第26話
「分かってくれたかな」
直孝さんは躊躇いながらも、僕に意を決して言った。
「果恵はずっと、同じ果恵だ。しかし、あの時、気づかされてしまったんだ。自分が選ぶべき相手は、どこか遠くにいる会ったこともない別の人間なのだ、と」
そこまで話した直孝さんは本当に済まなそうに、表情を曇らせた。
「残酷な話だと思う。でも君には、どうしてもはっきりと話しておかなくてはいけないと思った。君が信じた絵を描くことが好きな果恵は紛れもなく、君が『好き』だったんだ」
それだけは嘘じゃなかった。
直孝さんは慰めるように、言ってくれた。よく分かっていた。しかし僕にとって、それは今更なんの救いにもならない。何か他の力のせいにした方が、まだ気が楽だった。
直孝さんが去った後、冷たいお天気雨が降った。
夕焼け空があの時と同じ、不自然なほどのピンク色だった。
(なんなんだよ)
僕はその空を見ながら必死で想いを押し殺した。
(じゃあ、僕はふられた、ただそれだけのことじゃないか)
正直なところ、ささくれだった心の矛先をどこへ向ければいいのか分からなかったのだ。不貞腐れるために僕は問題を矮小化していた。
途方もないそのことを無理に理解しようとするよりも、まずそうした方がよっぽど気が楽だったからだ。
だって僕と一緒にいた果恵、それ自体がもともと、嘘だったのだ、とでも直孝さんは言いたいのか。
絵を描くことしか、興味を持たなかった果恵。絵を通じて僕に見せた様々な表情、かわした言葉、そして過ごした時間。紛れもなくこの世界に存在した真実だ。
僕の中にいまだに色鮮やかに息づいている果恵は、今だってちゃんと生きている。
それがはなからすべて幻、果恵にとっては虚像でしかなかったと言うのか。
果恵は、果恵のまま、目覚めた。
そんなの認められない。認めたくはなかった。しかし理性は急速に、抜きがたかった矛盾に論理を補完していく。
そう言えばだ。
「もう必要ない」
全てを焼き捨てて、にべもなく断言した果恵の眼。今でも憶えている。思うと僕に対してなんの遠慮も呵責もなかった果恵ならば、確かにそこにいた。
「違う」
彼女はまた、そう言っていたのだ。葬り去った過去の亡骸と、その亡霊のような僕に、あの果恵は絶対的な否定を突きつけていたのだ。
これまでにそれが僕に、そして絵を描くことに向かわなかっただけで、あれは僕の知る果恵そのものじゃないか。
でもだ。あれが本来の果恵の姿だったとしたなら。僕が果恵と守ってきたと思っていたものは一体何だったんだろう。そしてまだ僕の中で息づく果恵は何者だったのだろう。それらはどこに、行き着いてしまったのだろう。
気がつくと僕は、雨の中を歩き出していた。
今の果恵は、やっぱり果恵なのか。それとも、全き別人なのか。
ずっとそれが知りたくて、考えていた。
さくさくと濡れた砂利を踏みしめ、いつしか僕は寺の山門を出ていた。
すでに僕は夢遊病者のようになっていた。
夕日が見える場所へ、自然と歩き出そうとしていたのだ。
外気が僕の想いを、限りなく突き詰めて、ただ研ぎ澄まそうとしていた。
日没が迫る外気は、そのまま冷蔵庫の中に閉じ込められたみたいだ。時々頬を打つ程度のお天気雨に降られて、僕はその外気に親しみながらも、歩き続けた。
あの日もこんなに、熱のない冷たい陽が、それでも強烈に射していたのだ。
果恵は、確かに恐怖していた。
いつもの果恵のそれではなかった。薄い皮膚で覆われたその表情が、まるで薄紙を踏み破るようにしてくしゃくしゃになり、綺麗な顔が無残にひずんだ。果恵はまるでさっき、死神に連れて行かれそうになった、とでも言うかのような顔をしていた。
「一人にして」
それからこう言った彼女はどこか、何かを決断した表情でもあった。僕はそれを、果恵が描かなくてはならない絵があると、判断したのだ。
(そうだ)
発見されるまで、果恵はずっと絵を描いていたのだ。
僕には想像もつきそうにない、途方もないものに恐怖しながら、彼女は、それと向き合う道を択んだ。
やってきたものに果恵は、独りで立ち向かったのだ。
その果恵こそが、僕の知る果恵だ。そしてその果恵は、僕があのキャベツ畑で見失った、そのときに途切れている。
あのとき果恵は何と戦いに向かったのか。あのとき何がやってきたのか、それを知れば分かるだろう。
あのスケッチブックさえあれば。
しかしだ。
果恵が病室に来た時には、あのスケッチブックはすでに喪われていたんだった。
「
ふいに女の人の声が立った。僕は現実に引き戻された。振り向くとそこに、果恵のお姉さんが、果恵の持っていた肩掛けのバッグの紐を握り締めて立っていた。
「お父さんの話、終わったんでしょう」
と、お姉さんは声を張って聞いてきた。
夕方の路上だ。田舎とは言え、家路を急ぐ車がぐんぐん前を横切る。
大声を出す気がなかった僕は、お姉さんに向かってかすかに頷いて見せた。
「行かないで。わたしからも話があるの!」
車道を横切って、お姉さんは僕に走り寄ってきた。
「果恵のこと…話してあげられなくてごめんね。お父さんの話、よく判らない話だったと思う。納得しろ、って言う方が無理だよね。でも、わたしたちも、お父さんと同じで、豊ちゃんには本当のことを言っておいた方がいいって、思ったから」
僕は、何も答えられなかった。真実を知った方が良かったのか、そうでない方が良かったのか、結論が出ていない。今となっては、どちらとも言えなかったのだ。
「わたしからもね、渡すものがあったんだ。これ」
お姉さんは肩掛けのバッグから、ビニール袋に入った何かを手渡してきた。受け取って僕は全身に衝撃が走った。あのスケッチブックだった。乾いた泥や草でよごれ、発見されたときに果恵が抱えていただろう、そのままの。
「果恵が病院に運ばれたときね、保護してくれた家の人が取っておいてくれたの」
果恵のお姉さんは病室に運ばれた彼女に、それを返そうとしたのだと言う。
「だめ」
しかし、果恵はこう言った。どこか頑なな声だったらしい。
「お姉ちゃんが持ってて」
「何があっても絶対捨てちゃだめ、そのときそう言われたから、ちゃんと取っておいたんだ」
「果恵が…?」
実はそれから果恵はしばし病室で
地震後の海端で三日三晩さまよった体力の限界が来たのだろうと言うのが医師の判断だったが、思えばそこから目覚めた果恵は、以前と打って変わって穏やかな女の子になったのだと、お姉さんは言うのだ。
その時まで、生きていた?
僕が愛していた、絵が好きな果恵は。
僕と別れて、何かと戦った後でも。
まだ。
坂の中腹の畦道に、僕は腰を下ろした。履いていたジーンズが草露で濡れるのも構わず、僕はそのスケッチブックに目を通した。思わず全身が強張った。
中のページはほとんどが破り取られ、満足なものはほとんどなかったからだ。泥まみれの野菜と一緒に洗濯機に放り込んだかのようだった。
どんな過酷な場所で、果恵との最期の時間を過ごしてきたのだろう。
辛うじて生き残ったそれも無残に皺がより、或いは泥玉をぶつけられたように汚れていた。羽虫の死骸の貼りついた断片は硬く強張って、いまだに生臭い草露と潮の香りがする気がした。
ページを過ごすと果恵のタッチがそこで、荒れ狂っていた。
断末魔だった。
それは描くと言うよりは、あらゆる種類の鋭い切れ味の刃物で傷つけているような感じだった。
流れる線は画面を飛び出して跡切れ、暴れ、津波が
何を描こうとしたのか。
ページをはぐるうち、やがてそれらしきものはあるべき形をとっていた。
僕だ。
すぐに分かった。果恵は僕を描こうとしていたのだった。そんなこと、今までで初めてだった。
と言っても、判別できるのは一枚だけだ。僕の横顔だった。首から上しか描いていない。それにしても、何度も描き直した線があった。もっと不完全な失敗作と思われるものが何個もあった。果恵にはそんなことは、珍しかった。
それから何枚かは、破り取られている。へしゃげた紙片が端にくっついているページもあった。そこにあの朝、描いたばかりのカマキリの死骸がぐしゃぐしゃに寸断されているのも見た。非常識で、支離滅裂な線の連続しか残っていなかった。
さらにページをめくって僕は、思わず声を上げそうになった。
とても綺麗なスケッチが一枚だけ、完成していたのだ。それもやはり、首から上だけだった。少しうつむきがちに、あごを傾けてその顔は睫を伏せて
見たこともない顔の若い男だった。
もしかしたらこれが、果恵が直感した主の女捕りを受ける、男の顔なのかも知れなかった。僕はまた、細かく震える長い息をついた。なぜかその綺麗なスケッチにも、斬りつけるようなタッチが刻まれていたからだ。
「ちがう」
下に平仮名でこう書かれていた。果恵の字だ。この上、なにが違うと言うのか。まだページはあった。それに手をかけたとき、胸の中でどくん、と何かが波打った。その何かが僕に警鐘を鳴らしていた。
次のページをめくった瞬間、そこにあったのは更なるカオスだ。
へし折られたクロッキーの線は画紙に突き刺さって果て、草の露や泥で不可解な線が投げつけられていた。血の付いた爪跡や指紋がそのまま残っていた。それを目にした途端、僕の胸は堪えがたい痛みを感じ、息が絶えそうになった。
すぐに分かった。間違いない。
果恵はここで死んだのだ。
そこにあったのはもはや、この世界に在る必要性を喪った感性の残骸だった。羽根をもがれた虫が、アリの巣の淵でもがくように、その足や爪が必死に地面を掻いていた。自分はまだ生きられるはずだと、もがいていた。全生命力を懸けた抵抗だった。
やはり、果恵は抗っていたのだ。なんの躊躇いもなく自分が信じることが出来たものを、身を委ねていた僕を、今まで得たすべてを守るために。
(やはりだ)
今の果恵は果恵じゃない。僕が思った通りだ。あいつは果恵じゃないのだ。違う。僕の好きだった果恵を殺した、その果恵だったのだ。身が千切れそうだった。
かと言って、あの果恵を憎む必然性ももはやない自分も、僕は知っていた。戻っては来ないのだ。果恵はここで独り戦い、そして敗れて死んだから。
自分の無残な最期と勝ち目のない争いを、すでにそこへ赴く前から悟っていたから。だからこそ、その消し去られゆく感性を分け合った僕に、最期の力を振り絞ってこれを託したのだ。
僕はそのスケッチブックを抱きしめたまま、泣いた。ただ、泣いた。
嗚咽を止めることが出来なかった。なんてことだ。これが、果恵の墓標だったんじゃないか。抱きしめたそれは固く冷たく、そして薄汚れていた。あの日から、本当の果恵は、ずっとこんなところに閉じ込められていたのだ。気づきもしなかった。うめき声ばかりが漏れた。いかなる感情も、形ある言葉に、なりそうもなかった。
もはや何もかもが手遅れだった。この亡骸を抱きしめてこうしていくらでも泣けるのに。今だったら僕を想ってくれた以上に強く、あの果恵のことを想えるのに。そんなことはもう、どこにもつながりはしないのだ。
雨に濡れた手で僕はもう一度スケッチブックを開いた。果恵が最期に描いた線。そのすべてを僕は指でなぞった。どれもに記憶の名残があった。カマキリの肉体の線。愛おしくて堪らなかった。あれも、これも、他にも。まだまだ、知っている線がいくつもある。最後のページに至るまで僕はそれを続けた。
背表紙の裏、こぼれでた走り書きがいくつか残っていた。それは彫刻刀でしたように、彫りつけるような鋭い筆跡だった。そこには文字が書かれていた。
果恵がページの限界、右端にそれはきちんと書いてあった。
那智豊
僕の名前だ。たぶん折れたクロッキーで書いたのだ。たどたどしい線を、僕は指でなぞった。これを刻んだ果恵の最期の手ごたえさえ、そこから感じ取ろうとするように。あの果恵は一人、どんな気持ちでこれを書いていたのだろう。地震直後の、凍えるような冷たい海風に、衰弱した身体を嬲られながら。
文字を辿る指は、少し下の別の文字列に行きついた。そこには続いてこう書かれていた。
ちがった
ゆるして
(いいよ)
果恵なら。僕が愛したあの果恵が言うなら、それでいいんだ。
君を僕は、分かってる。不完全でいて、不器用で、どうしようもない。それでも僕の何より大切な果恵だった。誰に向かっても、はっきりと言える。
僕は、果恵を愛していた。
その果恵が択んだことであれば、僕は満足だった。それこそが僕の大事な果恵だ。その殴り書きは、さらに真下の二行へと続いていた。背表紙の一番内側のところだ。そこには消えていきそうにかすれた、か弱い筆跡で辛うじてこう書かれていた。
あいしてた
ゆた
その瞬間だ。
僕は、耳を弄するような爆音のさなかに埋めこまれた。
堪え切れずスケッチブックを放り出してひざまずくほどに、それは巨大な音だった。
爆撃機が間近に迫るような爆音が頭の中を、ぐるぐると巡っていた。ずっと気づかなかった。鼓膜が破れるほど大きな爆音は飛行機のエンジン音なんかじゃなかった。
それは僕の叫び声だったのだ。
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