第22話
そこまで聞くと、九王沢さんは黙ってコーヒーを淹れてくれた。
すでに朝の五時になろうとしている頃で部屋は明ける港の薄明かりが忍び寄り始めていた。僕は湯気の立つコーヒーカップを受け取って初めて、自分の身体が指まで冷え切っているのに気づいた。
(しまったな)
ここまで我を忘れて話し続けてしまった。九王沢さんにも大分、寒い思いをさせてしまったに違いない。
「お砂糖とミルク、入れた方があったまりますよ?」
と、美しい指でカップを包み込んで、あったかそうに息をつく九王沢さん。
僕が思うより先に気遣ってくれたに違いない。つくづく、なんていい子なんだ。
それだけじゃなく、間近で見ても信じられないほど、九王沢さんは美しい。唇などは、この世に生まれたばかりのようだ。そこから白い息が棚引いたが、コーヒーの匂いに混じってする悩ましいほどいい匂いに相変わらず、軽く血迷いそうになる。
「ね、眠たくありませんか?」
と思わず聞いてしまってから、僕はベッドの方を見た。
いや、誘ってるわけじゃないぞ。今のは純粋な意味で、寝ようと提案したのだ。聞かれもしないのに、僕は自分で自分に言い訳した。
「いえ、出来ればすぐに続きが訊きたいです」
真っ直ぐにこちらを見た九王沢さんの瞳は、これ以上ないほどに清かに潤んでいたが、好奇心は褪せずに、ますます冴えているように見えた。
「確かに果恵さんは、不可解です。あれほどに絵を描くことに、人生を傾けていた果恵さんがその必要性を感じなくなり、二度と描かなくなってしまった。そして同時に彼女は那智さんへの盲目的とも言える『好き』も喪ってしまった。絵だけではなく、那智さんも必要なくなってしまったのです。この二つの関連が、非常に気になりました」
一気に鋭い分析を語ってから、僕の様子に気づいたのか、九王沢さんは途端に表情を曇らせた。
「ご、ごめんなさい。那智さんの気持ちも考えず、つい無遠慮に。…もしかしてこれ以上お話するのって、苦しいですか?」
「そんなことはないよ。もう、終わったことだもん」
それもかなり前にだ。強がりでも何でもなく、僕は言うと、九王沢さんが淹れてくれた熱いコーヒーを大事に飲んだ。
「じゃ、じゃあですよ。ここだけは聞きたいんですが」
言いにくそうに唇をすぼめると九王沢さんはカップを持ったまま、ぐいぐいと身体を横にゆすりながら近づいてきた。
「今の那智さんは本当に好きだった方の果恵さんのこと、どう思っているんですか?」
すっごく切ない顔だった。うう。話すんじゃなかったこんなこと、とすら思った。九王沢さんにとってみれば、これ、どこまでいっても僕の元カノの話なのだ。
「今は、当時の気持ちが理解できるだけかな。そもそも果恵が好きだった僕とも、今の僕は違う地点にいると思うし。もちろん、いざ思い出してみたら、ちょっと切なくはなったけどさ」
「分からないんです。気持ちの上では、どうしても」
九王沢さんは僕の答えを聞くと、何か消化不良のような苦しそうな顔をした。
「お話ししたとは思うんですが、わたしは…男性の方と、これまでお付き合いすることもなくて。だから那智さんみたいにそのっ」
「好きになった人を諦めた経験がないから、ってことかな?」
ずばり図星を聞き返すと、九王沢さんは顔を真っ赤にして目を逸らした。
「…じゃあ誰か好きになったこととかは?」
「ありますよっ」
ちょっと退き気味に聞いたのが分かったのか、九王沢さんは涙目になって言い返してきた。
「わ、わたしにだってそれくらいはあります。でもそれはその、お話や文章が素敵とか…と言うか、亡くなった作家さんばかりで」
え?
「なっ、亡くなった…作家さん…?」
「はい、だから、生身の男の人を好きになったのって那智さんが初めてなんです」
衝撃の恋愛事情が返ってきた。僕は今まで好きになった生身の人間を聞いたのだが、九王沢さんの恋愛遍歴は、文章とか肖像とかしか遺ってない亡くなった文豪とかなのだ。
嘘だ。
普通の人なら真っ向否定するはずが、九王沢さんならあり得るとしか思えない。
なのにこの、蠱惑的すぎる九王沢さんの匂い。そして恐ろしく形の整ったHカップ、これまで何のためにこの世に存在していたのだ。僕は気が遠くなりかけた。
この子、どこまでリアル聖処女なんだろう。そもそも一体どこまで純粋培養すると、人間はこんな女の子を育てることが出来るんだろう。
「男性の方から何度かお付き合いを申し込まれたことは、確かにありました。でも、何かぴんと来ないと言うか、相手の方が仰っていることがわたしにはよく分からなかったんです。でも那智さんとデートしたら、全然違いました。那智さんとのお話、すごく楽しくて、これからも、ずっとしていたくて」
このとき。僕は、この世界に蔓延する不条理に苦しめられているすべての人のために祈った。ぶっちゃけ神を呪った。なにしてくれてんだ。
世の男性に想われるあらゆる条件を備えているこんな子に、あんたはどうしてこれほどまでに残念過ぎる恋愛観を与えたのだ。首絞めてやろうか。
「だからわたし、もしこれから、那智さんとずっとお話しできなくなったら、なんて今は考えたくもなくて。今日みたいな日が、いつまでも続いてくれたらいいなって勝手なこと、つい思ってしまって」
これ以上、泣かせないでほしい。その辺の女の子にだってそんなこと言われたことないのに、相手は九王沢さんだ。
「那智さんから見れば、わたし、すっごく子供っぽいこと言ってるの、分かってますよ。人は自分のエゴばかりで生きてはいけません。だからもし那智さんのようなことがあったら、それでも乗り越えなちゃいけないって言うことも」
「乗り越えられなかったよ」
僕は、そこできっぱりと言った。
「本当に好きだったら、諦められないと思う。納得できないから。でも、今でもそうだよ。
僕はこれ以上ないほど真っ直ぐにこちらを見つめる九王沢さんに投げかけるようにして、でもさ、とつづけた。
「それでも、もし諦めなくちゃいけないときがあるとしたら、どんな時だと思う?」
九王沢さんはしばし眉をひそめてから、こう答えた。
「相手の存在が、消えてなくなってしまったとき、でしょうか」
「相手の『感性』が変わってしまったとき?」
九王沢さんはもどかしげに首を振った。
「それは、あまりに短絡的です。それでも那智さんの体験は、非常に特殊だとは思いますが、相手が自分の意に染まなくなったから気持ちが冷めたと言うのだけは、ただの身勝手のような気がします。わたしだったら…一度、好きになるためにとことん知ろうとしたなら、今度は自分が納得いくまで確かめると思います」
だからたぶん、と九王沢さんは言葉を選んで言った。
「諦めるときは、自分の中で、相手が喪われたときです」
「そう、もっと言ったら、自分が死んだときだ」
僕がさらに極端な物言いをしたと思ったのか、九王沢さんは、はっと息を呑んで僕の顔を見直した。
「冗談で言ってるわけじゃないよ。僕は一度、死んだ」
九王沢さんは小さく首を傾げた。
「死んだ?」
「そう」
確かに死んだのだ。
比喩でも誇張でもない。僕は本当に一度死んだと思う。
恐らくはその時に、僕の中の果恵も含めて。そのときに僕は本当の意味で、果恵、と言う女性の感性と、それに呼応する『僕』と言う感性の一部を、喪ったのだろう。
「九王沢さんも自分で言ってただろ。これが、僕が『ランズエンド』を書いても伝わらない、描こうとして描き切れないと、思い極めた最大の理由なんだよ」
どうしても見つからなかった、僕の言葉。それは作者の僕自身にしても、どれほどに筆を尽くしたところで、掴みだし、感じ取ることが出来なかったものだ。
他の誰にも出来なかった。
目の前にいる、ほとんど神懸った直感を持ったこの女の子以外には。
この先を、その九王沢さんにこそ、聞いてもらいたくて。
九王沢さんが聞いてくれると言うなら、僕は眠るわけにはいかない。
僕は意を決して言った。
「今からそれを、話すよ」
それから毎日、僕は眉月家に足を運んだ。果恵に会うためじゃない。果恵以外の誰かを捕まるためだ。果恵の事情を知っている眉月家の人間なら、誰でも良かった。お父さんでも、お母さんでも、お兄さんでもお姉さんでも。
とにかく僕はただ、納得いく説明を求めていた。
「果恵はもう絵は必要ない、と僕に言ったんです。それなのに、どうして春から東京へ絵の勉強をしに、学校を辞めるんですか?」
その凄まじい矛盾に対してその答えは、どこからも返ってくることがなかった。もちろん、当然と言えば当然だ。眉月家の人たちからしてみれば、僕が果恵に出会うと言うアクシデントさえなければ、その件はただ円満に片付いていたことだったのだ。
「豊くん、落ち着いてよ。果恵は本当に絵の勉強をしに行くんだから」
やっと捕まえたお姉さんも困ったように、同じ説明を繰り返すばかりだった。
あの日から、確かに果恵には、何か異変があったのだ。
眉月家の人たちは本当は、誰よりもすぐにその異変に気づいていたはずなのだ。そもそもだ。
あの頑固な果恵が、将来のことも全く考えず、誰の説得も振り切って好き勝手に絵ばかり描いていた果恵が、あのことがあって入院中は、まるで憑き物が落ちたかのように、人が変わっていたじゃないか。
不審に思ったことは、やはり口に出すべきだったのだ。病室での果恵の、手ごたえのない眼差し、当たり障りがなくなった言動。あのとき果恵は、果恵でなくなってしまったのだ。
しょっちゅう反発され、果恵を持て余していたお父さんだって、気づいたはずだ。病室で大人しく本を読み、担当の先生とも看護婦さんともトラブルを起こさない果恵が、かえってどこかおかしいのではないかと言うことも。
「もう描かないから」
これ以上ないほど無残に葬り去った画材を一瞥した、果恵の冷たい眼差しを僕は憶えている。
「絵は描かない。だから要らない。それだけ」
そこには絵を描くための、なんらの情熱も残されていなかった。
そんな人間が、絵を描くために学校を辞める?都合のいい嘘で糊塗するのも、いい加減にしろ。
だってどう考えても、納得できない話だ。
「お前、眉月さんたちに付きまとってるらしいな」
ある日、出かけようとして父親に咎められた。
地域の消防団の寄合に、果恵のお父さんが顔を出すと言う話を、人づて聞いたのだった。電話しても話を聞いてくれないし、自宅に行っても会ってくれないので、直接乗り込んで聞くことにしたのだ。
「女の子の家に付きまとうなんて、自分が何をしてるのか、ちゃんと分かってるか。果恵さんのことは残念だけど、男らしく諦めろ。お前にはどうしようもないことじゃないか」
「諦めろ?どうしようもない?」
さすがに親父でも、僕は引き下がらなかった。
「そんな問題じゃない。僕は納得できないから、話が聞きたいって言ってるだけだ。果恵にじゃない、果恵のお父さんにだ」
「お前には分からないだろうが、ここはな、狭い世間なんだ。うちだって、寺の経営が成り立つのは、地元の皆さんの評判あってのことなんだからな」
「そんなに寺の評判が大事なのかよ!」
僕は目を剥いて、親父に食って掛かった。反抗期は過ぎていたけど、そう言う問題じゃない。
「ああ、お前だけの都合より、よっぽどな」
親父はしかし、醒めた声で答えた。
「果恵のお父さんはむしろお前に気を遣って、黙っててくれているんだ。お前が家に付きまとってストーカー扱いされようが、柚子畑の残骸を漁ろうが、大丈夫だ何でもないって、いつも言ってるのはあの人なんだぞ。おれが怒ってるのはな、世間体だけじゃないよ。なんでお前は、自分を気遣ってあえて黙っててくれるような、そんな人を、満座で問い詰めて恥を掻かそうとしているのか、それを言ってるんだよ」
反論出来なかった。
親父の言葉は僕を、深い奈落へ導いた。必死にもがこうと水面を探している途中に、背中に重石をつけられた気分だった。
だが湧いてきたのは、怒りでも何でもない。ただただ、このまま何もできない自分への、運命を呪いたいような、暗くわだかまる、ひたすら無力な絶望感だった。
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