第23話
そう言えばこの頃何度も、あの日の果恵と僕のことを夢に見た。
ピンク色の陽が包むキャベツ畑の中を、僕たちは歩いている。
あの日と、違うことはただ、一つだけだ。もはや結末を知る僕が、これから降る、不気味なお天気雨に不吉な予感と不安を抱いて果恵を連れていることだ。
僕の傍らで足を動かす果恵は、まだ必死にスケッチブックを胸に抱えて守っている。不安げにひそめられた眉もいつも不満げな眼差しも、一言も無駄な言葉を漏らすまいと、固くとじられた唇の雰囲気も、紛れもなく果恵のものだった。
「早く戻ろう」
あの雨が来ないうち、あの恐ろしい「違う」がやってこないうちに。
果恵がうずくまったあのキャベツ畑の傍を過ぎる。まだ雨は降っていない。大丈夫だ。
するとそこでぽたり、と冷たい滴が頬を叩くのが分かる。やっぱり降ってきた。それはもう、どうしても避けることが出来ない事態なのだ。
気がつくと、叫ぶこともせず果恵はただ、そこにいない。喪われてしまったのだ。
僕は、濡れそぼったキャベツ畑に放り出された一冊のスケッチブックを拾い上げる。
果恵が失踪したとき、持っていたあのスケッチブック。
果恵が発見されたとき、彼女が泥まみれのまま抱えていたスケッチブック。
朝露の中で人知れず死んでいた、カマキリの死骸のスケッチ。
あの日のあのスケッチブックは、もう葬られてこの世から消えてしまったのか。
もはやそれだけが、きちんと知りたいことだった。
桜の頃になり、僕は一人の始業式を迎えた。受験期のクラス替えに湧く、教室の中ですでに果恵は存在しないのと同じだった。
いや、もうずっと前から僕以外は、その認識だったに違いない。眉月果恵と言う生徒はそもそも、この教室にはほとんど居なかったのだ。
使われた形跡のない机と椅子はすでに片づけられ、もう僕の知らない誰かのものになっているはずだった。そして僕には、もはやそんな痕跡を追うことすら出来ないのだった。
果恵のお父さんが、僕のうちの寺に現れたのはほとんど、諦めかけていた頃だ。
「豊くんに折り入って、話があるんだ」
なぜか親父も同席だった。いつもはほとんど使わないお寺の、納戸のような部屋へ呼ばれた。
果恵のお父さんはスーツを着ていた。いつもは山に入るので、ジャケットにジーンズと言うラフな格好なのだが、今日はそこも違っていた。
「待たせたね。とりあえず、色々上手く片付いたから、君にはきちんと話しておこうと思ったんだよ」
僕が眉をひそめるのも、無理はない。
「上手く片付いたって、どう言うことですか?」
「ごめん、言い方が悪かったな。僕も違和感があったが、みんなにそう言われているうち、慣れてしまったみたいだ」
学者肌の風貌を残した果恵のお父さんは、照れ臭そうに頭を掻くと、落ち着いて聞いて欲しいんだけど、と前置きして、そのことを言った。
それは僕が予想だにしなかった果恵の結末だった。
「果恵は、結婚する」
「結婚する!?」
僕は頭が真っ白になった。思わずオウム返しになってしまった。だってあの果恵が、結婚だって。そんなの信じられない。
「君が察した通り、絵の勉強をしに行った、と言うのは嘘だったんだ。今まで黙っていて済まなかった」
果恵のお父さんは改めて座り直すと、僕の前できっぱりと頭を下げた。
「どこへ、誰のところへ行ったんですか?」
「僕にも分からない」
にべもなく、お父さんは首を振った。
「君に隠すわけじゃない。本当に分からないんだ。だが、これだけは確かだ。果恵はいつか、自分の家族を連れて戻ってくるだろう。これからはそう言うことになっている」
「お話についていけません。だ、だってそれっ、どう言うことですかっ」
と、なぜか九王沢さんが突然、僕に詰め寄ってきた。
「那智さんはずっと果恵さんのことを気遣って…納得できないことでも受け入れて最後は理解しようとしてあげていたのに。果恵さんだってそんな那智さんとずっと一緒にいたいと思っていたからこそ、那智さんに身を委ねていたはずです。それなのに…それが急に、結婚した、相手は教えられないなんてそんな身勝手な話、納得できません。いい加減にして下さい。果恵さんも、果恵さんのお父さんも、ご家族も、那智さんの気持ちを、一体なんだと思ってるんですかあっ!?」
「いや、九王沢さんお願い落ち着いてっ」
九王沢さんは一瞬で激怒した猫みたいになった。メロンのようなおっぱいが、嵐に遭ったハンモックみたいに揺れていた。感情移入しすぎてまるで現場にいたかのような剣幕だ。
背を丸めて、ふーふー怒っている九王沢さんはむしろかわいかったけど、そんなに怒らなくてもいいのになあと思った。いや気持ちは嬉しかったけど、九王沢さんにとって、この場で責められるのは僕しかいないのだ。僕に怒られても困る。
「結婚!?果恵が結婚だって!?なんですかそれ!?そんな話で、納得できると思ってるんですか!?」
そのときの僕も納得できず詰め寄った。だってどこから、どう考えても、荒唐無稽な話だった。
「とにかく興奮せずに、まずは話だけでも最後まで聞いてくれないか」
しかし、相手は淡々と、言ったのだ。
「正直、豊くんの気持ちは分かるよ。君には、あれだけ果恵が面倒をみてもらったんだ」
「なあ、豊。
「でも…」
理屈の上では納得できても、気持ちが収まらない。大体、説明する、と言ったって、相手は判らない、どこに行ったのかも教えない。これでは、何も話してくれないのと、ほとんど同じじゃないか。
「重ねて言うが、豊くん、僕は君が無茶をしそうだから隠してるんじゃない。だったら、今まで通りお茶を濁して、黙っていればいいはずだろ」
自分で本当に知らない。
直孝さんは、僕を真っ向から見据えて言うのだ。
「実は僕も、まだ納得がいく話ではない。でも豊くん、君も僕みたいに、受け入れなくてはいけない、とは思う」
と、そこに僕の父親が、何か古い紙の包みのようなものを持ってきた。すでに数百年は経っているだろう、そこに黒々とした太い書字で『眉月家家譜』の文字が見える。
「果恵は選ばれて、嫁いだんだ。僕にはどうすることも出来ない」
「選ばれた?」
以前、少し聞いたことがあった。果恵の眉月家は、東京にも沢山親戚がいて、その家系の中には、霞が関の高級官僚や経団連に連なる財界人もいるのだとかいないのだとか。つまりはそこから、いい縁があったと言うことなのだろうか。
「それとは違う。あくまで果恵は自分の意思で行ったんだ」
「そんなの納得できませんよ。だったら果恵は、そういう人たちの力で無理やり納得させられて嫁がされたってことになるんじゃないんですか?」
直孝さんは、深いため息をついた。それは僕の決めつけにうんざりしたと言うよりは、説明するのに困ったと言うものだったのだが、それすら当時の僕の神経を逆撫でした。
「豊、少し落ち着いて聞いたらどうなんだ。直孝さんだって、真剣にお前に話をしようとしてるじゃないか」
「でも」
この件に僕は、感情的にならざるを得ない。当たり前だ。どう言い含められたかは分からないが、そうとなれば到底、納得することは出来ない。
「…いや、豊くんがすぐにそう思うのも無理はないよ。それがごく、一般常識上の妥当な説明なんだ。しかし、話はそれとは違うんだ」
「違う?」
「君は、どうかな?」
逆に、直孝さんは問うてきた。
「君もずっと過ごしたはずだ。絵を描かなくなった果恵と、あれからずっとね。あの子は、どうしていた?君に悩んだ素振りを見せたかな?絵のことを、相談したりした?」
僕はすぐに応えられなかった。衝撃が大きすぎたからだ。だってだ。目の前にいるこの人も、もしかしたら強く感じていたのだ。僕が果恵に感じたこと、その違和感を。
「今の果恵は変わった、と思います。地震があった日から…僕が、不注意から果恵から目を離してしまった時から」
僕はやっと、それを直孝さんの目の前で言えるのには、少し時間と決意が要った。
「変わった、ね。僕も豊くんが思ったように、強くそう感じたんだ。でも何度も言ったこと、あれは詭弁でも方便でもない。それは君のせいじゃなかった。そこは信じてほしい。果恵が変わったのは、自分の意思なんだ」
「自分の意思」
何も判らないまま、僕は直孝さんの言葉を反芻した。
「でも…果恵は怖がって、いました」
「そうだね。でもあれは、言わばいつものことの延長線上にあったことなんだ。確かに自分の意思に違いない。でもそれは、自分だけではコントロール出来ることではなかった。突然つながった回路に、理性がついていけなかった。ただ、それだけのことのようなんだ」
「…お話の意味が、まだ取れません」
僕の声音は自然と、弱々しくなりつつあった。果恵が『喪われて』しまった理由、それはあの地震があった日の出来事がきっかけだと言うことは、ずっと感じていたことだ。
あれから本当の果恵はどこかへ奪い去られ、今は、見知らぬ
いくら考えても判らない。だったら、現実をそのまま受け入れるしかないのだ。
「つまりね、こう言うことなんだ」
と、直孝さんは言った。その表情も得々としたものではなくて、僕と同じ、どこか重苦しげなものだった。
「果恵は目覚めてしまった。そして今までの何もかもが、置き換えられてしまった。すべてが、僕たちの知らないあるべき場所にね」
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