第14話

「確かに、人間にたとえれば、これは間違って埋葬された遺体です」


 九王沢さんはぎょっとするような表現で、僕の意図を汲んだ。


「しかしどこで間違いが犯されたのか分かれば、正しい場所へ葬ってあげることが出来ます。まずはそれには、遺体を生前の元の姿に復元する作業が必要なのです」

「元の姿に復元する?」

「はい、出来ないことはないと思います」


 九王沢さんは『ランズエンド』のページを開くと、言った。


「那智さんもさっき、同じようなことを話していたはずです。作家は自分の立場から逃れることは出来ない。自分を表現せざるを得ないんです。たとえそこに、いくらフィクションと言うイミテーションを織り交ぜようと」


 その言葉を皮切りに九王沢さんはメモを取り出すと、僕の話を聞きながら、『ランズエンド』の内容を的確に解体していった。それは確かにまるで、遺体の腑分けだった。


 九王沢さんは熟練した監察医のように、一つ一つの文章を、表現を、展開を取り出していき、そこに接着された不自然なものと、本来僕が表現しかかった「やむを得ない」ものに切り分けたのだ。なんとその場で、である。


 彼女の判断には、恣意的な流れはもちろん、一度の迷いもよどみもなかった。書いた本人が自分のことだって中々分からないのに、九王沢さんは、恐るべき直感力で、僕の感性を切り分けていく。


 一つとして彼女の判断に、異を唱える部分がなかったと言うのが、驚異的だった。


 みるみるうちに『ランズエンド』が、原型に立ち戻っていく。


「問題は接合された展開に、なかったことにされた本来の進行です。このお話では、主人公の男性を見限った女性には、密かに関係を始めていた別の男の存在がたびたび暗示されます。


 それはすでに初期の会話からも、伏線が張られていることですが、彼はこの時点ですでに相手の態度からそれを追及できるだけの材料を持ち合わせていました。


 しかし、主人公がその事実をはっきりと認識させられるのは、その場ではなく別離を決意してから、半月も経って後のことです。しかも彼はそれをなんの葛藤もなしに無条件に受け入れ、相手に対してそのときもう、何の感慨も持たなかった、と描かれています」


 九王沢さんが感じたことは、皆が感じたことの範囲内にまだあった。そこで僕は、反射的に言い返した。


「皆にとっては不自然かも知れないけど、そう言うときってあるんだよ。それって後でやっぱりあそこでもう少し粘ってしがみつけば良かった、とか未練を持つのと揺れ動く、表裏一体の感情で」


 僕は似たようなことを依田ちゃんに指摘されたときの逃げ口上をそのまま述べた。そう言えば依田ちゃんもそこはさんざ追及してきた。


「全体的に主人公が受身過ぎなのが、気になり過ぎです。作者都合でただ動かされてるって言うか。自分が好きな人に他に相手がいることが分かっているなら、それをはっきりさせてやろうとか、行動や言葉に移さなくても上手く呑み込めない気持ちが消化されていかない部分の描写がないと、読んでる方はいらっとします。


 この人、自分の現実に対して無抵抗って言うか、いろいろスムーズ過ぎません?て言うか主人公、僧侶ですか?ヒマラヤで修業した高僧の恋愛なんですか?」


「さすが依田さんは、鋭いことを仰いますね」

 それを聞くと、九王沢さんは、どこか悔しげに唇を噛んだ。

「わたしも同感でした。さっきのS‐O‐R図式を思い浮かべて下さい。

 人間は自分の状況判断のパターンで対処出来ない事態にあったとき、本能的にそれを経験として消化する作業を行います。

 そのためにまず、自分の言葉で現状を置き換え、把握できない部分をあぶり出すんです。ちょうど生物の免疫機能のように」


 例えば病気になったときなど、異物が入り込んできたときに機能する人間の免疫機能に喩えて九王沢さんはそれを表現した。そう言えば、病原菌に対処しようとする免疫機能の行動と、人間が経験を消化しようとする作業の構造はよく似ている。


 いわば『異化いか』と『同化』の過程なのだ。


 僕たちの身体は、例えば未知の病原菌が侵入してくれば、身体はそれを異物と判断し、これまでの状態を保とうとする恒常性機能を維持しようとして反応する構造になっている。


 その際に自分と自分以外のもの、これをはっきりするのが『異化』だ。


 それはさっきのS‐O‐R図式にとれば、『自分で判断できる変数』と『そうでない未知の変数』を区別する動きに繋がる。認知心理学者は、人間は外界の刺激(S)に対して、即座に媒介変数(O)を変容させると図式を簡略化するが、その間には、今までの自分を維持しようとする人間の恒常性からくる本能的な抵抗の中間過程があるのだ。


 当然、自分の立場から『遠い』ものほど『異化』の反応は強い。外界の刺激に対してそれを自分のものとして『同化』するか、『排除』するかの判断を迫られるわけだ。もちろん『排除』を前提にしたとしても、基本的に人間は現状に適応して『同化』の道を選ぶ。


 まずどれほどに違和感を覚えようと、人はとりあえずは分かる範囲では、相手のことを分かろうとはするのだ。なぜなら結果判断はどうあれ、自分はその状況に出会ったと言う事実に直面し、生きていかなければならないからだ。


「主人公が初めから運命に対して受動的なのには、意味があると思うんです。まずすぐに指摘できるのは、彼が受け入れがたい現実に対して受身になるまでの過程が抜けていること。依田さんが指摘したように、そこには『異化』と『同化』がせめぎ合う過程があったはずなんです。分かりやすく言えば、いわゆる『納得』と『拒否』が。しかし、彼は一切の葛藤もなく、ただその過程から出た『答え』だけを持ってそこに立っています」


 九王沢さんは僕の様子を見ながら話を続けた。


 僕は応えなかったが、その指摘は確信を得ていた。

 あの流れに翻弄されるばかりの主人公の造形。


 もちろん。それには理由がある。


 実際僕は、過程を経ずに、その答えだけをいきなり渡されたからだ。人智を超えた未来の人工知能が決定する、不可避の人間の運命のように。検算不能の答えだけをぽつんと渡されたのだ。過去を掘り起こして描くなら、僕はもう、そこから始めるしかなかったのだ。


 とりあえず僕はそれをそのまま話すことにした。なんと、作者が分からないと言うのだ、それは読者にとってはお門違いの尻の持ち込み方だっただろう。


 普通の人ならだれしもが眉をひそめたに違いない。しかし、九王沢さんの反応は僕が予想したものとは違った。


「とても、興味深いです。実はその答えがまず、聞きたかったんです。わたしもこの主人公に対しては同じように、感じていましたから」


 と言うと九王沢さんは本を開き、あるパートを僕に見せた。


「となると、やはり台詞の価値が鍵になるのではないでしょうか。ここには、相手側の女性と那智さんが関わった本当のやり取りが書かれているはずです。わたしが注目したのは、この部分なんです」


 九王沢さんが選び出したのは、主人公が彼女を説得しようとするシーンだった。


「あの受身な主人公が、相手の気持ちを変えようと、珍しく自分から言葉を投げかけてきます。しかし、相手からはにべもなく、こう返されて話を打ち切られるのです」


「何を言っても、何か返ってくる」

 うんざりしたように、彼女は眉をひそめた。

「あなたと話してるといつもそう。あなたが言いたいことって、みんなもう、この世界にちゃんと準備してあるのよね。でも、一つとしてあなたのものじゃない。だから本当はどれも、最初から聞く価値なんてなかったのよ」


 あなたは自分の言葉で語っていない。


 僕は思わず目を見張った。


 それって、今日僕が九王沢さんに言われ続けていた言葉と同じじゃないか。


 そうだ、今まで気づかなかったが、僕はすでに以前、違う相手からこの言葉を投げかけられていたのだ。


 さすがは九王沢さんだ。彼女は無数のジャンクの中から、あの電撃的な直感力でこの言葉を掘り出してきたに違いない。


「この言葉に応えきれず、彼は再び沈黙の世界に入っていきます。絶句の過程で彼はこう考えます。(と、九王沢さんは内容を朗読した)


『この世界に無数に存在する『好き』を表現する言葉。そのどれもを禁じられたとしたら、自分はどうやってそれを彼女に伝えればいいのだろう。


 確かにそこにあることばかりは、僕には分かるのだ。それを伝えることだっていくらでも出来るはずなのに。彼女はそのあらゆる手段を放棄しろと言う。その上で厳重に閉じ込められた箱から、蓋を開けずに大切な中身を取り出してみせろ、と詰め寄るのだ。それを彼女は刃を突きつけてするように、僕に要求しているのだった』


 物語ではここで対話は終了し、主人公はついに自分の言葉を見つけられずに終わります。締めくくりの言葉が印象的です。


『好きと言う以外にない、あいまいでいて巨大なはずの情報量を表現する他の言葉。果たしてそんな言葉があったのだろうか。それはこの世界に、ではなく、僕の中に形作られた力強い何かとして。僕は、彼女に与えられた最後の時間でついにそれを見つけることが出来なかった』」


 九王沢さんの澄んだ朗読の声が、僕にはあのときの光を浴びた記憶を呼び起こさせた。


 確かにあそこで僕の意思は途絶したのだ。


 九王沢さんは遺体だと、それを表現した。でも僕は本当はそこにあるのは、遺体だとすら、実感できなかったのではないか。


 僕は大きく息をつくと、覚悟して言った。


「九王沢さん、僕の言葉は確かに届かなかった言葉だった。たぶん僕は彼女に、届かなかったことを認めることすらしていなくて、結論を受け入れただけだったのかも知れない」


 彼女が好きだった。


 その言葉の死を、僕はまだ受け入れていない。


 それは単純に、まだ諦めていないと言う意味ではない。突然死に絶えたその言葉が僕の中で宙に浮き、まだ亡霊のように漂っていると言うことだ。


 決して大げさな話でなく、彼女を愛した僕は、確かに一度死んだ。そして気がついたら、蘇生していた。僕の中でその過程がすっぽりと抜けていることが、今の僕が書く文章の空疎さを形作っているのだ。


「彼女と言うのは、小説の女性ですね…?」

 九王沢さんはうかがうように小さな声で尋ねると、心配そうに僕をのぞき込んできた。

「この方はもしかして、亡くなられているのですか?」

「いや」

 僕は反射的に言ってから、思い直してかぶりを振った。

「死んではない。常識的に、物理的にはと言う意味でだけど。でももう存在しない。僕につながる道は、そこで全て喪われてしまったから」

 九王沢さんは美しい顔を痛ましそうにかすかに歪め、しばし何かを思った後に質問を重ねてきた。

「どんな方だったんですか?」

 グラスに少し残ったジンを舐めながら、僕は考えた。

「物凄く直感力の鋭いだった。九王沢さんとはまた、別の意味でだけど」


 あなたには自分の言葉がない。


 九王沢さんと同じことを、僕はかつて彼女に言われた。

 でも考えてみれば、一つ決定的に違う点がある。


 彼女は僕の中に自分の言葉がないと断じ、九王沢さんは、あると信じてくれた。僕はそんな九王沢さんに全てをきちんと話したかった。そこでついに彼女の名前を告げることにした。


「その人の名前は、眉月果恵まゆづきかえさんって言ったんだ」

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