第25話

「ついに眉月の本家に、しゅう女捕めとりがあったか」


 と、言う問い合わせは、遠くは九州の親戚や眉月家の遠縁だと言う都内の代議士まで引きも切らなかったと言う。


「びっくりしたよ」


 そのときの驚きそのままに、直孝さんはため息をついてみせた。高級官僚や財界人と言った有力な連中が音頭を取ったので、直孝さんは度々都内の親族の集まりに呼ばれると言う、大変な思いまでしたらしい。


「親の葬式でも口を利いたこともなかった親戚まで、こぞって挨拶に来たんだよ」


 彼らの目的はなんと、果恵との縁談だった。


「主の女捕り?」

「眉月家本家には伝わっていなかったんだけど、口碑でその言葉が伝わっている家があったんだって」


 女捕めとり、と言うのは、中世に使われた用語である。要は往来を行く女性を捕まえてきて、無理やり嫁にしてしまうことだ。


「…それは野蛮な習慣ですね」


 九王沢さんが顔をしかめるのも、無理はない。要は拉致による強制結婚である。さっきロジャーさんが助けてくれなかったら九王沢さんも女捕られるところだったのだ。


「中世の諸法令でも、厳に禁じられていたみたいだけど、日本では夜這いの習慣とともに半ば黙認だったらしい」


 それは、女性側の要請もあってのことだと言う説がある。実は、中世の女たちも新しい土地に、そうした新しい出会いを目的に旅をする習俗があったと言うのだ。現代の婚活さながらである。ちなみに、婚活パーティに近いものもあったと言うから驚く。


「まあもっと極端な例で言えば、筑波嶺つくばねの歌垣の宴の話や、多摩の日野神社の闇祭りとか。まあ、当時のそうした催しはもっと露骨、と言うか生々しいものだったんだけど」

「露骨…生々しい、みんなで集まって何をするんでしょうか?」


 それは乱交パーティだとは、九王沢さんに面と向かってはっきりは言えなかった。


 まあきちんとした言い方をするなら、中世までは男女の恋愛は比較的自由だったのだ。女性も、頼りになる男性を自ら選ぶ、と言うのが世相として容認されていた。


「だから口碑によるなら、果恵は眉月家の氏神から『女捕り』を受けた、って言うことだった」


 家運が危急に差し掛かるとき、天帝の星が将来のそれを救う家の娘を択ぶ。


 その女性は『アルキ』とされ、神事を扱う巫女を営みながら、新たな氏族の男を求めて諸州を渡り歩いたと言う。婿を取れば在所に戻り、家を富ませたとされる。


 眉月家のある家ではそれを、主の女捕りを受けた、と表現して信じられたと言う。


 直孝さんは顔も知らない親戚たちから口々に、色々な話を聞いた。

「驚いたよ。御伽草子に過ぎないと思っていた眉月家の信仰は、今もしっかりとした形を持って、僕たちの間に息づいていたんだ」


 直孝さんの眉月家を本家に、関東一円にその縁が拡がっているのはそう言う事情によるようだ。

 つまり果恵に縁談の問い合わせをした親戚家は皆、過去に眉月家から神懸った『アルキ』の嫁に選ばれて、繁栄したことのある家だったのだ。


 ただ、運ばれてきた縁談写真の山を、果恵はにべもなく焼き捨てたと言う。


「違う」


 果恵は直孝さんにそう一言、告げただけだったらしい。

 ほどなくして、果恵は直孝さんにも無断で旅立った。


「予てから分かっていたことだから、とりあえずカードは預けておいたんだ。だから、当座のお金には不自由はしてはいない、とは思う」


「つまり、失踪届は出していない、と言うことですか?」

 僕は九王沢さんに、無言で頷いた。

「どころか、直孝さんは果恵がいなくなったことの事後処理に進んで協力したんだそうだ」


 家に姿がないのも当然だった。果恵の『アルキ』が大事にならないように、直孝さんは八方手を尽くしていたのだ。群がる親戚たちに口封じをし、学校に事情を取り繕い、表面上は何事もなく果恵を退学させ、東京の美術学校に行くために下宿したことにしたのだと言う。


「それほどまでに、眉月家にとって『主の女捕り』は絶対だったのでしょうか?」

 僕は頷いた。そのときの何とも言えない、直孝さんの顔を思い出しながら。

「もちろん、それだけじゃないと思う。直孝さんは、尋常じゃない変わり者の果恵を、ずっと見守ってきたんだ。あれほど好きな絵画で、身を立てる気もない。普通科の勉強なんて見向きもしない。自分が死んだ後、果恵はどうする気なんだろうっていっつも考えていたと思うよ」


「不条理だとは思う。君にも不義理をしたしね。それは、本当に悪かった。果恵に代わって、この通り謝るよ」

 若い僕の前で頭を下げた直孝さんは、でも、と諦めたような笑みで僕に言うのだ。

「果恵が絶対そうしたいと言うなら、僕は全面的にその意思を尊重する。果恵が生まれてからそうやってずっと、やってきたんだ。これが僕が果恵にかけてあげられる親として、たった一つの愛情なんだ」


 九王沢さんはその直孝さんの言葉を噛みしめていたのか、ずっと悲しそうな顔で黙っていた。父親として、直孝さんの在り方は決して間違ってはいないと思ったのだろう。ただ僕を慮って、何も言わなかったのだ。


「それにしても、まさか果恵さんの異変にそんな背景があるとは、夢にも思いませんでした」

 九王沢さんはやがて、話の矛先を違う方向に向けた。

「そうだね。全く突拍子もない話だけど」

「しかしそうなると、果恵さんは自らの感性を決して『喪った』のではない、と言うことになりますね」

 僕は頷いた。

「つまりは媒介変数の劇的な変化の問題だ」


 九王沢さんと話したS‐O‐R図式によるなら、あの時に果恵に起きたのは、途方もない直感による、『感性』そのものの革命的な激変だったのだ。


 果恵は降って湧いたその感覚によって、ほとんど自分自身そのものが書き換えられた。違う。むしろ、その感覚こそが、何をやってもままならない果恵を完全なものとして『補完』したのだ。


 いや、こう言うべきだろう。あのとき、果恵が得たのはまさしく。


「運命的直感ですね」


 僕は、はっとした。僕がそれを口にする前に、より的確な表現で九王沢さんはそれを表現したからだ。


「果恵さんもまた、探していた答えを出したんです。わたしたちには想像もつかない方法で。しかしまた、この結果も、それまでの果恵さんが認知の試行錯誤を繰り返した結果と言えます。もしかしたら、果恵さんが画業で身を立てずに、絵を描くことに執着したのは、そのためだったのではないでしょうか」


 だから果恵は絵を描いていたのだ。当時から薄々と感じてはいたが説明できない何かが今、しっかりと形をとった気がした。そうなのだ。果恵が一心不乱に絵を描き募ったのは、途方もない認知と直感の試行錯誤だったのだ。


「那智さんのお話の通りとすれば、これまでの果恵さんはどこもかしこも、ちぐはぐでした。何を探そうとしても見つからず、何をしてもどこにもたどり着かない方だった。つまり果恵さんはこの世界に適応する認知を持っていなかったと考えられます。しかしあの地震があった犬吠埼での出来事がきっかけか、不意の直感によって突然、劇的な一致を見た。そして、そのとき、これまでの全てが不要だと感じるようになったのではないでしょうか」


 つまり。


「だからもう絵は要らない。そう、那智さんに断言したんですね」


 そうなのだ。果恵はもう、自分が探すべきものの答えを見つけていたのだ。そのとき、たぶん自分がなぜこれまで絵を描いていたのか、それがなぜどこにも届くことがなかったのか、その理由に思い当ったに違いない。


「果恵さんは、はっきりと言いました。縁談の山を持ち込んだ直孝さんに」

「うん、そうだね」


「違う」


 九王沢さんは表情をしかめて、口走ってみせた。

 果恵の様子を想像して真似てみたみたいだが、もちろん九王沢さんのそれは果恵のとは違った。かわいすぎるのだ。


 果恵が皮膚の薄いあの綺麗な顔をしかめて見せるとき、人は、もっとその無残さにぎょっとしたものだった。僕は何度も見ている。果恵が、見慣れない人の前でそれをやってしまって相手が絶句し、まさに空気が凍りついた瞬間を。


「違う」


 その果恵は確かに、あの、絵筆を折った果恵の中に息づいていたのだ。

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