第10話
知られたくなかったら、書かなきゃいい。
九王沢さんがはっきりとそう言ったわけではない。だが彼女の鋭い切り返しはそんな風に僕には聞こえた。
意図するしないに関わらず、僕にとってそれはひどく挑発的な売り言葉に買い言葉だったのだ。有体に言えば、かちんときてしまったのだ。
「どうしてさ…」
自分でもその声が、必要以上の怒りを帯びているのが分かった。でも、それを止められなかった。
「どうして君にそこまで言われなきゃならないんだ!?」
場違いだとは分かっていた。そして相手は九王沢さんなのに。つい、僕は感情を激し、強い声で返してしまったのだ。でも、九王沢さんも九王沢さんだ。
「どうして?」
僕の剣幕に怯まず九王沢さんは、逆に真剣な表情で挑んできたのだ。
「だって、わたし、あの『ランズエンド』から、あなたが込めたかった気持ちの欠片を見つけました。とても切ない、誰にも伝わらないと思い極めるほどに切り詰めた気持ちの痕跡を。あなたが、あれを書いたんですよ?…わたし、わたし、だから今ここにいるんです。
なのに、どうしてあなたは、あの作品に込められた気持ちを誤魔化し続けようとするんですか?あなた自身が諦めたばかりに
あの九王沢さんもついに声を荒げた。鋭く見開かれたその瞳に薄くにじむ涙さえ、今の僕の目には、うとましく思えた。
「甚だしい思い上がりだな。僕の書いたものを読んで、僕のことがみんな分かったって言うのか!?君だけは特別な人間だから、選ばれた存在だから、僕ごときの気持ちなんて簡単に分かるんだって、そう言いたいんだよな!?」
「わたしは、わたしの意志でここにいるんです。誰に選ばれる必要もないし、誰かに評価されるためでもない。わたしが、あなたを、もっと知りたいから!あなたにも、わたしのこと、分かってほしいから!それの何がいけないんですか!?」
九王沢さんは押し殺した声で、僕に毅然と言い返した。
「へえ、そいつは良かったな。立派なもんだ」
僕はわざとらしくため息をつくと、さらに大声を張り上げ、
「で、僕は何でも知ってる君になんて言えばいいんだ?さすがは九王沢さんだね、全部正解ですよって認めてひれ伏せばいいのか?!」
九王沢さんはそこで、本当に哀しそうな表情をした。そんなことを僕が言うなら、もはや返す言葉は尽きたとその顔は言っていた。僕にも痛いほどに分かってはいた。
僕が言うように、九王沢さんが見栄や自惚れや、たかだかエリート意識を満足させるために僕にここまで肩入れしようとしているわけないじゃないか。
九王沢さんは必死に僕を受け入れようと思って話しているのだ。と、言うより今日一日、彼女はずっとそうだったはずなのだ。
それが分かってなお僕は、ちっぽけな自分のプライドを守るためだけに九王沢さんを傷つけようとするためだけの言葉を重ねてしまった。
いつの間にか、その
たまらなく居たたまれない。初めから分かってはいたのだが、僕が九王沢さんとここにいる資格は、本当にとことんのレベルでないのだ。
これ以上彼女の顔を見ることすら出来ない僕は、突然
九王沢さんは僕に、ついてこなかった。当たり前だ。こんなひどい男、もう金輪際、知り合いとしても願い下げだろう。
やけに明るい月を浴びながら、僕は歩いた。途中コンビニで常温の棚に並んでるワンカップを買うと、しょっぱい聖夜の月を仰ぎながら一気飲みした。
どうせならこの際、何も考えられなくなるほど泥酔して、三日酔いぐらいになりたかったのだ。だがぬるいお酒は甘ったるいだけで、みっともなくむくれた心を腐らせる以外にはなんの役にも立たなかった。
ああああああああなんか。もうっ、なんか。
別れて、一分以内に僕は頭を抱えた。
なんっっっ…てことだ。今ここ、最悪の向こう側だ。冥王星の彼方だって、今の僕より光が届いている。
なんでだ。あのとき、どうして冷静になれなかった?どうしてこうなった?誰が見ても正気じゃないぞ。九王沢さんみたいな子を、怒鳴りつけるなんて。
いや分かってますよ。これ、全面的に僕が悪いんです。
自分でも、一番痛いところを九王沢さんにピンポイントで突かれたの、よく分かっていた。しかも完璧な不意打ちだ、精一杯九王沢さんの前でカッコつけていいこと言っても、元々はちっちゃい人間の僕が動転しないはずがない。
だってあの作品で僕が、本当に表現しようとしたことがあっただろう、なんていきなり核心突いてくるんだもん。
僕にとっては重装騎兵のランスで心臓を一気に貫かれた気がした。そんなことされたら、もちろん即死だ。本人は悪気がないだけに九王沢さん、全く手加減なしだ。
(でもなぜ、九王沢さんには分かったんだろう?)
だって実は、あの作品に描くはずだったもののことは。
本当に自分以外は誰も、通じないことだと思っていたことだった。いや、誰にも分からなくてもそれでいいと思っていたことだ。
物書きは最低だ。もしそんなことだとしても、どこかで自分を手放しで分かってほしいと言うスケベ根性があるせいで、つい随所でそれらしいことを書いてしまうのだから。
九王沢さんが言うように、心の底から知られたくないなら、それは書かなきゃいいだけのことじゃないか。
さっきは素直に認められなかったが、何から何まで九王沢さんの言う通りなのだった。
『ランズエンド』の中で僕は何も表現できていない。それは僕が伝えることを諦めたから。いや、僕が抱えている本質的な問題について無駄に思わせぶりな、ひどく煮え切らない姿勢でいたから。
その卑怯な中途半端さを、九王沢さんは感じたはずだし、本人はその気はなくてもあれは徹底的な糾弾だった。開き直って逆ギレと言う最悪すぎる反応をしてしまったが、あれは正しく僕の断末魔の叫びだったのである。
いやなんと言い換えようとそれは、言い訳に過ぎないのだ。別に誰も真剣に読みはしない自分の作品のことなんかで本気で逆ギレする僕が人間ちんまいのだ。
少しでも疑問に思ったことは、ロケットスタートな直感力でどこまでも物事を突き詰める恐ろしい性癖がある九王沢さんとは言え、超絶純粋培養のせいでおっぱい以上に頭脳と直感力が究極進化してしまってるんじゃないかとかつい悪口言いたくなる九王沢さんとは言え、リアル聖処女で天使な九王沢さんに悪気があるはずはない。
ねえ、九王沢さん。
「…って」
ここはどこだ?て言うか九王沢さんは?
「あれ?」
僕は前後左右を見回した。言うまでもなく、九王沢さんの姿はどこにもない。
なんと。
気がつくと僕は一人で大分歩き始めてしまっていた。
つまり僕は、九王沢さんを置いてきたのだ。
真夜中の横浜だぞ!?あの九王沢さんにもし何かあったら、全面的に僕の責任だ。じゃあ責任をとって結婚…じゃなくて、僕の人生のすべてをかけても責任は取れないだろう。
万が一、九王沢さんを傷物にしてみろ。その瞬間から僕は依田ちゃんはじめ周囲の人には絶縁され、社会的にも抹殺。存在があった痕跡すら残らない人生を終えるしかないかも知れない。
いやそんなことより、神聖にして犯すべからずの九王沢さんを夜行性動物が闊歩するサバンナに放置してくるなんて、我ながらどういう神経してるんだ!?って言うか、僕はどこまで彼女にひどいことしたら気が済むんだろう?
どっ、どどどうしよう?酔ってるし、暗くて風景変わってるし、ここどこだかわかんないし!
パニくってると、ここで最悪のタイミングで着信が。
やっぱり依田ちゃんだった。
「な、なに依田ちゃん?」
恐る恐る僕は着信に出た。酔ってるはずの依田ちゃん、なぜかいつものしらっとした声。
『あ、先輩、もしかしてこれから一発って言う感じですか?間に合って良かったです。みんな先輩を心配して電話しろしろうっさくて』
後ろでカラオケっぽい音がする。たぶん納会の二次会辺りから(九王沢さんを)心配して掛けてきやがったのだ。心配だって?誰かが大声で失恋ソングのメドレー歌ってるの聞こえるけど。えっ、失恋ソングってそんな皆で楽しそうに大合唱するものだったけ。
『あ、ちなみにBGMはもちろんあてつけです。みんな、さっさとフラれちまえ!って言ってますよ』
「わざわざ解説しなくても分かるよ」
て言うかうるさいわ。こっちはそれどころじゃねえんだっつの!
『あれ、もしかしてやっぱり、だめだった系ですか?(後ろ、大歓声)ちなみに無理やりはアウツですからね。そんなことしたら、九王沢さんの代わりにうちの文芸部でカンパを募って先輩を強制わいせつで告訴することになってますから』
「いやあのね。依田ちゃん、それどころじゃないんだよ。(背後の音で聞こえないようだ)いい!?…あのさ、とりあえずまずは怒らないで聞いてほしいんだけど…」
僕は現状を話した。その一、今ホテルじゃなくて外だ。その二、僕は、九王沢さんを泣かせた上に置いてけぼりにしてきた。その三、それから、酔っ払って歩いてきたのでここがどこだか分からないし、九王沢さんをどこに置いてきたのかも分からない。
「でさ…悪いんだけど九王沢さん、どこにホテル予約とったとか聞いてないかな。もしかしたら、彼女、今そこに」
その瞬間。
ブツリ、と音を立てて電話が切れた。問答無用だ。そしてそれからはいくらかけても繋がらなかった。
本格的に終わった。依田ちゃん、ブチ切れたなんてもんじゃないだろう。さあ、明日からは大学二年にして新生活だぞ。僕は学内で誰もが認める透明人間だ。
一分後だった。
今度はメールが入ってきた。依田ちゃんからだった。そこには用件もなく、切羽詰まった感じでぽつんと一言だけこう書かれていた。
待ってろ絶対そこ動くな
「いっ、今殺される!?」
執行猶予すらくれないのか!?
依田ちゃんならやりかねない。でももうさすがに横浜まで行く電車ないだろ。
それよりそのまま動くなって、九王沢さんはどうするのだ。僕は依田ちゃんに電話を掛け直したが、やはり繋がらない。ばっちり着信拒否にされていた。九王沢さんほっといたまま、どうしろってんだ。
寒さに震えていると、また新たな着信が。
見慣れない番号だ。僕は反射的に出てしまった。
「はい…?」
電話を取った瞬間、全く聞きなれない声で誰かがこう言った。
「Go straight from here(そのまま真っ直ぐ歩け)」
えっ、英語?しかもそれがハリウッドのスパイ映画に出てくるような、無駄に渋い押し殺した男の声なのだ。
「だっ、誰ですか!?もしかして間違えてます?」
文学部なので英文テキストの授業出てるとはいえ、とっさに英語が出るわけない。僕はとっさに日本語で返した。
「Keep talking(切るなよ)」
男は、一文節ごとに区切るような言い方で命令してきた。
「Keep walking right now(いいから、そのまま歩くんだ)」
言い残すと電話がぶつりと切れた。なんだこの人!?て言うか誰!?
知り合いと言う知り合いの顔を思い浮かべ、あらゆる可能性を検討したが、僕には今の着信が入った理由が理解出来なかった。
もしかして依田ちゃん、本物のエージェントに僕の始末を頼んだのだろうか。元SASとか、そう言う人を。いや、そんなはずないって。
一体、僕に何が起きようとしているんだ?
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