第19話

「感性が…喪われる?」


 ついに決定的な違和感を覚えたのか、九王沢さんの綺麗すぎる顔が苦痛に近い色を帯びて歪んだ。


「ありえない話だと思うよ。でも事実なんだ。今までの果恵の人生の記憶はそっくりそのまま残っているのに、『果恵』だけは、そこからいなくなってしまった」

「…那智さんが言いたいこと、何となく分りますよ。でもっ、でもっ…ちょっ、ちょっと待って下さいっ!」


 九王沢さんはほとんど悲鳴に近い声を上げると頭を抱えた。頭脳明晰、博覧強記なあの九王沢さんでさえ、こうなってしまうのだ。


 普通の人に話せないのも当然だ。彼女にしたって、僕が話した論理の流れの上では理解できるが、感覚としてどうにも受け入れがたいと言うところだろう。


 人間の感性だけが実在と記憶を残して、そっくり消失する。


 これはまず絶対有り得ないと断じたくなるほどに、とんでもないことなのだ。


「脳に損傷を及ぼす事故等で、人格が変容してしまう例はいくらでもあります。とても几帳面で家族思いだった人が、頭部を強打する事故を経験し、ルーズで家族に乱暴を働き、アルコール中毒になってしまうなどです。しかしそれは器質的な『欠損』であって、今まで感じていたことが認識できず、『出来なくなった』と言うのに過ぎません」

「そうだね」

 と、僕は頷く。


 今の九王沢さんが言った例は、よくマンガなどである『頭を打ったら突然性格が変わった』と言うものだ。こうした例は、現実世界にちゃんと実例が存在する。


 最も一般的なケースは九王沢さんが言うように、今まで出来ていたことが出来なくなってしまういわば『人格の損傷』を原因とするものだ。


「果恵は病院で脳検査まで受けている。でも負っていたのは転んだり、ぶつかったりした身体の傷ばかりで行方不明の期間中、そうした決定的な損傷を帯びた痕跡は全く見つからなかった。だからそうしたケースには当てはまらないと思う」


 九王沢さんはもう少し考えて、では、と別の意見を言った。

「心因性のショックはどうですか?果恵さんは、通常生活していくにも鋭すぎる直感力や想像力の持ち主だったじゃないですか」

「九王沢さんが言おうとしていることは分かるよ。でも果恵は解離同一性障害かいりどういつせいしょうがいを患っていると言うわけでもなかった」


 これは、いわゆる多重人格障害たじゅうじんかくしょうがいと言われていたものである。


 自分の理性で受け入れがたい出来事に直面したとき、ある種の性質を持つ人は、それを『自分以外の誰かに起きたこと』と認識し、別の人格を創り上げて分離すると言う癖を持ってしまうとされている。いわば極限の現実逃避だ。


 ちなみに人格を分離するとそのとき物理的にも脳波が切り替わり、元の本人と完全に独立した人間になると言われている。多重人格と言う以前の呼称通り、確かに全く別人が一人の人間の中に、誕生すると言う特異な症状なのだ。


 この症例は児童虐待の現場から現れることが多いが、九王沢さんの言う通り、想像力が強くて内にこもりがちな性質を持った人が、発症するケースが大きいようだ。


「でもこの場合、『記憶』も分離されるのが一般的だ。そもそも解離は、自分の元の人格で受け入れられない『記憶』を切り離そうとする動機から起こるものだ。果恵の記憶には全く損傷はなかった。ショックを受けたはずの出来事も、本当に淡々と話した。でもそこに果恵はいない。僕は、そう思わざるを得ない場面に何度も直面したんだ」


 ちなみにあのときの出来事について、果恵は医師に簡潔に述べている。


「地震で帰れなくなって、パニック状態になってしまったんです」


 そこでとりあえず気を落ち着けるために、絵を描こうと思った。それでも動揺は去らず、一人でどんどん足を進めていたら、僕ともはぐれ、いつの間にか完全に道に迷ってしまったのだと言う。


 なるほど、とても分かりやすい。


 果恵の供述に齟齬そごはなく、誰が見ても納得できる客観的な事実経過だった。ただ一つ、同じ体験をした当事者を、納得させることが出来なかったと言う点を除いてはだが。


 果たしてあのとき、果恵に何が起きたのだろう。果恵は何と出会ったのだろう。


 震災後のお天気雨が降る、あの目を奪うようなピンク色の海焼けの中で。


 果恵が訴えた、強烈な「違う」は。

 そして、僕の前で果恵が見せた、尋常じゃない恐怖の表情は。


「怖い」


 あのときの果恵の顔は、確かにそう言っていた。彼女は恐怖していた。あれはその手に負えない恐怖を払いのけようとするがゆえの、「違う」だったのか。


 高校生だった僕も、当時そこまでは考えた。でも自力でそこから先に行くことは出来なかった。とにかく不自然な不安感を抱えて、果恵に寄り添うだけしか出来なかったのだ。


「それから入院中はずっと僕は、果恵の元に通ったんだ」


 熱を出したのが祟ったのか、果恵は十日ほど入院することになった。僕は暇さえあれば時間を作って果恵のところに通っていた。思えば行くたび僕は、自分の中にある恐れの正体を確かめずにはいられなかったのかも知れない。


 病室で果恵はずっと、本を読んで過ごしていた。果恵のお父さんが運び込んでくれたものらしい。ベッドサイドには文庫本の山が綺麗に積み上げられていた。


 三月の薄曇りの淡い光の中で、無言で本を読んでいる果恵の姿を今も思い出せる。どこか詰まらなそうなむすくれ顔は、以前の果恵だった。


 でも、文庫本を貪り読む彼女は、以前の果恵ではなかった。なにしろ僕の知っている果恵は本当に気に入ったものでないと、本など、ほとんど最後まで読み通したことなどなかったのだから。


「入院は退屈?」

「うん、誰も来ない」


 会話はいつも、こんな感じだった。だが果恵はほんの少し、素直になったように、僕からみて思えた。


 実際、僕と果恵の家族以外はほとんど訪問客はいなかった。携帯電話も彼女は持っていないし、動き回るのには制限があるとは言え、一人で何かするとしたら最高の環境だった。


「絵は?」

 僕はある時、思い切って聞いてみた。山積みになった本の下に、リング式のスケッチブックが寂しそうに頭をのぞかせたままになっているのに気がついたからだ。

「描かない」

 まだ、と果恵は付け加えるように、即答した。


 果恵はしないと断言したことは、何があってもしない。そこは以前のままだ。


 だが、まだ、と付け加えるように言い添えたのは、僕にとっては初めて聞くニュアンスだった。果恵はどんな場合であれ、物事を捕捉しない。今のは、僕に対しての弁解がましく聞こえたのだ。


 ちなみに本の下にあったのは、入院してから買ってきてもらったのだと思う、まだ真っ新なスケッチブックだった。彼女が行方不明になったときに持っていたそれはどこへ行ったのだろう。


 果恵はその新しいスケッチブックに何も描くことがないまま、退院することになる。


 以前の僕が知っている風景の中の果恵と、そこに新しく現れた果恵。


 違いは説明できない。

 とにかく、会うたびに何かが違う感じは分かるのだ。それは口にすると消えてしまう感覚であり、誰にも答えの求めようのない、まるで希薄な気体の気配だった。


 実際、僕も気のせいかなと、やっぱり違う、と言う二つの極の間を揺れ動いた。この時期は、毎回果恵に会うたびに一喜一憂したものだった。


 それでも果恵は、変わってしまったのだ。彼女のところから戻るたびに、僕の中に確信的な思いが降り募っていきつつあった。


 やっぱりあの日以来、何らかの部分が確実に。

 果恵本人にも、果恵の家族にも、果恵を知る誰かにも、それが分からなくても、果恵は変わった。


(違う)


 その声は、僕の中に居残った果恵の声でもあった。


 僕の中には以前の果恵がデッサンするときのように克明に描き残した、果恵自身が存在していた。もし彼女なら、今の果恵を前にして眉をひそめてきっぱりとそう、と言っただろう。


 引っかからずにやり過ごせれば、それが一番いいはずなのに。見過ごすことが出来なかったのは、僕の中の果恵がまだ、恐怖に震えている気がしたからだ。


 怖い、と言った彼女が表現しようとした恐怖は未だそこにはっきりとした形を持っていなかった。しかしそれは、いずれ姿を現す。あのとき見た果恵の巨大な恐怖の残像は、警告を伴って僕の胸を衝き続けていたのかも知れない。


「分かりません」


 九王沢さんが眉をひそめてついにその言葉を口にしたのは、その時だった。


「九王沢さんの言いたいこと、分かるよ。ともあれ、果恵は無事だったんだ。健忘症からもちゃんと回復したし、風邪は惹いたけど、命に別状はなかった。でも、僕にとって問題はそこじゃないんだ」

「そんな那智さんが、わたしには分かりません」

 九王沢さんはふくれっ面をして抗議してきた。


「確かに絵を描かなくなったことは、果恵さんにとっては大きな変化ではあると思います。でも果恵さんが以前通りに絵が描けなくなったとして、そのことが那智さんにとってはそれほど大きな問題だったのでしょうか?誤解があったら指摘して頂きたいのですが、那智さんは、果恵さんの才能自体に惚れこんでいたわけではないとわたしは思ってました。もっと、別の意味で強いつながりを感じていたのだと、わたしはお話を聞いていてそう解釈したのですが?」


 九王沢さんには珍しく、畳みかけるような口調だった。分からなくもない。九王沢さんだって女の子だ。


 自分の何かが少し変わったぐらいで、あなたは真剣に愛したはずの人をあっさり見限るような人なのか、九王沢さんが問いたいのはそこなのだ。


「率直に言うよ。確かに僕は、果恵の才能に惚れこんだわけじゃなかった。彼女の才能が誰かえらい人に認められて、途方もない存在になってほしいとも思わなかったし、そもそも彼女の絵の素晴らしさが、僕に分かるものでもなかった。ただでも、果恵の絵を描くための感性は、果恵って言う人間を構成するかけがえのない一部だと思っていた」

「理屈では分かります。でも」

 気持ちの問題なんだろうな。女の子には特に、それが重要なんだろうけど。

「そうだな。じゃあこうしよう」

 僕はちょっと考えると、言葉を選んでこう尋ねた。

「憶えてるかな。昼間、九王沢さんは、僕に一つ困った質問をしたと思うんだけど」

「質問…ですか?」

「そう、自分のどこが好き、って言うやつ」

「あ、あの、ああっ、あのっ…あれはっ」

 九王沢さんは形のいい瞳をいっぱいに見開くと、悲鳴のような声を上げた。

「どうしても知りたいことがあってやってみたと言うか、わたしのどこが好きなんて、そんな大それた質問、本気でしたわけじゃなくて…だからっ、だから忘れて…みんなっ忘れてくださいっ」

 早口で一気に話すと九王沢さんは、顔を赤らめてうつむく。かわいすぎる。

「じゃあ、僕も試していいよね。九王沢さんに同じ質問、今答えてもらってもいいかな?」

「えっ、ええええっ!?わたしが、今、ここで、那智さんの好きなところを言うんですかっ?」

 一瞬で九王沢さんは、沸騰した薬缶みたいになった。

「言えません」

「どうして?」


 そんなとこ全然ないからです、とか言われないだろうな、と思いながら、僕は聞いた。


「だって、思いつきません」

 ええっ、やっぱり?と思ったが続く言葉は、僕が危惧していたものと違った。

「的確に言い当てられる言葉がないからです。…何か一つ口にしたら、それは、わたしが那智さんのこと、好きって言う本質から遠ざかってしまう気がするからです」

 九王沢さんは上気した唇を、震える指で抑えこむと、次の言葉をまとめた。

「これはわたしも知らなかったことだと思ってます。今、那智さんに質問されて、自分でもびっくりしました。だってデートに行く前は、はっきりと答えられたんですから。那智さんは誰のものでもない、自分だけの言葉を持ってる人なんだって。だから好き、って」

「今は?」


 ああ…、と小さいうめき声を漏らすと、九王沢さんは、顔を両てのひらで覆ったまま、自分の黒い髪の中に表情を埋めてしまった。


「分からないんです。一日過ごしたら、もっとはっきりするかなって思ってたら、そんなこと全然ありませんでした…」

「じゃあデートする前と比べたらさ、はっきり言えなくなった好き、は行く前と比べて小さくなった?」

「大きくなってますよ!でも、今度はそのせいで全体像を捉えきれないと言うか」


 涙目で顔を上げた九王沢さんは、今度は自分の豊かすぎる胸を抑えて、恐る恐る言った。


「何を口にしようとしても、『違う』んです。果恵さんではありませんが、今の自分の気持ちに一つ、何か決まった言葉で容れ物を作って取り出そうとしてみても、意味がないと言うか、やっぱりそれは不完全な気がします」


 ここまで言われて、気絶しそうになった。生きてて良かった。いや、運命に感謝している場合じゃない。


「実は僕も同じ印象を、九王沢さんに持ったよ」

 僕は全力で平静を装うと、彼女にそう告げた。

「僕もデートする前は、はっきり言えたんだ。でも違うな、と思い出した。まず僕は、九王沢さんが本当はどんな子なんだか、よく知らなかった。でも、それが分かったら、九王沢さんのことちゃんと好きになれた。でもその好き、は一言では表現出来なくなった。何を口にしても、『違う』からだ。でもさ、その『違う』はまったく不正解の違う、ではないよね?」


 九王沢さんは僕の意図に気づいたのか、顔を上げて目を丸くした。


「それはただ、不完全な『正解』なだけなんだ。不一致ではなく、一致に近い不一致。一部だけど、全部じゃない。例えばタコの足が映ってる写真だけを指して、これがタコだ、と言うわけにはいかないだろ?そんな感じじゃないか」

「足だけ…つまりそれはゲソ、と言うことでしょうか?」


 九王沢さんはそこに食いついてきた。今のはボケたのでなく、完全に天然ものが出てきた。たとえが悪かったみたいだ。象とかにしとけば良かったかな。まあ、それはともかく。


「相手のことを知ろうとすればするほど、『好き』は分からなくなる。データーベースの情報量を増やしても、そこから答えはすでに出てこないんだ。どこにあるのだか分からないけど身体中の何かが、もう反応してしまっている」


 それこそが、紛れもなく『感性』だ。


「喩えるとそれは、同じ周波数で交信する通信機がついているみたいなものでさ」


 たぶん僕と果恵にも、それが埋め込まれていた。


「あのことがあった後も、僕は同じ周波数で果恵とそれをやり取りしようと思っていた。でもいくらチューニングしようと、相手には届かないし、向こうからも反応してくることがなくなった。でも、それも考えてみれば当然だった。だってもう向こうの方の受信機はとっくに撤去されていたんだから」

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