直ぐ僕を捉えると、こう言った。


「わたしは、あなたが好きです。わたしに、あなたとずっと一緒にいさせて下さい」


 その瞬間、僕の中にこれ以上ないほどに透き通った瑞々しいものが注ぎ込まれた。


 紛れもない。


 これが彼女が生まれて初めて表現した、好き、と言う気持ちなのだ。


 それは僕の不全を、鮮やかに呼び覚ました。間違いない。何度でもそれは、僕の中で雪解けの新緑が再び芽吹くように蘇るものだ。形のない、でもはっきりとした、力強い、それでも儚い、途方もなく巨大でいて、針の先のように唯一の一点。


 返す言葉が見つからないまま、僕はそれでもはっきりと頷いた。


 その瞬間、九王沢さんが腕を拡げて身体を預けてきた。

 大きな胸の、さらに奥の鼓動を感じながら、僕は彼女の背に腕を回した。

 もうそれは、躊躇したり、狼狽する類のものではなかった。すでに境界線は解き放たれ、新しい合意が生まれていたからだ。


 自分の言葉をもう見つけてしまった彼女に、まず僕はなんと言うべきだろう。


 ありがとう、だと思っていたけど、それは違う。何も言えないまま、僕は顔を上げた九王沢さんを見つめてしまった。美しいおとがいを持ち上げて、彼女は限りなく優しい眼差しで、僕を待ち受けていた。


 すべきことは決まっていた。

 何か言葉を口にするなら、それはすでにその後のことだろう。


 僕は彼女に口づけた。僕が初めて触れる九王沢さんはひどく暖かく、僕にそのまま溶けていきそうに柔らかく、気絶するほどにかぐわしかった。


 九王沢さんが恋人とキスをしたことがない、と言う衝撃の事実を、僕は後で知ることになる。だって信じられなかった。僕たちはまるで滞りなく、打ち合わせも済まさないうちから、一つの意思を全うしたのだった。


 違うランズエンドからやってきた、僕と九王沢さんがだ。

 突然切って落とされた新しいスタートで、転びそうになったのは間違いなく、僕の方だ。九王沢さんから見れば経験者の癖にあわてた僕をみて、どう思ったのだろうか。


 案の定、気がつくと、九王沢さんは少し、悪戯っぽく笑っていた。スタートと同時にもう彼女は、僕から見て今までと全く違う別の存在になっていたのだ。


 一瞬で包容力のある大人になってしまう女の子に比べると、どこまでも男は不完全で、子供っぽいのだった。


「お蕎麦食べに行きましょうよ」

 九王沢さんは声を励まして言った。

「わたし、実は、お蕎麦屋さん、と言うところに行ったことがなくて」

 そんな九王沢さんがとても魅力的だった。

 彼女にとって新世界の情報は、僕がまごついているうちにも、着々と更新されつつあるのだ。

 たぶん、彼女はお蕎麦屋さんで僕にこう聞くだろう。

「天ぷら蕎麦、ってやっぱり美味しいんでしょうか?…あっ、この月見蕎麦って何が入ってるんですか?」

 そんな彼女と、僕は新しい世界を生きていくのだ。


「ねえ、ちょっと待ってよ」

 腕の中から、すでに飛び出していこうとしている九王沢さんに僕は言った。

「僕もしなきゃいけないことがあったんだった」


 違う。


 それはあなたの言葉じゃない。


 果恵に問答無用で切って落とされた、僕の言葉。

 無為な試行錯誤にかまけて、ただ膨らんでしまった僕の小説。


 そんな途方もないジャンクの中から『僕』を見つけてくれた九王沢さんに、僕は今こそ、きちんと表現しなくちゃいけないのだ。


 僕の『好き』を。僕の『愛している』を。

 僕自身の、言葉で。

 今なら言える。そんな気がする。


「言います」


 僕が言うとそれと察したのか、九王沢さんは姿勢を正した。


 見つめている。あの清かに僕自身だけを捉え続けた、澄み切った眼差しが。天使のように非の打ちどころのない、微笑みが。


「よし」


 僕は深呼吸をすると、はっきりとした声で九王沢さんにその言葉を告げた。


「僕はあなたが好きです」


 九王沢さんは、この上なく嬉しそうに頷き返してくれた。


 それは紛れもなく、今、僕がこの新しい世界で産み出した、もっとも新しい自分の言葉なのだった。

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