第11話

 仕方なく僕は、言われた通りにそのまま真っ直ぐ歩いてみた。そうして見慣れないビルの谷間を縫って歩くうちに、なんといつしか見慣れた風景に。


 あれっ、ここ、中華街の近くだ。左手をずっと行くと山下公園の通り、大きなマンションやビルに囲まれた谷底のような場所だった。


「あっ」


 何気なく目の前のコンビニ明かりを吸い寄せられるように見ていて、僕は声を上げそうになった。なんと九王沢さんだ。こんな偶然ってあるのか。誰だか分からないけど、電話の人、本当にありがとう。


「九王沢さ…」


 と、安易に声をかけようとして、僕は口ごもった。


 コンビニ明かりの中、一人でぽつんとたたずんでいる九王沢さんを見て、僕がどれだけ彼女を傷つけてしまったか、一目で分かったからだ。


 僕を追いかけて迷子になってしまったのか。九王沢さんは途方に暮れた表情で、じっとうつむいて時をやり過ごしていた。


 泣き顔のままだ。泣き腫らした後の瞳は伏し目がちになり、憔悴しょうすいした頬は淡く血の気を帯びてしどけなく濡れた気配を放っていた。


 半分開いた唇のあわいは、まだ言い残したことを探すかのようにかすかに震えを帯びていた。その姿を見ていると、僕は本当に罪悪感を禁じ得なかった。


 あれだけの暴言を吐いた上、慣れない日本の夜の繁華街に置き去りにしたのだ。本当に、寂しい思いをさせたに違いない。心細い気持ちでいるに違いない。


(全力で謝ろう)


 もう許してくれないかも知れない。

 でもまずはちゃんと謝って、とにかく今夜は無事に部屋まで送り届けよう。


 僕が意を決して声をかけようと思った時だ。ちょうどげらげら笑いながら出てきた、パーカー姿の若い男たちの三人組がゴミ箱の隣で泣いている九王沢さんを先に見つけた。


 もちろん、九王沢さんに目をつけないはずはない。


 こっちがまごついているうち、あっという間に九王沢さんは、三人の男たちに取り囲まれた。言い方は悪いが、これ、ハイエナの前の松坂牛である。こんな連中の生息域に絶対いない九王沢さんが目をつけられないわけないのだ。


「なになに!?ええっ、て言うかなんで泣いてんの!大丈夫!?なーに?暇ならさ、おれらと、飲みに行こうよ!いーじゃん、ね、ね!?」


 場違いな大声がこっちまで聞こえてくる。まずすぎる。いくら九王沢さんでも、こんな無遠慮なテンションの連中にはかなうはずない。


 泣き顔の九王沢さんは何も言い返さなかったが、まるで三人に寄って集っていたぶられているように見えた。


「つーかこの子、おっぱいでかくね!?おれら、ハッピークリスマスじゃん!プレゼント巨乳ちゃんじゃん!?」

「ほらこっち!すぐそこだし!絶対楽しいから!お酒飲もうよ、いいじゃん!?」


 相手は三人だ。もちろん喧嘩最強不良でもなく、格闘技経験とかなしひょろい文系酔っ払いの僕に、勝ち目はない。でも、そう言う問題じゃなかった。


 九王沢さんがこんな目に遭っているのは、全面的に僕のせいなのだ。ここで何があっても、九王沢さんを無事にホテルまで送り届けなくてどうする?


 怖かった。が、今の一瞬で僕は死ぬ気で覚悟を決めた。


「九王沢さん!」


 僕は、あらん限りの大声を張った。声は上擦っては、いないはずだった。

 僕の声で九王沢さんは、はっと顔を上げた。

 同時にへらへらしてた三人組がぴたりと動きを停める。う、怖い。

 でも、行くしかない。僕は問答無用で三人の輪の中へ入って行って、彼女の腕を掴んだ。


「待たせちゃってごめん。じゃそろそろ行こうか」

 平静を必死で装った。そう言って一気に九王沢さんを奴らの中から引っ張り出す。

「ああ!?つーかなんすかあんた!?」

 九王沢さんの傍にいたウォッチキャップの男が、甲高い声を張り上げた。


 たぶん十代だとは思うが、まだらひげで顔を覆った見るからに日中活動してなさそうな男だった。


「おれら先話しかけてんすけど!?邪魔しねえでくれます!?」


 うう、とにかくこう言うのは無視するのが一番だ。殴られてもいい。まずは、九王沢さんを安全に逃がさなきゃ。


「九王沢さん、大丈夫?」

 僕は小声で囁いた。九王沢さんは強張った表情で静かに頷いた。

「はーあーあーあーっ、なにシカトっすか!?彼女にオレつええアピールすか!?」

 嘲笑に堪えて僕は九王沢さんを庇った。

「早く行こう」

「んだこの野郎こっち向けよ!!」


 振り向いた瞬間、そのひげの男が拳を振りかぶっているのが見えた。問答無用で殴る気だ。勝てるはずない。僕が思わず目をつむりそうになったその瞬間だ。


「Boys(ガキども)!!!」


 それは場の空気を一変するような声だった。

 問答無用の強制力と言うのだろう。その場にいた、全員の動きが時間を停止したみたいに、ぴたりと静止した。


 ええっ?


 目を開けるとそこに、黒いスーツの男が立っていた。恐らくはイングランド人だと思う。三十代後半と見える。ライオンのような縮れた金髪を短く刈り上げ、綺麗に髭を剃っていた。


 身長は一九○センチくらいだろうか。それがサッカー選手を思わせる締まりきった分厚い筋肉に鎧われた身体から、凄まじい殺気を放っていたのだ。それでいて目は、眠たそうに醒めているから、ただものじゃない。


 げらげら笑っていた三人が一瞬で恐怖に凍りついた。

 通りの向こうにいた男は、無言で近づいてくると僕と九王沢さんを助け出し、少し離れたところに庇った。


「サガッテ」


 拙い日本語は僕に言ったのだろう。それで気づいた。

 あ、この人さっきの電話の人だ!?なんか怖いと思ってたけど、こんな人だったんだ!?でもえっ、なんで!?スーツ姿の白人はゆっくりと男たちのところへ戻ると、静かな声で言った。


「Tonight your party time is over.Go back your home(さあ、今夜のパーティは終わりだ。とっとと家へ帰れ)」

「Ahh!?Who the f**k are you!?(んだよ!?てめえ、誰なんだよ)」


 さすがは横浜だ。相手も英語圏人だ。ハーフっぽい顔立ちの、ひと際背の高い男が、食って掛かった。その途端だ。


 いきがる相手に不快げに顔をしかめた男が構えたかと思った瞬間、突然、鋭い左ジャブを放った。スピードも角度もタイミングもただものじゃないことは、誰の目にも明らかだ。もし殴られていたら、自分でも気づかないうちに鼻を折られていたろう。


 パンチはその男の頬を掠めた。と言うより外したのだ。その人はナックルを開くと、背後の壁に思いっきり手を突いていた。


 ドン、じゃすまないほどの大きな音がした。

 あれっ!?この態勢、壁ドンだ。くしくも男同士の壁ドンが成立した。ちなみに言うまでもなく壁ドンされると、相手は身動きとれなくなる。


 これが恋人同士ならキスするほど顔が近くなるのだが、野郎同士の喧嘩だと、その態勢から頭突きパチキ入れたり、膝ぶっこんだりとやりたい放題になるのだ。軍人の気配を持ったこの男ならたぶん五秒で人を殺すだろう。


 そんな剣幕で男はもはや抵抗できなくて背筋が伸び上がっちゃってる相手を上から下まで眺めまわすと、


「Suck my ball!(黙れ)」

 百獣の王の面構えで威嚇した。

「F**k your nuts,or get away from here!!!」


 そんなわけで、三人は全力で夜の街に消えていった。蜘蛛の子を散らすよう、と言うがほとんどパニック状態だ。何しろ相手は映画から出てきたような特殊部隊っぽい人だ。むしろあの三人が気の毒になってしまうほどだった。


 ちなみにその恐ろしい外人さんだが。

 三人が逃げた後、なぜか九王沢さんにめっちゃ怒られてた。


「なっ、那智さんの目の前でなんて汚い言葉を使うんですか!?失礼じゃないですか!ちゃんと那智さんに謝ってください!」


 そう英語で言ってたらしい。しつっこく言ってたし、このくらいの英語は僕にも分かった。ちなみに、さっきまでの会話の内容は後で聞いて全部九王沢さん訳である。に、しても九王沢さん、最後に三人を追い払ったキメの言葉は、絶対に訳してくれなかった。よっぽど汚いスラングだったのかな。


 凄まじい殺気を放っていた外人さんはどうもロジャーさんと言うみたいなのだが、九王沢さんに怒られて困った笑顔でぺこぺこ謝っていた。


 やっぱりだ。この人、九王沢さんの関係者だったのである。


「あ、あの九王沢さん、僕はいいから。危ないとこ、助けてもらったんだし、逆にお礼言わなきゃじゃないか」


 あんまり九王沢さんがぷりぷり怒るので、僕は頃合いをみて助け舟を出した。

 だってこのロジャーさんがいなかったら、僕は九王沢さんを発見出来なかったし、あの三人に連れ去られる前に声もかけられなかったのだ。早口の英語全開ですっごい怒ってた九王沢さんだが、

「那智さんがそう仰るのなら…」

 と、何とか沈静化した。


以後イゴ気ヲツケマス」


 ロジャーさんは拙い日本語で言うと、僕に向かって片目をつむって見せた。


 お前のお蔭で助かったぜ、とか言ってるのだろうか。

 にしてもこの人、どこで僕と九王沢さんを見ていたのだろう。まさかデートの最初から?モニターシステムとか搭載されたバンとかでチームとか率いて、ずっと九王沢さんを見守っていたのだろうか。こわっ。でも九王沢さんの家庭環境なら、有り得る。


 しかしそうだとすると、この人、本当にどこまでお嬢様なんだ?


 それからロジャーさんは自分の携帯を取り出すと、迎えの車の手配をしていた。するとたちまち、スモークガラスの怪しい黒塗りバンが到着した。


 やっぱこの人、元SASとか、特殊部隊だった人なのだ。そんなロジャーさん、去り際、わざわざ僕に近づいてくると、二の腕の辺りをぽんぽん叩いてきて、

「Good luck(上手くやれよ)」

 と一言、捨て台詞を残し夜の街に消えていった。上手くやれって何を、とは怖くて突っ込めなかった。


 そして九王沢さんである。ロジャーさんがいなくなった途端、ここぞとばかりに僕の腕にぎゅううっ、としがみついてきたのだ。今夜一番僕の腕に食い込んでくるよ、Hカップのおっぱいが。いやそしてそんなことより何より、

「那智さんが、助けてくれた…」

 九王沢さん、僕を見つめて本当に嬉しそうにしみじみと言うのだ。


 この世で一番かわいい涙目である。思わずくらっときた。無間地獄から極楽王土へ、極端すぎる逆戻りだ。


 でも。ええっ!?

 いやそうじゃなくて。ちょっと待て。今の全然僕、助けになってないだろ。


「声かけて、わたしのこと連れ出してくれたじゃないですか」

「それは…そうなんだけど」

 今こうして二人、無事でいるのは本当に良かったんだけど、この結果に至るまでに僕の一般常識じゃ考えられない事態があった気がするんだが。

「ロジャーのことは見なかったことにして下さい」

 見たよ!あの人の名前まで知っちゃったよ!

「でも那智さん、ちゃんと自分の意志で戻ってきてくれて、助けてくれたんですよね?」

「う、うん…」

 そこは全然嘘じゃない。嘘じゃない、けどさ…

「それなら後のことはいいと思います。…だって那智さんが、最初にわたしを助けてくれたのは、紛れもない事実ですから」

「そうかな…」

「なんの問題もありません」

 と、九王沢さんは天下御免の天使の笑みで押し切るのだった

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