第8話

「と、ところでさっき人工知能について人間の側から話するって言ってたけど」


 僕はすっかり頼みたいメニューのことしか頭にない九王沢さんを軌道修正するべく、自分から水を向けた。


「つまりはそれって、人間から見た人工知能との比較の話をするってことでいいのかな?」

「はい、概略としては、そんな感じです。しかし今度は相違点ではなく、類似点の方を探してみようと言うお話です。いわば人間の『想像力』の方を使って」


 と、ほろ酔いの九王沢さんは、先に到着した薄いウイスキーの水割りを猫が水を飲むみたいに少しだけ飲んだ。


「先ほどまでの話では、人工知能はいくら識別のための『知力』を蓄えても『想像力』を駆使することが出来ない、ゆえに人間と同じ感性を得られないと言うのが結論でした。しかし、人工知能と人間って、それほどかけ離れたものなのでしょうか。


 ちなみに言うまでもなく、人工知能は『人間を理解すること』そのものから造られたものです。すなわちそこに人文科学の助けが必要とされた時期があったのです。この辺りはご理解頂けますか?」


 うん、と僕は到着したウーロンハイのグラスを引き寄せて頷いた。


「何となく想像はつくよ。今の人工知能は人間そのものか、分野によっては人間以上の能力を目指すものだ。だからまず、目標となる『人間』そのものを理解することから始めた、って言うのは単純に考えて当然だと思うよ」

「人工知能の開発を助けたのは、戦後の心理学でした。もっとも助けになったものは、いわゆる行動主義の心理学です」


 行動主義の心理学については、授業で少しかじったことがある。人間及び生物とは外界からの刺激(S)によって反応(R)を起こして発達していくものであるとするS‐R図式を使用する、非常に解りやすい心理学だ。


「『パブロフの犬』とか」


 犬を使った実験でご飯の度にブザーを鳴らしていたら、ついにはご飯が出てこなくてもブザーの音だけで犬がお腹が減ってよだれを垂らした、と言うあれである。


 この実験に出てくる『条件反射』と言う言葉は、一般にもよく知られている。


「ちなみにこの行動主義を那智さんなりに表現するとしたら、どのように考えられますか?」

「うん、僕は人間の関係に当てはめるかな。ごく普通に考えて、自分にとっていい刺激を受ける人たちの中にいれば、他の人にもそうしてあげられるし、相手のことも想像してあげられる余裕が出来る人間でいられるかな、とか」

「いわゆる正の強化ですね」


 九王沢さんは心底嬉しそうな微笑を含むと、到着してきた注文をどんどん僕の前に並べた。そんなに一人で食べられない。


「この行動主義心理学は、二十世紀初頭に登場したものですが、大きな欠陥が一つありました。それはちょうど今の那智さんが言った例に当てはめると、解りやすいかも知れません」

 僕は頷いた。これは一般社会で他人と接しているとよく判ることだ。

「それは同じ刺激に対して、皆が皆、まったく同じ反応を返すことがない、と言うことかな?」

 九王沢さんは頷いた。そうこれは、複数人のキャラクターが登場する小説を書いていれば、もっと納得できる話ではある。


 究極的に考えて自分以外はどこまでも他人なのだ。

 例えば僕が嬉しい、楽しい、そう思うはずの状況でもあけすけに笑顔を見せない人もいる。嬉しいとすら思っていない人もいるかも知れない。もちろんその逆も然りなのである。


 同じ状況に出会っても、その人の考え方や反応はその人ごとで、自分が感じているように、相手も感じるとは限らない。他人の中に自分が存在することが分かっているのなら、普段の人付き合いにしろ、小説を書くにしろ、いつもそれをわきまえておく必要があるのだ。


「行動主義は外に出てきた『反応』しか、認識することが出来ません。つまり、人間の内的な変化や、言葉に出来ない気持ちは存在しないも同然なのです。ちなみに那智さんがこの行動主義にのっとって小説上の人物を描くとしたらどうなりますか?」

「すごく素っ気なくて、通り一遍いっぺんのキャラになると思う」


 いわゆる、キャラの書き分けがないと言うやつだ。ゲーム性の高い作品にするとか、大枠のストーリーの方に自信があったらそれでもいいかも知れないが。


 まあ依田ちゃんが見たら、ページの無駄だからもっと削っていいですか、とか言うに違いない。


「『個人差』を識別出来ない行動心理学の欠陥はすぐに指摘されました。それがその後、情報科学を始めとした人工知能の分野に大きく接近した認知心理学につながってきます。ちなみに大きな欠陥を認識した行動心理学者はさっきのS‐Rの式に、この一字を加えることでまず問題の解決を図ったのです」


 九王沢さんは僕のメモを取り上げると、SとRの間にもう一つアルファベットを加えた。そこにはOと書かれていた。


「OはOrganism、生体そのものと言う意味です。難しい言い方をすれば、媒介変数ばいかいへんすう(Oの内容によって出てくる反応Rが変化する)、那智さんの世界で言えば」


 キャラだ。この図式は例えば一つの状況に対する展開がキャラごとに、全く違うものになる、と言うことに置き換えてもいいかも知れない。


「この媒介変数となるOの部分を、認知心理学では人間の認知である、としています。先ほどの人工知能で言う、データーベースと判断機能のことです。言うまでもなく、この認知は外界からの刺激を受けるたびにフィードバックし、成長していきます。

 Oが変化するに連れて同じ刺激を受けた状況でも、よりよい判断を行ない、さらに適した反応を返すことが出来、さらにはその反応は熟練することでより速く引き出されるようになっていきます」


 この話も想像に難くはない。

 紙上に創作されたキャラに限らず、人間は学習するものだ。しかしそれは同じ経験をしても誰でも一律の結果に至るわけではなく、その人の感じ方、考え方により千差万別になるはずなのだ。


 これを数学的に分析すれば、個性は媒介変数であり、その数値が人ごとに違うのなら、同じ数をかけても違う数値の答えが出ると言うのは、文系の僕でも納得できる。いわば、関数の初歩だ。


 と、ここまで考えたときに、僕の頭にふっと疑問が湧いた。この媒介変数Oは人工的に作りえるものなのだろうか。


「ごく単純に考えれば、それは可能です。例えば会話をするにしても、話しかけてくる内容(S)に対して、いくつかの受け答え(R)をあらかじめ用意しておき、後はパターンごとに学習させればいい話ですから」

「でもさ」


 それは言われたことにオウム返しに答えてるだけであって、人間の会話そのものとは言えないのではないだろうか。


「今のわたしたちから見たら、そうですね。しかし」

 すると九王沢さんは出し抜けに聞いてきた。

「那智さん、二歳くらいの子とお話ししたことありますか?」


 僕は首を振った。もちろん自分の子供はいないし、教育学部でもないから、子供のことなどほとんど関心の外だ。


「赤ちゃんの言葉を卒業したこのくらいの年の子は、周囲の環境から言葉を学習しようとし始めるんです。社会的微笑しゃかいてきびしょうと言う笑顔の作り方をまず学び、それに惹かれて話しかけてくれる人から、その言葉をそっくり物真似するんです。那智さんは子供の頃、親御さんに言われた口癖はありませんでしたか?」


 と、言われて確かに思い当った。


 幼い頃の僕は、行楽好きの両親の影響か、

「紅葉が綺麗だねー」

 が口癖で冬の枯れ木を見ても、同じことを言ってたという。今でも田舎の婆ちゃんとかには、からかわれる。もちろん本人は憶えてはいないが。


「このように、わたしたち人間も言語を獲得する最初は、まるで初期の人工知能のようなのです。那智さんの子供の頃の口癖みたいに少ない会話の持ちパターンから、憶えた言葉をそのまま返すことで、その言葉がどのようなときに使われるのが適当なのかを実地に探っているんです。


 そうして段々、その言葉に対する理解が深まり、やがては本当の意味が判るようにすらなる。わたしたちのコミュニケーション能力はいわば、S‐O‐R図式による試行錯誤トライ・アンド・エラーの産物なんです」


 九王沢さんは淡い黄緑色の銀杏の小さな串をとると、その一粒を口に入れた。


「わたしたちが今自由に使いこなしているかに見える言語は、それまでに獲得した無数のパターンと、状況判断のための経験と言うデーターベースで出来ているんです。


 確かにある程度大人になった今、わたしたちに組み込まれた媒介変数と判断を行う演算能力は複雑化して再現不能のように思えますが、それでも最初はやはりごく簡単なシステムから始まっているのです。そして言うまでもなく、現在の人工知能もそこから、学習を始めている」


 そう考えるとだ。

 人工知能がどうしても人間になれない、などと言うことは決してないと言うことか。


「いえ、どころかいずれ人類を超越するでしょう。那智さんは二〇四五年問題をご存知ですか?」


 ちょっとは聞いたことがある。

 人工知能が高度に発達し、人類の生活全般を支配するようになるという話だ。

 ネットでも騒がれているし、ついに地上波でも関連番組が放送されだした。


「現在の人工知能開発は、二〇四五年を一つの歴史的エポックと捉えています。現在世界で最高の演算能力を誇る量子コンピュータよりも膨大な演算能力を持ち、さらに自律移動可能なほどコンパクトになった人工知能が人類を完全に凌駕するというお話です。それが実現する年代についにはっきりとした見通しがついた。人工知能開発者はそれを技術的特異点シンギュラリティと名付けています。それが二〇四五年だと言うことです」


 たったの三十数年後だ。

 戦後に始まったと言う人工知能の開発から、どれほど経ったと言うのだろう。

 すでに人工知能は、人間の能力すべてを超えるほどにまでなると言うのか。


「この技術的特異点は、わたしたち人間の文明の到達点とされています。その頃には、人間が宿命的に抱えてきた問題のほとんどに解決がつき、これ以上テクノロジーが発展する余地がなくなるそうなのです。


 例えば死すら治療できると言う時代において、人間は未来を創造する能力を放棄するのです。生を模索する地球上の種として、人間は役割を終える。人工知能が人を物理的に絶滅させるのではない、人間が自ら種の終焉を悟るのです。それこそが故・ホーキング博士が危惧する人工知能が人類と言う種を滅ぼすと発言した、一つの側面なのではないでしょうか。


 そしてもちろんそのときに至っても、わたしたちは生きています。種として生きる方途を喪っても、物理的に存在はしているはずです。しかしその後のわたしたちに一体、何が残されているのでしょうか。数千年をかけて人間と言う種を支えてきた人文科学はもはやそこに、なんの助けも及ぼす余地もないのでしょうか。


 わたし程度の人間一人が何か出来ると思うほど、身の程知らずではありません。でも、つい考えてしまうのです。とても気の遠くなる、そんな話を」


 九王沢さんはここまで一気に話をしたが、そのトーンに比して、表情に得意げなものが出ることは一度もなかった。それを見ていて僕は何となく思った。彼女は純粋にいつも、考えている人なんだろうな、と。たとえ誰に頼まれずとも、社会的な評価を受けなくても。


 これから独房の中に監禁されようと、ずっと一人で学び、思いつき、考えているに違いない。まるで暗闇の中で排熱処理を行いながら、情報収集と論理演算を繰り返すコンピュータのように。


 そう考えると九王沢さんは僕たちより、人工知能の方に立場が近いのかも知れなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る