第20話

 果恵が学校を辞める、と言う知らせを聞いたのは久しぶりに教室の生活に戻ってほどなくのことだった。それは三月の終業式の日、果恵が退院してから三日も経たないうちのことだ。


「眉月果恵さんは、東京の学校に来年から編入されるそうです」

 担任が淡々と事情を語るのを、僕は春先の白昼夢のような心持で聞いていた。


 果恵が、美大に行くために、編入する?

 ほとんど学校に来なかった果恵だ。僕にとっては衝撃の一報でも教室では、軽くどよめくだけで終わった。


「やっぱなあ、普通科向いてないもんな」

「良かったじゃん。あの子、やっぱ美術の学校行った方が良かったよ」

 同級生たちの感想はそんなものだったが、僕にとっては青天の霹靂だ。

「那智くんは聞いてたんでしょ、果恵ちゃんのこと」

「ご、ごめん」

 詳しい事情を聞こうとする同級生を押し分けて僕は、職員室に駆け込んだ。


「話では、果恵は美大をずっと志していて、春からその学校へ編入するための試験を受けていたんだって言うんだ」


「ずっと知ってたんじゃないの?」

 担任などは、果恵と四六時中いたはずの僕が、出し抜けにそんなことを尋ねて来たので、本当にびっくりしたような口調で聞き返してきたほどだ。


「果恵さんは、やっぱり美大受験を考えていたんですか?」

 九王沢さんの問いに、僕は即座にかぶりを振った。

「まさか」


 僕には言下に否定できる材料がいくつもあった。

 まず果恵は、美大に行くために進学することを極度に嫌がっていた。


 実は学校に来ないことや数々のトラブルを見かねて、担任と果恵の親御さんとも何度も話し合いが持たれたのだが、果恵はどんなに薦められても美術科のある学校への転校を認めなかったのだ。


 さらに僕はほぼ毎日のように果恵に付き合わされていた。編入試験のことなど、一言も話していなかったし、もし受験したとしてそんな暇なんかなかったはずだ。


 僕は担任から聞いた果恵が四月に編入する学校を、ネットで調べてもみた。編入試験の入試の日は僕と、館山まで強行軍で一日出かけた日だった。


「どう考えても、果恵が試験を受けたはずなかったんだ」


 僕はすぐに、お城の山の果恵の家まで足を運んだ。


 春の穏やかな陽とは反比例して、身を切るような冷たい強風の日だったのを、今、思い出した。冬に逆戻りしたかのような寒気に包まれた邸内は珍しくひっそりと静まり返って、人の姿は一切なかった。


 いつもは忙しく立ち回る果恵のご両親や、農作業をするアルバイトのおじいさんがちらついたりするのだがそれもなかった。


 果恵には会えなかった。

 出たのは、ただ一人留守番していたお姉さんだった。


「そっか、聞いてなかったんだ」

 僕に質問をぶつけられて果恵のお姉さんは、どこか心苦しそうな表情を浮かべた。

「実はね、もう随分前から、話が進んでてね」


 お姉さんが言うには、果恵の絵はもう日本の美術の世界で力のある人の目に留まっていたらしい。


 考えてみればその気配は、なくもなかった。果恵は別に自分の絵を特に外には出したがってはいなかったが、その作品は時折、思い出したように賞をとったりしていた。と、なれば確かにそれは果恵の絵を目に留めたその人物の意向だったことになる。


「美術の世界に限らずだけど、こう言う世界はアカデミズムな力関係が横行する世界だからね」


 学術界に身を置いていた果恵のお父さんなどは、果恵が自分の進路として美術の道を択ぶことを、いつもそうやって危惧してきたが、晴れてその人の肝いりともなれば、もはやそうした心配する必要はないのだと言う。


ゆたちゃんもよく分かってると思うけど、果恵は、本当に才能があったから」

 と、果恵のお姉さんは、僕にとりなすように言った。

「今はちょっとその準備でばたばたしてるから、果恵も会う暇がないけど、もう少ししたら必ず連絡するから、って果恵も言ってたから」


 今日のところは帰って、とまでは言わなかったが、そう言わんばかりの勢いで、果恵のお姉さんは僕の話を打ち切るのだった。


「豊ちゃん、ごめんね。果恵、あんな子でいつも突然だから。お願いだから気を悪くしないであげて」


 玄関の扉を閉めるとき、あまりにむげだと思ったのかお姉さんはそう言って僕を慰めようとしてくれた。


 お姉さんが僕を気遣ってくれているのは分かったし、気持ちはとてもありがたかった。


 でもそこに浮かんだ表情の、どこか触れてはいけないものに触れるような気おくれにも似たある種のうしろめたさが、僕の目にはいつもの優しい果恵のお姉さんの雰囲気と違って、取り繕われたもののように見えて仕方なかった。


「納得いきません。今度は果恵さんの態度に」

 再び腰を折った、九王沢さんは一気に不審顔だ。

「那智さんの主張する今の果恵さんが元の果恵さんではない、とするならば、この対応にはいくつかの点で抜き差しならない疑念が生まれます。一つは…」

 と言いかけてから、九王沢さんは口ごもって、

「あ、あの、いいんでしょうか。部外者のわたしがここまで立ち入った口を挟んでも」

「問題ないと思うよ。僕と、九王沢さんしかここにいないしね。実際僕も、九王沢さんが何に疑念を持ったのか聞いてみたい」


 て、言うかここまで聞いておいて今更だ。

 僕の同意を得てその気になったのか、では、と九王沢さんは意気込むように言うと、


「まず果恵さんが、希望していた進路をこれまで望んでいたかそうでないかに関わらず、択ぶことを決めた、ここには別段、疑念はないかと思われます。そのために多少、自分のことをもっとも知っていると思われる那智さんに対する気おくれがなかったとは、言えなくもないとは思いますが」

「確かに、人は変わる。以前の果恵だって、このままただ自由気ままに好きな絵を描いて、一生を過ごせるとは思っていなかっただろうしね」


 生理的に納得は出来ない。ただ、第三者である九王沢さんから見て、有り得ないことではない、と言う意見に、僕も半ば賛成だ。


「それでも問題は果恵さんの態度の急変です。ことが片付いたら『連絡を取る』。果恵さんはそんな方だったでしょうか?しかも、連絡をする、と、お姉さんに言付けてまでいます」


 以前の果恵だったら、何にせよ直接僕に話をしただろう。たとえそれが、僕にとって大きな不都合や苦痛を生む事態であったとしても。


 僕に対しては一切の呵責を持たない彼女は、厳然たる事実のように、僕にそれを告げたに違いなかった。


「そもそも、その話が正式に決まったのはいつのことだったのでしょうか?」

「果恵の退院後、すぐだって言うんだ」


 そこから急なスケジュールになったため、今は連絡が取れない。確かに辻褄は合っている気がする。


「果恵さんはじめ、入院期間中にご家族の方から、そのような話の前触れは?」

「一切なかった。そもそも果恵は、絵の話自体をしなくなったんだ」


 すでにそのことに興味すら持っていないように、僕には思えた。


 病室での彼女は、そもそも今までの排他的な態度で人と接したりはしなくなった。些細な雑談にも応じ、医師や看護師さんたちの指示にも従順に従い、円満に過ごしているようだった。


 大多数の人にとっては、果恵がそうなってくれて助かっただろうが、僕にとってそれは、大きな違和感だった。


「絵を描かなくなったことについてですが、突然決まった進路に乗ることに、戸惑いがあったせい、とは考えられないでしょうか?」

 僕は少しそれについて考えた後、やっぱりかぶりを振った。

「九王沢さんが言うような心の機微や葛藤もあり得ないことではないかも知れない。果恵が半ば諦めて、自分の絵を認めてもらえる人にしたがうことに決めたのなら」


 しかし入院中の彼女は朗らかですらあった。何かに不満や不安を感じるそぶりもなく、僕に対して取り繕っていた雰囲気すらも見られない。まるで別人のように、日々を過ごすのに穏やかだったのだ。


「果恵はずっとお父さんが差し入れてくれた本を読んでた、って言ってたよね」

 何度も言うがその積み上げられた本の下にあった新しいスケッチブックは、一度も開かれることはなかったのだ。

「でも本当はそのこと自体に、意味があったんだ」

 くしくも九王沢さんが言ったように、僕も気づいてしまったのだ。接ぎ穂されたありきたりな筋書きの仮留の裏に、隠された本当の構図の存在に。

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