第16話

「確変」


 九王沢さんの目線がその言葉の意味を探るように、僕の目線より少し上をさ迷った。よく人が嘘を吐くとき、視線がさ迷うと言うが九王沢さんのそれは、頭の中でその言葉を何度か同じ意味の別の言い回しに変換しようとして、連想を働かせているように僕には思えた。


「結婚」

「いや、そっちは考えなくていいと思います」


 僕はすかさず言った。

 さっき元カノ、と言う単語に対して謎の反応した九王沢さんに対しては、この言葉はもっと危険な匂いがしたからだ。


「ちなみにですが」

 様子をうかがうように、やがて九王沢さんは尋ねてきた。

「結婚しなくても一生一緒にいるだろうと言う、そのお互いの意思は確認していたのですか?」

「ううん」


 僕も九王沢さんと同じように、少し明るくなってきた天井に目線をさ迷わせて考えると言葉を整え、やがてこう応えてみた。


「多分だと思うけど、それは果恵も同じ考えだったように思うんだ」


 果恵は物事にカテゴリを作って、その枠内で物を考えることは一切しない人間だった。


 たぶんそれは借りものの言葉で先回りして容れ物を作ってしまうと、そこに自分の感じたはずものを無理やり当てはめなければならないことになってしまうからかも知れない。


 ちなみに果恵はパソコンをはじめ、その他の電子機器に触ることも絶対しない人間だったが、(携帯電話も僕にプレゼントされたはいいが、ほぼ電源を切っていた)もしパソコンを預けたなら、彼女のデスクトップは、フォルダのないファイルだらけになってしまっただろう。


 果恵が本当に必要な情報の在り処は、彼女自身にしか、分からないようになっていたし、果恵本人も実は、よく探せない分からないな状態になっていたのではないだろうか。


「ない」


 その日も、彼女はJR銚子電鉄の電車の中でカバンの中身をごそごそひっくり返していた。現実的な問題においても果恵は、実によく物を失くすのだった。


 そしてしかもそれはいつも、彼女の思いっきり身近にあることが多かった。違う、とか要らないものはすぐに見つける癖に、必要なものは全力を出しても自分で見つけられないのだった。


「スケッチブック」

 要望に沿い僕は黙って、カバンの中にあるそれを取り出してやった。

「なんで」


 果恵は思いっきり眉をしかめて問い返した。いや、なんでって。それはまるで、僕が隠したと言わんばかりの態度だった。


「バッグの内ポケに隠れてたんだよ。て言うかさっき、電車に行くとき入れるの見てたんだ」


 ふうん、も、そう、もなかった。果恵は黙ってそれを受け取ると、4Bの鉛筆で速写画クロッキーを描き始めた。


 描いていたのは、今朝、アスファルトと芝生の隙間で死んでいたカマキリの姿だったらしい。


 果恵とそれを見たとき、最初僕は引き抜かれたままの青草が放置されているのかと思ったのだが、よく見るとそれはへしゃげたまま横たわっているカマキリなのだった。


 なんでそんなものをとても急いで描こうとしたのか、僕にはさっぱり分からなかったが、断片的すぎる彼女の言うことを要約すると、デフォルメした人体の筋肉の曲線に、それはどこか共通点があるとのことだった。


「金剛力士像とかそう言うの」


 ああ、とそれでちょっとぴんと来た。歴史の授業か何かで習ったのだが、あれは不自然にへしゃげ、ひねりこまれた人体の造形なのだと言う。


 もちろん、僕が見てもその二つに関連性と共通項を見出すことは出来ない。彼女にしかない感覚がそこには、必ずあるはずなのだった。


 果恵の丸くなりかけた鉛筆の先が、極端な形に薄く引き伸ばされた草色の死骸を描いている。みるみるうちに形を成したそれは、交通事故で変形した自動車やバイクのパーツにも見えた。


 しかし、浮かび上がっていくイメージとともに果恵が創り出す風景を見守っていると、僕たちが今朝、出かけるときにふと目を留めた風景が、前後の記憶とともにありありと蘇ってくるのだ。


 不思議だ。そうするとこれは、何よりも確実に、あの朝露に濡れそぼってその生を終えた、誰にも顧みられることのないカマキリの死骸の姿なのだった。


 そのとき、犬吠埼いぬぼうさきの駅に、電車は到着しようとしていた。住宅街の中を縫って、小高い駅の向こうだ。こぢんまりとした小さな白壁の駅舎が、この鉄道の終点なのだ。


 ホームの風景が目につくと、僕は先に立とうとした。もちろん、スケッチに集中しすぎて降車ぎわにばたばたしてしまうだろう、果恵を気遣ってのことだった。


「違う」


 しかし、果恵にはそんな気遣いは、見当違いのもののようだ。瞬間、ぐいっと強い力で、僕はシートの上に強引に引き戻されたのだ。


 果恵はもう、スケッチをしていなかったのだ。さっきのカマキリは、がらがらのシートの上に放り出されている。僕をシートに引き戻した果恵は、何をしているかと言うと、肩を震わせて泣いているのだった。


「何かあった?」

 一応、僕は聞いた。

「うるさい」


 突き返すように、果恵はべそをかきつつ言い返してきた。

 もちろんその言い草にこっちもむきにはならなかったし、それでいいのだと言うことを、僕は経験から学んでいた。うるさい、と言い返してきたけど、彼女が本当に言いたいことは違うのだ。


 果恵は、

「怖い」

 のだった。怖くなることに、本当は理由はないし、本人もよく分かっている。


 感覚の鋭すぎる彼女は、描いているものに入り込み過ぎていると、いつもこうなる。果恵が生まれ持ったその感覚の切れ味はこの上なく鋭い代わりに、きりのように尖らせた硬質鉛筆のように、もろくて危ういのだった。


「これ要は、いわゆる神経過敏の一種かと思うんだけど」

 僕が解説すると、

「分からなくもありません」

 九王沢さんはその言葉をゆっくりと噛みしめるかのように、何度も頷いていた。


「美はおそれである、と言葉にすると、逆に見当はずれかも知れませんが、美的感覚の鋭さは、ある種の恐怖につながると思います。画家でなく作家の例ですが、日本で言うなら、三島由紀夫みしまゆきおさんが『小説家の休暇』の中で描かれています。彼は、音楽が嫌いだとそこに記しています。それが人間の暗い深層心理からやってくる、未知なる恐怖ですらあったようです」


 その記述は僕も読んだことがあった。同じ本の中で三島由紀夫は明晰な昼の海の風景には美的感覚を感じるが、夜の海のとどろきには恐怖を感じると、表現している。


 三島は音楽の素晴らしさを理解出来ないとしながら、音楽について過剰に感じるものはあったようだ。


 自分の画に対する果恵の感覚は、それに近いものだったのかも知れない。自分の美的感覚に向いた感情が剥きだしなのだ。


 果恵は仏頂面の不愛想にしか見えないと言う人の方が多かったが、一日行動を供にすると果恵は泣いたり、笑ったり、素直に手放しで感情をぶつけてくるのだ。


 しかしそれは過剰だったり、タイミングが急だったりして、慣れた人ではないと、予測のつかないものだったため、多くの人は彼女を宇宙人を見るような目で敬遠するしかなかっただけなのだ。


「果恵は中世人ちゅうせいじんだからね」

 と、果恵のお父さんはよく言っていた。


 大地主である実家の財産管理をする後見人が必要になったために結局出戻ったが、果恵のお父さんは元々学者志望で、さる名門大学の史学科研究室にいたのだ。


「中世人ですか…?」

 九王沢さんは案の定、その言葉に眉をひそめた。

「正式な言葉じゃなく、果恵のお父さんの造語か、僕みたいに聞きかじりじゃないかと思うんだけど。日本の中世の人は、感情の表出が僕たちよりも激しかったんじゃないかって、書いている人がいるんだ」


 この辺は、九王沢さんにはぴんと来ないところだったと思う。だが、普通に中世の文学や史資料を読んでいても、日本の中世人は僕たち現代人に比べて色んな意味で、実に感情的と感じる。


 彼らは怒ったときには顔色を変えるほどに怒鳴り、悲しいときには声を放って泣いた。えこひいきや差別を始めとした、他に対する好悪の感情も露骨だった。その感情の激しさで自らの身体を刃物で傷つけることをも厭わなかったようだ。


 例えば恨み、と言う言葉があるが、中世では憎悪と愛情の念はこの言葉で一体になっていた。恨みが深い、と言うのはそれだけ愛情が強いことであり、また逆に強く憎むことに転ずる、と言う表裏一体の意味合いだったのだ。


 果恵は確かに、恨みの深い女の子だったと思う。その情感は絵画と言うジャンルの中に否応なく押し込められていて、まるで薄いたらいいっぱいに張った水のようだった。


 好悪、美醜、そして恐怖、それは彼女が絵を描くために動くたび、ぐらぐらバランスを喪って波打って溢れ返るのだった。


 僕が犬吠埼駅を出ようと行った時も、果恵は無言で僕の腕にしがみつくばかりだった。彼女をなだめる言葉なんてない。とにかくそんな状態でも移動できるなら、僕に出来ることは早くそこから降車させてやることしかなかった。


「とにかく降りよう」


 そして僕たちは二人、小さな駅舎を出た。果恵は足をもつれさせたままついてきたが、どうにか外へ出られた。


 駅舎の前、道を挟んだ向こうには青い葉をのぞかせたキャベツ畑が広がっている。左に折れれば、灯台へ出る通りだ。潮騒の音が、ここからでもかすかに聞こえる気がした。


「着いたよ」


 僕はありきたりなことを、果恵に認識させようと、やや時間をかけて彼女にその風景を確認させてみた。果恵の身体の震えは、そのときにはどうにか収まっていた。


 やがて自分で呼吸を整えたのか、果恵は僕の腕にしっかりとしがみつき直すと、ただ一言だけ、

「海だ」

 と、言った。


「…やっぱり普通に腕とかは、組んだりはしていたんですね」

 突然の九王沢さんの食いつきに、びくっとしながら僕は頷いた。

「果恵さんは恋人としての触れ合いを、求めはする方だったんですか?」

「どうだろう」

 僕は少しその意図について考えてみたが、やはりこう言うしかなかった。

「そうだな…これ、九王沢さんだから言うわけじゃないけど、果恵はそう言う恋人がするべきスキンシップにはほとんど魅力を感じていなかったんだと思うよ。とにかくただ、無条件に信じられている、そんな感じかな」


 無条件で僕を信じている。


 自分で言って的確だと思ったのだが、果恵はいつもそんな感じだった。


 果恵は言わなかったが彼女にしてみると一般的な恋人が口にする、

「会話がない、キスがない、肉体関係がない」

 それらについての不満や不安は、ただ相手への不信感そのものに過ぎないと、感じていたのではないか。


 それよりもさっき九王沢さんに話した電車の中での出来事のように、果恵は自分に寄り添ってくれる人の呼吸と実在を信じることを喜んだ。


 それがさっき九王沢さんが言った、運命的直感の産物であるとするなら、そう言えたかも知れない。無数の選択肢と言うジャンクから、果恵はその電撃的な直感でなんの疑いもなく、一掴みにそれを感じ取っていたのだから。


 迷惑を感じつつ僕の方も、その果恵の想いに酔っていた節がある。


 だから肉体的な関係の進展については、果恵とはずっとこうしているのだから、別に関係を急ぐ必要はないとも考えていた。もちろん相手は歴とした女の子だったし、これだけ密着されれば、正直気持ちがふらつくときだって何度もあったが。


 もちろん、性欲満点の思春期の高校生にしては、持ち重りのしすぎる敬虔けいけん過ぎる気持ちだ。


 ただ自分に意気地がないだけじゃないかとも、思ったりもした。

 それでも僕が理性を保ち続けることが出来たのは、僕も果恵がしかるべき時に、今の関係を推し進める行動を自分から選んでくれる。そのことを、無条件に信じていたからだ。


 果恵がその鋭すぎる直感で、一気に選んだ運命なら信じることが出来る。僕の方が焦らずとも、それを待つ方が僕たちにとって唯一最良の道を択ぶことが出来ると、僕は判っていた。それは直感でも何でもなく、経験上のものだった。


 今思えばだが、そうやって妄信的に果恵が導く運命へと身を委ねながら、僕はそこに敷かれたレールの先が崖だと言うことを知らずにいたのだ。

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