第13話
どこから話したらいいだろうか。どうやって話そう。
その言葉を自分に投げかけてみて、ふと現れてきたのはある女の子の映像だった。
すでに三年以上ぶりになるその記憶は、もう僕自身のものですらない。
記憶の片隅に引っかかっているのは、ほとんど実感すら失い、断片的な欠片としてジャンクの中に突っ込まれているような、今の僕にとって置き捨てられた映像だ。
彼女の話をしよう。
僕の中で、ある女の子の映像そのものがゆっくりと、瞳を閃かせた。
(そうだ)
彼女のことについて、まず僕は九王沢さんに話さなければならないんだった。
目を閉じて僕は、彼女の断片的な思い出を仕舞い込んだ映像を解凍した。
まだ、何とか思い出せはする。
陽にきらめいて少し赤い、肩まで伸びた髪、それに山なりに分けられて白く光るおでこ、切り詰めたように細められる透明な光を集中した眼差し。
西日の中で振り向く、薄いフリルのワンピースをまとった華奢な身体つき。
陽に蒸れた咲き初めの花を思わせる、まだ青臭さを感じる甘酸っぱい香り。
突き刺さるような訴求力を持った声。
そして僕に話しかけた言葉の数々。
これらはもう、喪われた。どこにも繋がることがなくなってしまった。
僕にとって、だけじゃなくて今、生きているはずの彼女にとってもそれはもはや、完全に今ある現実から途絶した記憶への手がかりなのだ。
「結構、事情が複雑なんだ」
結局、言いわけをするように、僕は口を開いた。
「どこから話したらいいか、分からないからとにかくいちから話すよ。だから」
きっと長い話になる。
この短時間で、僕たちがどこまで気持ちを共有できるかは分からない。何しろ、これから僕たちが潜ろうとするのは、物凄く深い場所だ。本来は物語ですらなく、それがはっきりとした形を採る以前の。でも、僕はそこへ、潜ることに決めた。
日常の光が届かないほど、垂直に掘り込まれた、とても長い意識のプールに。普段、小説を書くなら、そこには自分の身の丈ほどにしか潜らない。息が続かなくては、戻ってこれなくなってしまうからだ。
その水槽の底にうっかり落とした指輪ほどの何かを、僕たちは頭を下に、どこまでも潜って取ってこなくてはならないのだった。
「ねえ、九王沢さん?」
僕が勝手に語りだしたのが悪いのか、九王沢さんは、じっと息を詰めているばかりで本から顔を上げない。
さっき一応、物語の口火を切ってみたんだけど肝心の彼女の返事がないのだ。あれ、もしかして僕に全然注意向いてない?
「あのさ、そろそろ…話をしてもいいかな?」
「ええっ?!あっ、はっ、はい!」
もう一度、僕が言うと九王沢さんは、おでこを指で弾かれたように冊子から顔を上げた。
「ごめんなさい。お話聞く前にもう一度って思っていたら、つい内容に見入ってしまいました。でも、もう大丈夫です。お話、どうぞ。いつでも、どこからでも、うかがいます」
と言うと九王沢さんは足を組み替えて座り直した。玄関先で飼い主を迎えるトイプードルの子犬みたいだった。さすがは英国系クォーターだ。微妙に正座が出来てないのだ。
「ごめん。すっごい話しづらい」
「どうしてですか?今、那智さんの声、一番よく聞こえてますよ?」
どきどきするからだよ!まださっきは隣に座ってるくらいだったからいいが、こんな近くで真っ直ぐこっち見られると、吐息の気配すら感じられてしまう。しかもジンの気配が九王沢さんの吐息をもっと甘く、悩ましいものにしている。
さらには中途半端に畳まれた太ももの線が、ちゃんと正座出来てない分、いやにしどけなくて。
これでは精霊どころか淫魔が先にやってきそうだった。
僕は床に手をついたまま、ぐいぐい迫ってきそうな九王沢さんから顔を逸らして、ため息をついた。だったらさっきみたいにそっぽ向きながら話を聞いてもらった方がまだましだった。
「そ、そうだ、九王沢さん。本」
僕はあわてて自分の小説が載っている会報誌を拾い上げると、九王沢さんの顔との間に距離を作ろうとするように掲げてみせた。
「サークルの合評会みたいに読み合わせするって言ったろ?だったらそこから話を始めないか?」
「合評会みたいに、ですか…?」
九王沢さんは目を丸くしたが、すぐに何かにぴんときたのか興を得たように、その唇を綻ばせた。
「それは名案だと思います」
「まず、読んだ率直な感想を聞かせてくれないかな。今、ここで読んでみた印象でいいいよ」
すると九王沢さんはきらりと瞳を輝かせた。
「率直に言っていいんですか?」
「う、それは」
さすがに言葉に詰まった。これだけ近しくなったから分かるが、この子、本当に容赦なしなのだ。ほんわかしてるように見えて、言い合いも鋭く果敢に挑んでくる。
その迫力はまるで、レイピアで決闘する騎士である。やっぱり欧米のディベート感覚ってそうなのだろうか。でも僕は覚悟を決めた。この子と向き合うことで、僕はもう一回あの場所まで、絶対潜るって決めたからだ。
「うん、言いたいこと言っていいよ、なんでも。僕だってさっき、九王沢さんにあることないこと、さんざん酷いこと言っちゃったわけだし」
そう言えば、僕はまだそれをちゃんと謝っていなかった。僕は彼女とのディベートに敗れた上、逆ギレして置き去りにしたのだ。さっきは本当にごめんね、九王沢さん。
「批評ですから、そうした問題とは別だと思います。それにさっきのはさっきので、わたし、逆に嬉しかったですよ。いつも優しい、那智さんとは違う顔が見れましたし。たぶんさっきの、依田さんも知らない顔ですよね?」
「う、うん」
依田ちゃんにあんな態度とったら、僕は間違いなく息の根を止められるだろう。恐らく、言い訳すら聞いてもらえずに。
「またわたしだけの、新しい那智さんが知れました」
九王沢さんはそんな僕の答えを聞くと、嬉しそうに身を揉んだ。
「『苦い和平より、分かち合う痛みを』」
九王沢さんは密事を話すように、自分の唇に人差し指を当てた。
「入英以来の九王沢家の家訓です。わたしの両親も、お互いの間で認識や意見の違いがあれば、わたしが幼い時から夜中まで納得いくまで言い合いをしたりしていました。どんなに忙しいときでも。今でもたぶん、そうでしょう。
わたしたちは、本質的には分かり合おうとするために対峙し、そこで対話をするんです。だから那智さんはわたしのところへ戻ってきてくれたし、『ランズエンド』に隠された那智さん自身のお話を、話すことを決意してくれた」
九王沢さんは言うと、そこで苦い和平を放棄した証としてその小冊子を供述宣誓書のように、掲げて見せた。
「じゃあ、まず一見しただけの印象を言いますね」
僕は息を呑んだ。九王沢さん、どんなことを言うんだろう。
「感想としては、皆さんが合評会で那智さんに寄せていたものと、ほぼ変わりません。非常に退屈な作品でした。タイトルは内容にそぐわなく、展開はおざなりで、人物描写はあっけないほどに平板です」
うおっ、これずきっときた。
「心理描写に至ってはところどころで状況との食い違いや作者の単純な思い違いが見られ、またそこで使う必要がないと思われる比喩表現や言い回しの多様が気になります。そのためにただでさえ薄い話の筋が、作者の文章力のひけらかしで水膨れしている印象さえ受けました」
今まで受けた中で、間違いなく一番辛辣でいて鋭い酷評だった。一っ言も反論できない。
皆が「ぴんと来ない」とか「話がちぐはぐ」とか「全然読み進まなくていらっとくる」とか好き勝手に言うのを余すところなく総合して成文化するとこんな感じになるのか。
「しかしそれはあくまで一見した印象なんです。まずわたしの目を留めたのは、この文章全体が、不自然に水増しされ過ぎていることでした。
必要のない表現が書き足されて心理描写がぼやかされ、誰もが聞くまでもなく先が読めるような凡庸な展開や人物設定が接ぎ穂されて、それがちぐはぐな印象を与えているんです。
これはちょうど中世の画家が、発表できない画題を隠ぺいするときに似ています。
九王沢さんは絵画の美女のような謎めいた笑みを含むと、話を続けた。
「彼らも、絵画で那智さんと同じことをしました。完成された下絵がすでに存在するのにキャンバスに不必要なものを描き足して、または違う題材にそっくりと描き替えて。
そうやって元の色彩を塗り重ねでぼやかして、そこにこめられた意図を上手く隠すんです。完全に隠すのではなく、そこはかとない暗示や寓意をそこに残しながら。まるで知らずに通り過ぎていくギャラリーに、皮肉を投げかけるかのように」
「そんなに僕、すっごい人じゃないんだけど」
作品に謎をかけるなんて、これじゃまるでレオナルド・ダ・ヴィンチだ。
「確かに。彼らは『伝えてはいけないこと』を、伝えるためにこの手段を用いました。でも那智さんはたぶん、別の動機で同じようなことをしたんですよね?」
「動機って言うか、逃避って言うか」
『ランズエンド』。
そのタイトルを思いついたときに、僕の頭の中に自然と映像が入ってきたのだ。
彼女がいた風景。
そして、僕があの日浴びた夕暮れの光線。
その不可解な陽射し。
とにかくただ、事実だけを言おう。
僕は僕が出会った現実を、あったことそのままに表現することが出来なかった。
僕たちの間で内包された空気や感覚そのままに。なぜなら本当はそれがあったことそのものより、何より重要だったから。
物事の経過や筋をただ追うことでは、表現しきれない多くのものがあったはずだったのにそれをすべて亡くしてしまったから。そして今の僕にとってはまだそれは、いぜん一貫として不可解さの塊そのものだったのだ。
全く不可解なまま、物語を描くことは本来、誰にも出来ない。何か物事を表現するときには、たとえただの断片に過ぎなくても、自分なりの把握と納得が必要なのだ。僕にはそれが出来なかった。
そこでただ
そこで本当にあったはずの文脈を、僕が安易に走って殺してしまった、そのことは認めざるをえない。
これもいわば、作家の悪夢の一つだ。
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