第27話

「気がつくと僕は、精神科棟のベッドにいた」


 もう三日経っていたそうだ。畦道にうずくまり、声を限りに絶叫する僕を見つけたのは、僕の父親だった。


 そのまま救急車を呼び、病院に搬送してもらったのだが、僕は正気を失った上、興奮状態で会話にならず、すでに自分の名前も判らなかったと言う。


 鎮静剤を打たれた僕は、点滴をされたまま、急性期の隔離病室に放り込まれた。


 そこは頑丈な分厚い鉄扉が入り口を塞ぐ、薄暗いタイル貼りの部屋だった。スチール製のトイレの穴ばかりがある部屋で、それ以外には拘束具のついたベッドしかない。


 ふらふらとその殺風景な牢獄の中を立ち回った以外は、断片的な記憶ばかりがその二日間の記憶だ。ずっと夢を、見ていたのだ。


 僕はそこで二日を過ごし、三日目にようやく自我を取り戻したのだった。


「二日間ずっと、僕は果恵の夢を見てた」


 夢の中では何もかもが元通りになっていた。


 穏やかないつもの一日。電車の車窓を過ぎていく房総半島の海辺のきらめきと、僕の肩によりすがって外を見る果恵の横顔。瑞々しい瞳の輝き。


 なぜか一緒に、弾けるほど笑った日、夢中になって話し合った日。

 幼いとき、最初に果恵と出会った記憶。お正月、夏休みの帰省。とめどなく、ただ、とめどなく。


 目を覚ますたび、怖くなって泣いた。悲しいのではない、ただ、堪らなく怖かった。僕は果恵を喪った。


 果恵の死そのものに、まざまざと、触れたのだ。


 目を閉じさえしていれば、果恵は生きている。

 眠りさえすれば、いくらでも楽しい日々はまた立ち戻ってくる。

 しかし、目を開ければそれは粉々に砕け散っているのだ。どちらが真実なのかは、明確に分かりきっていた。


 理性はすでに知っていたのだ。夢の中にずっと遊んでいようとも、何を想おうと。


 やはりもう、果恵はそこにいないのだ、と言うこと。


 急に底が抜けてがらんどうになったようなその世界にもう、僕は放り出されている。僕はそこで、ただ生きていくことが堪らなく怖かった。その現実を、僕の自我は到底受け入れることが出来なかったのだ。


「医者は父親に、僕は統合失調症とうごうしっちょうしょうなのだと言った。たぶん、元のように戻ることはないだろう、そうきっぱり言われたらしいんだ」


 認知機能ばかりではない。それはまさしく、パーソナリティの倒壊だった。専門家から見ても、救急車で運び込まれてきたときの僕は、再起不能の状態に見えただろう。


「でも、それが三日で治ってしまった」


 嘘のような、しかし真実の話だ。目を覚ます恐怖に胸を震わせながら二日の幸せな夢を見た後、僕の意識はそのまま、外界へと再接続された。


 何事もなかったかのように目が覚めた僕を見て、医者は正直、唖然としたらしい。体力が回復したのち、様子を見ると言う条件で十日入院すると、僕は無事、退院することが出来た。


「だから言ったんだ。僕は一度死んだ、そう」


 ちょうど、果恵が死んだように。僕の中のその感性も、まるで死期を悟ったかのように荒れ狂い、果ててしまった。


 ふいの落雷のような、果恵のあの直感がそう仕向けたように。僕自身もそっくり、自分自身を改変された挙句、再び、外の世界へ放擲ほうてきされたのだった。


 でも蘇った僕には、記憶はあっても実感はなかったのだ。どうやって僕が、果恵とのことに自分の中で折り合いをつけて、戻って来られたのか。


 僕はどう言う道筋を通って、果恵のいないこの世界の入口へ、たどり着けることが出来たのか。ブラックボックスを開ける鍵は、もはやどこにもなかった。


 だからこそまた、僕は空疎な言葉で小説を書き出したのだろう。届かない言葉を甲斐もなく積み上げ、開きそうもない箱の周りを、あると言う保証もないドアを探して、いつまでもいつまでも、見当違いにうろうろしながら。


 僕は今のいままでちょうどあの、不完全だった果恵のようだったのだ。


 僕が一人であったなら、たぶん一生を懸けても、このブラックボックスを解明することは出来なかっただろう。ただ一人、僕の前に現れた、空前絶後の直感を持った九王沢さんが、いなかったとしたら。


 九王沢さんはあの、ランズエンドの彼方から来たのだ。


 だから僕は言う。ここまで深く潜れたのは、他ならぬ彼女のお蔭だった。彼女がいなければ僕は暗い穴倉で朽ち果てていただろう。どれだけ感謝しても足りない。大げさでもなく僕は、九王沢さんに僕自身を救われたのだった。


 ありがとう、九王沢さん。


 そこまで無我夢中で話していて、僕はぎょっとした。


 泣いているのだ。僕じゃなくて九王沢さんが。ぐっしゃぐしゃだった。でもやっぱり泣いた顔もかわいすぎる…いや、もはやそんな問題じゃなかった。


「なっ、那智さん…死んじゃだめですっ、早まらないでっ戻って来て下さいっ!」

「さっ、さっきからずっとここに居ますけどっ!」


 力おっぱい、いや力いっぱい抱きつかれた。理性が、根こそぎ吹っ飛ぶところだった。あれほど真摯な話をしていたのに、こんなことされたら一気にけだものと化してしまうじゃないか。


「おっ、落ち着きましょう!過去!とにかく過去の話ですから!」


 僕は必死に言いつのったが、たっ、立ち上がれないのだ。僕はすでに前かがみでしか移動できない例の状態になっていた。なんて恐ろしい拷問だ。


 ともかくありったけの理性と地球のみんなから少しずつ元気を分けてもらって魅力的すぎる身体を引き離したが、九王沢さんは美しい顔を真っ赤にして泣きやまなかった。


「教えて下さい…そんなにまでなってしまって。それから、那智さんはどうやって戻ってこれたんですか?」

「うん…それは同じだと思うよ。一般的な失恋と」


 どんなときも。


 ただ時間を過ごすことでしか感情の上の物事は、解決しないものだ。一気に清算をつけられ、恐ろしい勢いで解放されたかに見えた僕にもやはり、果恵を喪った虚しさは強かったのだ。


 やがて僕は親と相談して、休学を決めた。逃げるためじゃない。果恵の運命に依存していた僕を、もう一度作り直すためだった。


 僕は僕の感覚で、自分の世界を再構築しなきゃいけない。そのために少し、自分の力で考えることが必要だったのだ。


「それから色々やってみた。国内だったけど、バイトして僕も色んなところを旅したよ。一人でどこでも行ったし、その間、じっくりと様々な本が読めた。それでやっと少し、分かってきたのかも知れない。この世界はたった一つの答えばかりでは、存在しえないって言うことを。たとえそれが、自分にとってただ一つの正答だったとしても、ね」

「ただ、一つの正答、じゃなくてもですか…?」

 不審そうにその言葉を反芻した九王沢さんに、僕は言った。

「何かを一心に信じる、と言うことは大切だと思う。でも大切なのは、信じる、と言う気持ちや、そのために起こす行為そのものであって、それは皆が皆、ただ唯一、同じものを信じなきゃ実現しないってわけじゃないだろ?」


 この世界はたったそれだけと言う、唯一の答えで創り上げられるほどに、単純じゃない。


 それが僕が得た一つの結論だ。


 それでも果恵には果恵の、正答があったのだ。僕は最初、想いを封じ込めるためだけに、そう思おうとした。いや、九王沢さんとこうして話すまではまだ、ほとんどそう思い込もうとしていたのかも知れない。でも、今ならこう言えるかも知れない。


 僕にも、僕の正答があるはずなのだ。


 誰のものでもなくても、僕にだけ、通じればいい答え。


 僕が無数の答えが存在するこの世界を行くために、そこに突き刺す一つの道しるべとして。それも、立ち止まるための答えじゃなくて、先に行くための橋頭保きょうとうほとしての答えだ。


「那智さんの、正しい答え、ですか?」

 九王沢さんはその言葉を口にすると、不思議そうに首を傾げた。

「うん、僕は僕なりにその方法を探さなくちゃいけないんだと思う。今、これからも、年老いてからもずっと。だって、色んな方法があるはずだろ。人生は長いんだ。果恵みたいに絵を描いたり、僕のように小説を書き散らしてみたりして、もっともっと時間を無駄に過ごせばいいんだ。九王沢さんみたいに、危険を顧みず新しい世界へどんどん飛び込んで行ってみたりしてね」

「わたしみたいにですか?」

 僕は頷いた。

「だってさ」


 結論は、まだずっと、先の方が面白いだろ?


 九王沢さんは目を丸くしていた。

 そんな九王沢さんが、僕はもう、間違いなく好きなのだった。



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