第18話
「三日目に果恵は、銚子から少し南に行った
どこの藪を掻き分けて来たのか、発見時、果恵は髪も服も泥だらけ、剥きだしの手足には芝や濡れた草にまみれた細かい傷が無数についていたと言う。
ずぶ濡れだけに熱があって
僕たちにまで情報が届く決め手になったのは結局、そんなひどい状態になっても彼女が大事に抱えていたあのスケッチブックだったのだ。
自分を責めさいなんだ三日間の終わりに、僕はようやく息をついた。だがまだ、終わっていなかった。そのときの僕は一時の安堵で忘れていたのだ。
果恵があれほどまでの恐怖を感じながら、
「違う」
と言った、そのものの正体に。それはまるで僕の足元で海流に洗われて揺らぐ地殻のように、不気味な本震を孕んだまま、実は沈黙していただけなのだった。
「記憶喪失、ですか…?」
九王沢さんは案の定、怪訝そうな顔をした。
「戻ってきた果恵さんが、記憶を喪っていた、と」
九王沢さんの言葉が含むところを確認しながら、僕はゆっくりと頷いた。
熱から冷めた果恵は、徐々に会話をするようになってきた。その様子ですぐに分かったのだ。果恵が自分の人生に関する全ての記憶を喪っていたことを。
「ショッキングな体験には、必ずあることだ。災害や戦争のショックで一時的にそうなってしまう人の例も少なくない」
だが、果恵のそれは違っていた。
喪われたのは、ただの記憶ではなかったのだ。
「信じられないかもしれないけど、とにかく言わせて」
と、僕は意を決して言った。
「彼女自身だけが、そこで喪われたんだ」
ついに、僕はその言葉を実感を持って吐き出せた気がした。
被災時のショックで彼女はただ記憶を喪ったのではなかった。
彼女自身がそこで喪われたのだ。
あの時の、
「違う」
それは、その言葉を生で聞いた僕だけが、いち早く気づくべきことだった。
「ちょっと待ってください」
九王沢さんがあわてて遮った。僕は話を進めるのをやめた。分かっていたのだ。九王沢さんは必ずそこで、話を止めるだろう。常識的に考えて、それは当然なのだ。
「那智さんが体験したことは体験したことで、それは事実だと思います。しかし、きちんと確認しなければならないことがあると思います。例えば那智さんはさっき、記憶喪失、と言う言葉をあえて使いましたよね」
「うん、ごく一般的な意味でだけどね」
僕は小さく頷いて見せた。
九王沢さんが言わんとすることは、僕にも分かる。
「脳科学の見地からすると、生体の人間の脳から記憶が『喪われる』ことはまず、有り得ないんだったはずだ。意識下に表出してこないのは、ただそこに『つながる』手がかりを喪っただけなんだそうだよね」
記憶喪失。
フィクションの世界では安易に使われることが多いこの概念だが、病状としては、
「健忘症」
と言う。『喪われた』のではなく、『忘れてしまう』病気だ。
「脳は
その通りだ。パソコンのデスクトップや僕たちの操作の及ぶ範囲を『意識下』だとすると、『データが削除された』と言うことはそのデータにアクセスするショートカットが喪われただけで、データそれ自体は確実に存在する。
その証拠に廃棄されたハードディスクでも解析ソフトをかければデータを再生出来るのだ。同じように健忘症になった人間も理論上、何かのきっかけで記憶を取り戻すことは可能なのだ。
「健忘症には、新しいことを覚えることの出来ない『
果恵の場合、発見された時にほとんど自分と身の回りのことは話が出来なかった。だがそれは時とともに少しずつ回復していったのだ。
「確かに震災のせいで、一時的に被災時の記憶や自分の生活史を健忘してしまった人は他にもいたって聞いていた。でもそれは予期せぬ混乱を突然体験させられたために起こった心因性のもので、症状はごく一過性のものだったはずなんだ」
「果恵さんの健忘症は、完全に回復しなかった?」
「いや、生活記憶そのものは間もなく全て思い出したんだ」
これは僕が後で知ったことだが、お父さんの顔を見た時には果恵はその名前を言葉にしないまでも、はっきりと記憶があると言う反応を見せたそうだし、兄姉と再会すると、次の日には自分の身元と名前をきちんと答えることが出来たと言う。
「那智さんのことは?」
「ちゃんと思い出したよ。あの日、僕たちが犬吠埼で被災し、どうやって行動したのかも。でも、大事なのはそこじゃなかったんだ」
「どう言うことですか?」
九王沢さんは怪訝そうに眉をひそめた。
「信じがたい話だった。でも、僕は薄々感じてはいた。保護されてから初めて、僕が果恵に会ったとき」
小春日和の陽射しが溜まる病室で。
びっくりするほど色のない眼差しを、果恵は向けてきた。僕は憶えている。
思いつめただけの熱量と強さをまとっていた果恵の瞳が、薄く澄み切ってただ僕を見ていたことを。
僕はただ、愕然とした。
真夏真っ盛りの太陽と真冬の昼の月くらい、それは違っていたからだ。
強いアルコールが誰が触れたわけでもないのに、いつの間にか真水に変えられてしまっていたように、僕はある種、魔法をかけられたような非現実的すぎる感覚で、そんな果恵の姿を見返していたのだ。
「憶えてるよ」
彼女は唐突に言った。それから介添えの医師と家族に話した。それこそこれ以上ないくらい完璧に。僕の名前から、関係から、あのときあったこと、余さず全て。
「でもそこにもう、彼女はいなかった。果恵がその目で僕を見ただけで、一瞬どきっとしたんだ。今の果恵は僕が知っている果恵と『違う』んだって」
「そんな、それだけで。もっときちんと確かめなかったんですか?」
そこまで聞いて九王沢さんは堪えきれなくなったように言った。
「果恵さんは那智さんを愛していたんでしょう?那智さんだって、ずっと果恵さんと一緒にいたいと思ってた。それがどうして何の確認も諍いもなく、『違う』と言う一言だけですれ違おうとしてしまうんですか?」
「僕だって納得いかなかった。でも、話したと思うけど僕は突然、ぽんとそれだけ渡されたんだ。否応なく唯一絶対の、一つの答えを」
答えは果恵と再会したそのときから、目の前にあった。
あのとき、僕の『
確かに果恵は、喪われてしまったのだ。
肉体は死なず、記憶は死ななくても。
納得できるはずがない。実存としての果恵はちゃんとそこにあるのに。
僕はその結果だけを渡され、抗おうとしてさらに思い知らされ、叩きのめされた。
「果恵はあれから絵を描かなくなった。興味も持たなくなったんだ。今まで見ていたもの、感じていたこと、信じていたこと、全部」
「分かりません」
九王沢さんは納得いかないと言うように首を振った。
「ただ、絵を描かなくなったことが、それほど問題でしょうか」
だとしても、果恵は果恵じゃないか。本当に愛していたなら、愛された時間があったなら、もっとどうして信じて待ってあげることが出来なかったのか。これ、誰がどう考えてもそう感じると思う。
「僕だってそれをしたかった。でも、それが徹底的に無駄だと思い知らされた」
肉体の実存や、記憶と言う情報量の問題じゃない。なくなってしまったのは、それが再現されたからと言って、そこに存在するとは限らないもの。
それこそさっきまで、九王沢さんと話していたことだった。
「こういうのが、一番適当かも知れない。あの確変で、僕は確信させられたんだ。あのとき確実に、何が起こったのか」
九王沢さんにもっとも伝わりやすい言い方が、僕の中に一つだけあった。重い気分をおして、僕はそれをようやく口にした。
「喪われたのは、果恵の感性そのものだった」
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