第9話

 だがもちろん僕のいる場所からも、人工知能の話は脅威だった。


 人間から生まれ、幼児のように学習し、そして一気に人間を飛び越してしまう。


 そんな人工知能が現れる未来が、すでに間近に迫っている。九王沢さんが言った、気が遠くなると言うのは、その年月のことではない気がした。


 それは僕たち人間の想像力の限界を超えた何かが、何百年後と言わず一気にやってくると言う啓示への、戸惑いと愕きに他ならない。


 その現象について、なんの糧にもならないとしても、様々な想像を張り巡らせて気が遠くなってしまうというのは、本当はいかにも人間的な反応なのかも知れない。


 気がつくと、大分時間が経ってしまっていた。


 僕もそれから、かなり飲んだはずだが、ほとんど酔った気がしなかった。九王沢さんと真剣に飲むと、酔う暇などないのだ。


「少し、外を歩きましょうか」


 そろそろ展望ラウンジに行こうかと予定調和な感じを考えていた僕に、九王沢さんは言った。確かに根が生えた感はあるが、何しろお酒を飲みながら難しい話をしていたのだ。僕たちの頭にも、排熱処理が必要だった。


 こうして真夜中の横浜に僕たちは飛び出した。みなとみらい近辺は気温のせいか、出歩く人の姿もほとんど見られなかった。もう誰にはばかることもなく、僕たちは相変わらず好きな話をしながら歩いた。


 唇を開くと、アルコールの甘ったるさを清冽せいれつな石清水で洗い清めて引き締めているかのようで心地よかった。


「二〇四五年の人工知能は何でも質問に答えてくれるのかな?」


 ふと疑問が兆したので、僕は九王沢さんに聞いてみた。


「だと思います。その頃には人間の知能でその答えを確かめる術はないと思いますが」


 いわば絶対的な神様がいた時代に、人間は戻るのかも知れない、と言うのが九王沢さんの見解だった。


 科学がこれほどまでに発達する以前、僕たちの祖先は確かに迷信を妄信的に信じていた。これ以上の進化を放棄した時点で人類は退嬰的たいえいてき(幼児に退行するように)に人類の歴史でもっとも長かったその時代に、感性を立ち戻らせるのかも知れなかった。


「わたしたちは迷信からの自由を獲得するがゆえ、迷い、時には間違った結論を出し続けた。


 科学の光が宗教的妄信を駆逐した自由主義の風が世界的に吹き荒れた十九世紀後半から現在までがそうです。


 ちょうどパーシー・シェリーが生きた時代から現在まで、わたしたちの科学の最先端は迷信を否定し続けてきましたが、結局は科学を妄信せざるを得ない道を選びました。


 いつも考えてしまうのです。わたしたちはもう一度、問答無用の神のご託宣にその身を委ねる時代に戻らなければいけないのでしょうか?本当にそれでいいのでしょうか?那智さんは、どう思われますか?」


 九王沢さんは苦しげに眉をひそめたが、僕は少し違う考えでいた。


「九王沢さんさ、ゴッホの生涯って知ってるよね?」

「フィンセント・ファン・ゴッホのことですか…?」

 はい、と、九王沢さんはきょとんとして頷いた。

「九王沢さんなら僕より知ってると思うけど」


 ゴッホと言う人は。


 現在は美術を志す人にとっては、好むと好まざるに関わらず知られている『画家』だが、彼はその職業を自分の最適の職業だと思って選んだわけではない。キリスト教の伝道師をはじめ他にも多くの職業に失敗し、挫折し続けた末に最後に残ったのがその職業だったと言うだけなのだ。


「ゴッホはどんな仕事も一生懸命にやったらしいよ。だけど、一生懸命過ぎてどんな仕事も上手くいかなかった。


『僕の中に確かに何かがある。でもそれが何なのかが判らない』ゴッホの若いときの言葉だって言う。彼は決して自分の才能を確信して、画家になったわけじゃないんだ。そして彼が生きているうちは全くそうだった。


 彼の画業は、まるで自分の生活が成り立つレベルに達せず、生涯絵は二枚しか売れなかった」


 ゴッホの拳銃自殺は、本当はその苦しい生活を自分の家庭を犠牲にしてまで支えてきた弟テオによって射殺されたのを自殺と誤魔化したものだ、と言う説も最近出てきたほどだ。


「でも現在のゴッホの絵画は、市場では最高額ランクだ。かつて日本の損保ジャパン東郷青児美術館が買った『ひまわり』に約五十八億円の値がついたことは僕たち日本人にはよく知られているが、『医師ガシェの肖像』の百四十八億六千万円を筆頭に、他の作品についても百億円以上の市場価値を叩き出しているそうだ。


 今、ゴッホが生きていたら、信じられないほどの売れっ子になっていただろう。世界中から依頼が殺到して、彼は目を回して逃げ回っていたかも知れない」

「そうかも知れませんね」


 九王沢さんは僕が本当におかしなジョークを言ったと言う風に笑顔を見せた。でも僕は冗談を言うつもりはなかった。


「でも、ゴッホの画家としての価値は誰にも判らないはずだろ?」

 九王沢さんはその言葉に、ちゃんとはっとしてくれた。

「現在ゴッホの絵画につけられた市場価格は、ただの投機的な価値なんだ。バブル期の株と同じ、ゴッホが表現した内容や意味とは別のところで評価されている。言うまでもなく、市場価値は確実に変動する。今日の金の卵が、明日には紙屑になっていることだって、ままあり得るんだ」


 僕たちの時代の世界の常識ではゴッホの絵が、市場的に無価値なるなんて今では考えられないが、かつてはほとんど無価値だったのだ。長い将来に渡って、それに戻らない可能性は理論上、ありえないことではない。


「じゃあ、ゴッホ自身がそう考えたように、彼に画家として本当の価値はあったのかな?彼にはもっと自分を生かすレベルで適した職業があったんじゃないかな。そしたら彼は無理に絵を仕事にしようとして精神病院に入って自殺なんかしないで、幸せなまま趣味で絵を楽しめたんじゃないかな」

 九王沢さんはそこで、目を丸くした。

「人間の理解を超えた人工知能なら、答えを出せるかも知れないと?」

「うん、ゴッホのリクルート」

 そう返した瞬間、九王沢さんは弾けるように笑った。

「…そんなこと、考えるの那智さんだけですよ?」


 その瞬間、僕は思った。


 そう言えば彼女の口から、そう言う言葉が聞きたかったのかな、と。


 九王沢さんは僕と掛け合い漫才をしに来たと思っていたけど、彼女自身は一度も手放しで笑っていなかった。九王沢さんだって、笑っていいはずなのに。それは何でだろう、と思ったとき、僕は一つの直感に思い当った。


 彼女もまた、自分の言葉を自分で見つけられていないのかな。


 九王沢さんが取り入れ続けた呆れるほどの情報の中には、本当は自分だけの言葉の欠片が眠っている。彼女はこの世界でもっとも迂遠うえんな方法でそれを探しているのかも知れなかった。九王沢さんて完璧超人に見えるが、実はとっても不器用で融通が利かない。


 そしてだ。

 僕は確かにそんな九王沢さんのことがもう好きなのだった。


「自分で物を書いてみようと思ったことですか?」


 その質問をすると、九王沢さんは眉をひそめた。今までで最大の難問に出会った、と言う感じだ。


「うん、そんなに色々考えたり、感じていることがあればさ。書いたらいいのにな、と思って」

 レポートじゃなくて、論文じゃなくて自分の作品をだ。

「でもわたし、本当は自分のことで表現したいことが一つもありません」

「今はそうかも知れない。でも、よく考えたら違うかも」


 これは僕のただの持論だが、物を書くのに立場とコンプレックスは非常に重要な要素だ。


 しかるに外面的に見て、九王沢さんには人にコンプレックスを感じる要素がない。そんなことを無理に書いたら逆に反感を持たれるだろう。


 だがそう言うてらいや気負いがないことが、逆に面白いものを生み出すかも知れない。


「僕たちは僕たちの立場から、物を書くことを逃れられない。まあそれで大体似たような立場の人は、分かってくれるし、だから書き続けてるわけだけど。


 例えば僕は日本で育った日本人だ。だから極端なことを言えば、日本に住んでいて日本語が分かる人にだけ物を書かなくてはならないのが大前提だ。


 もちろんこれにさらにカテゴリを絞れば、もっと理解者を確保できる。

 職業、社会的立場、テレビで見た有名人の知識や一般常識の認識が一緒、何萌え何フェチ、共通の知人がいる、どんなものを食べてどんな地域に住んでる、範囲を絞れば絞るほど話は一部の人にとっては伝わりやすくなるからね」


 いわゆる内輪受けと言うやつだ。笑いも、テレビの芸人の万人向けの一発ギャグより、身近な人間の言動やキャラの話の方が面白いと思えることは、ままある。


「でもそこには犬吠埼とランズエンド岬をつなぐような事態は、永遠に訪れない」


 九王沢さんはそれを奇蹟だと言ったが、僕から見たらそんなこと、ほとんどの人の想像力の範囲からは訪れえない事態だ。


「わたしならそれが出来ると?」

「出来るかも、知れない」

 って言うか、やってみたら面白い。ただそれだけのことだ。

「…じゃあもし、原稿が出来たら那智さん、添削してくれますか?」

「う、うん。ぜひ」


 勢いで僕は頷いてしまった。そのときは人工知能に凌駕された人類みたいに、僕のちっぽけな物書きとしての種の終焉が来そうだった。


「ありがとうございます。でも、わたしにはそれ、想像も出来ません。だってもう、那智さんの作品を読んでしまったから」


 と言うと、九王沢さんは僕から身体を放して、三歩ほど先に出てから僕の様子をうかがうように見つめた。


「え…?」


 僕は改めて、はっとした。


 淡い街明かりに染められた九王沢さんの乳白色の肌はほろ酔いに染められて、くすんだ薄い光の中でも神々しいばかりに綺麗だったからだ。そして大きな二つの瞳は恐ろしく澄んで潤い、何か僕が与えてくれるのを待つかのようにしていた。


 またどこかで汽笛が鳴った。横浜と言う場所は、普通の港と違ってまるで国際空港のような開港かいこうなので、昼夜問わず貨物船が出入りしているのだ。


「わたしは」

 僕が何も言わないのをもどかしく思ったか、やがて九王沢さんは口を開いた。

「論理を積み重ねて、ここへ来ました。那智さんの小説から、那智さんに会ってお話がしたいと思って、今、もっとあなたが知りたいと思っています。でもそれは、運命的直感の産物とはまだ言えないものなのです」

「運命的直感?」

 僕は首を傾げてみせた。

「なんかぴんと来ないんだけど」

「そんなはずはありません」

 だが九王沢さんは構わずに言った。

「あなたはその運命的直感に一度、出会っているはずなのです。紛れもなく、あなたの人生の中で、あなたが描いた犬吠埼で」

 よく思い出してください。訴える九王沢さんの表情は切実だった。

「恐らくそれはあなた自身のものではなかったでしょう。でもあなたはそれを感じざるをえない事態に直面した。違いますか?」


 僕が内心、思わず息を呑んで絶句したのはそのときだ。だとしたら彼女のあの確信犯的な声音は、すでにそこまで見通してのことだったのだ。


 そんなはずはないのに。


 僕がいくら、時間をかけて感情のジャンクで記憶を埋め尽くしても。誰にも判らないように、誰にも触れられないように、廃棄物の埋立地にそれを遺棄しても。膨大な言葉のジャンクから九王沢さんはそれを一気に掘り出していたとしたら。


「九王沢さん、君はなんで…」


 そこまで分かるんだろう。いや、僕の何が分かっていると言うのだろう。


 僕と縁も所縁ゆかりもないイギリスからやってきて。ただ暇つぶしに開いたような、大学生が趣味で執筆した作品の寄せ集めを読んで。僕のことなど何も知らなかった癖に、勝手にそう思ってるだけのことじゃないか。


「いや、それはさ…」


 誤魔化しをとっさに口に出来ず僕は、こみ上げる唾を飲み下した。

 にわかに納得できるはずがない。気を取り直せ。深い息をついた僕はそこで、声音を紛らわせて、場を和らげる笑いを作った。


「あれは何度も言うけどただの駄作だよ」

「駄作のはずです」

 しかし九王沢さんは、あの完璧な笑顔で断言した。

「あの『ランズエンド』と言う作品には本当に描きたかったことの、ただの断片しか描けていないから。いや、わざと消してあるんです。あなたがそれを誰かに納得させることを放棄したから」

 でも、と彼女が言う次の言葉が僕の胸を一撃で刺し止めた。

「あなたが書く以上、自分以外は誰にも伝わらない、なんて誰が言えるんですか?」

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