第17話

「そこで一体、那智さんたちに何があったんですか?」


 ここは心なしか九王沢さんも、力が入るところだ。だが僕は、ありのままをそのまま話すしかないだけに、特に高揚も動揺もしていなかった。


「まず皆が判る、状況的な事実だけを話そう。僕たちが犬吠埼に降り立ったちょうどその日だ」

 決心すると、僕は口を開いた。

「その日は三月十一日だったんだ」


 あの大震災が起こったのは、その日の午後二時四十六分十八秒だったと言われている。震源は言うまでもなく東北、宮城県沖の海底だったが、その直接的な影響範囲は岩手県沖から茨城県沖までの南北約五百キロ、東西二百キロにも及んだそうだ。


 僕たちがいた銚子市に限らず震災の影響は、太平洋沿岸全域に渡り、銚子より海抜高度が低い南の旭市や匝瑳市そうさしでは、津波が押し寄せ、町並みが破壊されたところも多かった。


 僕も知り合いで車ごと高波にさらわれて九死に一生を得たり、自宅を流されて戻ってきたら、トイレの穴しかなかったと言う人の話を聞いている。東北でも深刻なダメージがあったが、ここでもそれほどに凄まじい震災だったのだ。


 被災直前、僕たちは犬吠埼からちょうど駅に戻るところだった。灯台の入り口のスロープを上り、旅館が立ち並ぶ広場を抜け、畑の中の犬吠埼駅へ戻ろうとしていたのだ。


 僕たちは野外の広い場所にいたので、屋内にいる人ほど命の危険は感じなかった。でもこの地震がいつもの規模と違う、何か非日常的なものだと言うことは、すぐに分かった。


 いつものように晴れ渡った空を見上げると電柱がぐらぐらと、まだ揺れていた。そしてそれだけではない、僕たちの足元ですらまだ波間に揺れる甲板の上に立っているように、どこか心もとなく動かされ続けていたのだ。


「大丈夫」

 揺れが去ると、果恵は即座に言った。


 たぶん海端でもここなら、津波にさらわれることはないだろう。彼女はそう感じたからこそその一言を口にしたのだろう。


 僕はすぐ自分の親と、果恵の親御さんに連絡をとった。あそこも海から離れた山だから、そうした心配はないと思われたが何しろ、これまで経験したことのない大きな地震だったのだ。


 電話もメールも繋がらなかった。もちろん一斉に、皆が僕と同じことを感じ、同じ行動を取ったのだ。恐らくしばらくは、回線がパンク状態に違いない。


「どうしようか」


 僕はつぶやくように果恵に問いかけてみたが、それはまずどうやって帰ろうか、なのだった。僕たちは電車で来たのだが、それはもう動いてはいない。混乱した銚子市内のJRは、もっと混雑してしまっているだろう。


「歩く」

 果恵の判断は客観的に見ても、間違いではなかった。


 確かに少し遠いが、僕たち二人で歩いて帰れない距離でもない。電話もそのうち繋がるかも知れず、家に近づいていたら、どこかの時点で、迎えにだって来てもらえるかも知れなかったからだ。


 地球が見える展望台のある坂を、僕たちは歩いていた。ここは歩道がなく、畑の間を急なカーブが螺旋らせんを描くように通っているだけなのだが、歩行者には危険な道も今は、車一台通っていない。


「すごい地震だったね」

 僕は何度か果恵に話しかけたが、それは一人でつぶやいているみたいな形になった。


 果恵にしてみれば一緒に被災したのだし、今更言うまでもないことだと思ったのだろうが、いつもとは違いすぎる事態が起きて、僕も中々気持ちの収まりがつかなかったのだ。


 携帯電話はまだ、どこにも繋がらなかった。


 果恵の判断は尤もなことに変わりないが、この辺りの風景は見晴らしがいいから近くは見えるが、実際歩くとなると、かなり遠いのだ。


 斜面に広がるキャベツ畑を行く僕たちを、午後三時を回った陽射しが照らしてくる。被災直後の陽射しは柔らかく、ともすると果肉色のピンクががってすら見える幻想的な光だったが、空気ばかりはぴんと冷えて、真冬のそれに逆戻りしたかのようだった。


 ぽたり、と頬に当たってくるしずくを、僕は感じた。狐の嫁入りだ。地震で地場が狂っているせいか、お天気雨まで降り始めた。


「違う」


 僕の腕に寄り添っていた果恵がつぶやいたのは、その瞬間だった。違う。一見、場違いとも言える彼女の言葉に、僕が戸惑ったのも無理はない。


 最初はお天気なのに雨が降っていることかと思った。しかし果恵がそんなことをとやかく言うはずはない。僕は辺りを見渡したが、そこには果恵が非違を判断する何ものも見辺りはしなかったのはずなのだ。


「…どうかした?」


 僕はなるべく優しく彼女に問いかけてみた。恐らく非常事態が続いて、一見平常心に見える果恵も、どこか混乱していたのかもしれない。だが戻ってきた答えは、僕の予想をまったく覆すものだった。


「違う…」


 目を閉じてその言葉の痛みを噛みしめるように果恵は大きく首を振ると、次の瞬間、両手で僕を思いっきり突き放したのだ。僕は道畑のキャベツ畑に落ちそうになって、ようやく留まった。


「なにするんだよ」

 そう言い返したが、彼女はもう答えられる状態じゃなかった。

「違うの…」


 果恵は全力で首を横に振った。それから自分の頭をかきむしり、全身の悪寒を無理やり取り押さえるように、両腕を自分の身体に食い込ませると、ついにそこに崩れ落ちたのだ。


 ばさり、と彼女がさっきまで大切に抱えていたスケッチブックが路面に投げ出された。


「違う!違う!違う!違う!違う!」


 泣き声は絶叫になった。アスファルトに膝をついたまま、果恵は頭を抱えていた。そして、絞り出すような声で同じ言葉をアスファルトに向かって叩きつけていた。


 一体、何が違うと言うのか。

 なすすべもなく佇みながら、僕はずっと考えていた。


 さっぱり分からなかった。だが、これまでとは異なる「違う」が、彼女の直感の中から姿を現したことは、僕にも何となく分かった。今思えば、果恵はそれに全力で抗っていたのかも知れなかった。


「違うの!」

 果恵はついに顔を上げて、茫然と僕にも訴えかけてきた。

「落ち着けって」

 返す言葉がなくて、僕は言った。


 どんな恐怖が果恵を襲ったのかはまるで見当はつかないが、とにかくいつものように昂ぶった気を落ち着かせてやるしか、ここはないと思ったのだ。


 こんなことになって僕だって困惑していたのだが、なるべく優しい声音を選んだつもりだった。大丈夫、いつものことだ。落ち着けばいつも通りの仏頂面になって、僕に添って歩き出すに違いない。


 今の地震のインパクトが強かったせいか、いつもより強く果恵の感性が振れているだけなのだ。僕はそう自分に言い聞かせながら、果恵の次の反応を待った。


 皮膚の薄い果恵の顔はほの赤く血の気を帯びていたが、寒さのせいか震える唇はいつもより褪せた色彩をまとっているように見えた。


 驚くべき変化が、そこに現れたのはそれからすぐのことだ。

 果恵の視線が下に向き、何かを探るようにうつむきだすと確かにそこで恐ろしい震えは収まった。唇に手を当て、彼女は何を想っていたのか、僕には分からなかったがこの時点でまず一安心だと、僕は思ってしまった。


 しかし顔を上げた果恵の表情がくしゃりと歪み、明確な不協和音を発したとき、僕はそこにまだ、果恵に悪寒をもたらしたものがまだ去って行っていないのを、思い知らさせた。


 眉をひそめ、瞳を見開き。唇をすぼめ、果恵は僕を見返した。

 はっきりと分かった。

 彼女は恐怖していたのだ。


「大丈夫?」

 僕が手を差し伸べようと一歩踏み出すと、その顔のまま果恵は一歩、足を退いた。

「来ないで」

 あの確信的な果恵からのものとは信じられないほどの、か弱い声が出た。

「お願い」

 果恵に言われれば、僕はそうするしかなかった。


「少しでも歩かないと、日が暮れる」

 それでも、僕は現実的な判断を言い募ってはみた。


 この非常事態だ。本当は一刻も早く、家に帰った方がいい。常識的には何をおいても、そのはずなのだ。


「少しでいいの。少しでいいから…一人にして」

 しばらく、と自分が取り落としたスケッチブックを拾い上げながら、それでも果恵は言った。


(絵を描くのかも知れない)

 僕はそれで、一歩譲った。それがいつもの呼吸でもあった。


 今、彼女が恐怖したのは何か問答無用の直感が降りて来たのだ。

 そしてそれが、果恵にとって今、絶対に描かなくてはいけないものなら。


(この非常事態だって、誰にも止める術はないんだ)

 僕はそう、自分に言い聞かせることにした。


「あんまり遠くに行っちゃだめだぞ」

 こくり、と果恵は頷いた。

「すぐ戻る」


 はっきりとした声音が戻っていた。果恵の恐怖はすでにそこから去ったのだ。こんなことになったが、それで僕はすっかり安心してしまっていた。


「果恵さんは戻ってこなかったんですか?」


 九王沢さんの問いに、僕は無言で頷いた。あの時は、パニックになったなんてものじゃない。


「果恵はそのまま、いなくなったんだ。僕は彼女と来た道を戻って、隈なく探した。でも果恵はどこにもいなかった」


 やがて電話がつながり、僕は両親から果恵の親御さんに連絡を取ってもらった。そしてその足で銚子市の警察署に行き、失踪時の果恵の身体的特徴を話して保護を求めた。


 結局その日僕は、夜中に両親が迎えに来るまで釘づけになったが、果恵は銚子市では発見されなかった。港のある市街地もまだ、混乱冷めやらぬ状態にあった。


 銚子大橋は通行止めになり、漁港では鋭角に傾いた船が海に突き刺さっていた。大小となく事故や事件の連絡が入る中、ただ僕が目を離した隙にいなくなっただけの高校生の女の子の案件は、みるみる埋もれていくように僕には感じられた。


 それから二日の間、警察から情報が降りてこないので果恵のお父さんがバンを出してくれ、手分けして心当たりのある場所を探した。危険な場所に果恵がふらふらと迷い込んでいないか、それだけが心配だった。


「大丈夫だよ。君は悪くない。むしろ悪いのはあの子だ」


 と、果恵のお父さんは諄々じゅんじゅんと諭してくれたが、もし果恵に何かあったなら、それは誰もが言わなくても僕の責任だと言うことは、よく分かっていた。


 どうしてあの時、いくら暴れられようが悪態をつかれようが、果恵を繋ぎ止めておかなかったのか。


 一人で絵を描かせるにしろ、遠くからついていって見張っておこうと考えなかったのか、せめていつもは使っていない携帯電話の電源を入れさせて、それから行かせるくらいの配慮は出来なかったのか。


 果恵と最後の言葉を交わすまでのやり取りが、何度も頭をよぎった。


 あそこでああしておけば。ああ言う風に言っておけば。すべては、ただの後悔でしかなかった。


 そしてもちろん、そうしなかったことには、意味があったのだ。この時の僕はまだそれをまったく理解していなかった。

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