第21話
それからずっと、連絡はなかった。果恵本人からも、また、眉月家の誰からも。
どこかで何かを置き忘れたまま、時間だけがどんどん経って行った気がした。
事務的な手続きとしての果恵の退学はつつがなく済んだようだった。
僕がそれを人づて聞いたときに至っても、眉月家の誰も僕とコンタクトをとろうとはしてこなかった。
そうしているうちに短い春休みはもう、終わろうとしていた。
桜の枝の花芽が開き始めた頃、しきりと冷たい雨が降った。季節が逆戻りしたかのような寒気を孕んだ重たい雲が空を覆い、昼間でも暗い日が続いていた。
季節外れの寒さになるのは地震の余波で磁場の影響なのだと、この頃、皆がまことしやかに言い合ったものだ。僕たちは、小さな余震にもどこか敏感になっていた。
そんなどんよりと暗い、小雨のちらつくある一日のことだ。
僕は果恵の山がある道の裾を自転車を押して歩いているところだった。親に頼まれて買い出しの帰りだ。地震の影響でスーパーに品物がなくなり、本当にちょっとしたものすら、近所で中々手に入らなくなっていたのだ。
僕は自転車に持てる限りの飲料水と食料品を詰め込み、長い坂を上りつめ、果恵の家の前の通りへ差し掛かろうとしていた。
(相変わらずか)
ふと僕は顔を上げて、想った。
あれから何度か前を通ったが、相変わらずひと気がない。
僕の父の話によると、果恵のお父さんも家のことで忙しいらしく、自治会の寄合などでも顔を見なくなったと言う。大学生の果恵のお姉さんは大学が始まるので都内に戻ったろうし、一番上のお兄さんはすでに社会人なので、この家にはほとんどいないみたいだ。
果恵の消息だけが、あの日からぷっつりと途切れている。この屋敷からは、彼女の気配すら消えたかのようだ。
(都内へ行ったのかな)
僕の知ってる果恵なら、絶対一人暮らしは出来ないだろう。
そう思ったのだが、眉月家は東京に引き受けてくれそうな親戚がいるらしい。さしずめそこに下宿することになるのだろう。
これまでの経過に納得はいかなかったが、果恵自身は自分の才能を生かす進路が決まってよかったとは思った。僕はすでに半ば以上、部外者の気分になりかけていた。
果恵の家がある通りを抜けて、だらだらと坂を下るまでは。どんよりとした空を舐めるように揺らめく、かすかな火の気配に気づきさえしなければ。
そこはちょうど果恵の家の
昔の城跡で言えば、主城を守るための廓が設けられていたような低い台地だ。元々は戦乱の時代さながらの矢竹の藪が茂っていたのを、果恵のお父さんの代に均して柚子の木を植えていた。
柚子は寒い時期に出荷して選果するので、不要な果実を廃棄する穴が掘りこめられていたのだ。直径三メートルほどの穴は人が落ちたら危ないので、それほど深くは掘られていないが、潰した柚子や伐採した枝葉がいっぱい詰め込まれて、朽ちるのを待っていた。
柚子は枝に緑色の
炎はそこから、ぶすぶすと不穏な黒煙を上げて
(ゴミでも焼いてるのかな?)
最初、僕はそう、訝りはしなかった。果恵のお父さんに限らず、庭でゴミを焼くのは、田舎では珍しくもない。だが、こんな寒い小雨の日にわざわざやるようなことでもなかった。
それに近づいてみると、意外と炎は高く上がっていたのだ。わざわざ燃焼剤を使っているのか、軽油のような金臭い刺激臭まで漂ってくる。
つけっぱなしにしていったのだろうか、炎はただ勝手に上がっていた。周囲には誰もいないのだ。
これだけの火だ。さすがに田舎の土地とは言え、人目につくほど大きな炎が放置されていれば、ちょっとした
(無用心だな)
果恵のお父さんなら、絶対にこんなことはしない。
「火は人が見てないと、どんな場所でも危険なんだ」
僕たちも小さい頃、花火の不始末で怒られたことがあるのだ。
無意識に僕は、そこに近づいていた。ここは眉月家の山しかないとは言え、火事になったらと思ったら、放っておけなかった。
近づいてみて、燃やしているのは柚子の枯枝でないことが、すぐに分かった。生木よりも燃えやすい火種の残骸がそこに放り出されていたからだ。
燃えていたのは、スケッチブックだった。
果恵が大切にしていたものに、間違いなかった。
それらは果恵が何年もかけて、色んな場所で描いた日々の集積に他ならなかった。それが落ち葉だまりに押し込められ、灯油をかけられてまとめて焚かれているのだった。
「なんでこんな…」
愕然とした。絶望をそのまま、つぶやくしかなかった。
焦げついたスケッチブックの一部を拾い上げて僕がそこにたどり着いたときには、ほとんどすべてが炎の中に飲み込まれていたからだ。
僕はそれが産み出された月日のすべてを知っている。
僕の一部ですらある。
それほどに、一つ一つに記憶が宿っていた。
気に入らなくて果恵が何度も描き直した線、それが描けたのが嬉しくて飽かずに何度も眺めては大切にしていた線。思い出せる。僕だけが知っている果恵の色々な表情とともに。
燃えてしまう。果恵が、時間を賭けて心血を注ぎこんだすべてが。
気がつくと僕は、燃え盛る炎の中に足を突っ込んでいた。なりふりなど構ってはいられなかった。だってそこにあるのが、僕が知っている本当の果恵そのものだった。それが人知れず断末魔を上げて地上から消えてしまうのを、黙って見過ごすわけにはいかなかった。持っていたバッグで叩き踏みつけ、僕はただ必死で立ち昇ろうとする炎の息の根を止めようとした。
(誰なんだよ)
こんなとんでもないことを、したのは。誰だ。果恵は絵を、描き続ける道を択んだのだ。たとえ僕の前からいなくなったとしても、見知らぬ誰かの意に染まっても、絵を描く道を択んだとしても。ここにあったはずのものは、果恵にとってかけがえのないもののはずだった。
それを無残にも、ゴミの山に押しこめて焚書でもするように焼き殺すことが、そんなことが出来る人間の神経を、僕は心底疑った。どう考えたって、果恵の才能を大切に思う人間が出来る所業じゃない。
僕は靴が煤まみれになるのも構わず、無言でまつわりつく炎を踏み殺した。何度も、何度も。油臭いその息の根が確実にとめまるまで。
だがそれが済んだ頃、ほとんどの絵は、中途半端な残骸に成り果てていた。後にはどう見ても雨にぬれ始めた炭屑だけが残っているに過ぎなかった。
激情に駆られた自分が虚しくなり、僕は小さくため息をついた。
「なにしてるの?」
背中からその声が降ったのは、その時だった。息を呑んだ僕は、我に返って振り返った。
そこに、果恵が立っていた。
いつものワンピースの上に、緑色のカーディガンを突っかけていた。
そして、スケッチブックを入れる布のバッグを抱えたまま。僕を、色のない目で見つめていた。
「絵を焼いていたのは、果恵さんだったんですか?」
そこから先を九王沢さんは、恐る恐る聞いた。もしかして、と言う口調になっていた。
僕は、小さく頷いた。
「しかも焼いていたのは、絵だけじゃなかったんだ。絵を描くための、他のすべても」
スケッチの道具ばかりじゃない。油彩や水彩に使った絵筆やパレット、イーゼル、その他の画材も、大切にしていた画集も、余すところなくすべて。
果恵は容赦なく焼き捨てていた。
それらは念入りに破壊され、油をかけられて燃やされ、二度と蘇ることのないように徹底して抹殺されていた。
「絵を描くんだろ」
もう、我慢できなかった。
「だったら、どうしてこんなことをするんだ…?」
僕は、なりふり構わず問いを叩きつけた。それは詰問としたと言ってもいい口調になっていた。
「答えろよ!」
わたしと、ずっと一緒にいなくちゃいけない。
そう言っていた果恵が、たとえ僕の傍からいなくなったとしても。
絵を描いている。自分の絵を愛して描き続けている。そんな果恵がどこかに存在するならば、僕はそれで納得できた。ただそれだけなのに。
今の果恵は自らその、息の根を止めてしまおうとしていたなんて。
「どうして?」
果恵が口を開いた。しかし、問い返してきたのは熱のない口調そのままでだった。
「要らないから。…もう意味がない。だから、棄ててる。それだけ」
「どうして」
問い返したまま、僕は方途を喪った。
だってどうして。
そんなに無残に、棄てられるのだ。
何もかもを、そんなににべもなく。なんの感情も持たずに。
二の句が接げなかった。
そこで焚き殺されたのは、ただの果恵の私物じゃない。
僕と果恵が共有した時間と経験と感覚と、数えきれない感情が詰まったもののはずだ。
そこに
顔がただ、苦痛に歪むのが分かった。今の僕は生け捕りされた
「もう描かないから」
果恵はそこに止めの
「絵は描かない。だから要らない。それだけ」
その言葉で一瞬、目に映る風景の何もかもが停まった気がした。
「…絵は描かないって?」
「そう。必要ない」
はっきりと、果恵は断言した。
やっぱりだ。
危惧はしていた。どこか、ありえないことであって欲しいと言う恐怖もあった。
しかしそれは紛れもない確信だったのだ。
一心不乱に絵を描いた、僕が愛した果恵は、どこかへ消えたのだ。震災に遭ったあの日、まばゆい光が降ったあの丘で。果恵の顔に宿ったあの、狂気じみた恐怖のさなかに。あの表情が表わしていたのは、まさにその抹消の予感そのものだったのだ。
果恵はそこで、喪われたのだ。
当事者だったはずの僕は、それを直視せずに来たようなものだ。常識のフィルターを被せ、可能性を否定する根拠を積み重ね、あの日以来、啓示のようにして得た確信から必死に目を逸らしてきた。
かつての果恵のように。僕は、すでに言える。
「違う」
と。口にしてみて、ただ愕然とするほどに正しく、狂おしいほどに信じがたいが。
そこにいる果恵は、暗い風景そのものになってまるで間違って紛れ込んでしまった亡霊のように、僕には見えていた。
「君は果恵じゃない」
正気を疑われるようなことを、自分が言っているのは分かっていた。それでも、僕はその言葉を目の前にいる誰かに叩きつけることを堪えることが出来なかった。
「君は、僕が知ってる果恵じゃない。君は誰なんだ?」
「大丈夫?」
果恵は本当に不可思議そうに問い返した。
「意味が分からない。わたしは、どうなってもわたし。何も変わってない。あなたはわたしじゃない。だったら何が分かるの?それにあなたと、わたしはもう関係ない」
「もう関係ないだって?」
そのときの僕の顔は、憎悪に満ちていただろう。
自分でも顔がどす黒く歪んでいくのが分かった。怒りと言う他ない。そして決別に対する怒りではない。どうしようもない不理解がそこに横たわっていることへの紛れもない怒りだった。
もちろんそこで、果恵に詰め寄る気はとうに失せていた。ただ、底のない暗い穴に向かって足元から落ちていきそうだった。怒りが、激情が、これほどに虚しく感じたことはない。だってそれはいかに投げかけようが、そこに叩きつけようが、相手にはもう響かない感情なのだ。
よく分かっている。果恵はそれをもはや、何の感情も、関わりすらもないと言う眼差しで見ていた。茫然とたたずむ僕の手から、スケッチブックの断片を奪い取って始末することしか、彼女のすべきことはなかったのだ。
去り際に一言だけ、彼女は言った。
「さようなら」
それが最後だった。
その果恵はそれから二度と、僕の前に姿を現さなかった。
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