第6話

 ちなみに九王沢さんのその行動は、心理学ではミラーリングと言う。同調行動だ。相手と同じ行動をしたり、共通点を意識することで、お互いの距離を縮めようとする。恋愛をする人間が本能的にとる代表的な行動なのだ。


 簡単に言えば僕に合わせようとしてくれてるってことなのだけど、一向にそれが僕に実感できないのはなぜだろう。ってカッコつけてもしょうがない。痛いほどよく判ってる。それは九王沢さんのせいじゃなくて、全面的に僕のせいだ。僕自身に問題がありすぎるせいだ。


 そもそもだ。


 九王沢さんの立つ位置から、僕が見えると言うこと自体が驚天動地の奇蹟なのだ。


 距離的な問題で言えば、それはイギリスのランズエンド岬と日本の犬吠崎どころか、違う周回軌道上の惑星のそれに近い。


 本来ならば九王沢さんの人生に、僕が登場する確率は天文学的にゼロに近いはずなのだ。


「でも、わたしは今、ここにいます。ここまで一緒に話をしてきてずっと、そして思い続けています。もっと沢山、那智さんとお話したいと」


 その接点はただ一点だ、と言うように九王沢さんはちっぽけな会報誌のさらにちんけな僕の作品を指し示す。その光景、何度見ても、穴があったら入りたい。


「もうやめようよ…」

 そろそろ本格的に苦悩する僕に、彼女は悪戯っぽく笑ってしか応えてくれない。

「いやです。なぜならここに、ある問題に対するヒントがあるからです」

「あのさあ」


 九王沢さんね、それ、預言書じゃないからね。いくら名前が慧里亜エリアさんだからって、誰もそんな話納得してくれないからね。


 と、普通の相手だったらお腹いっぱいになって話を切ったり、ああそうかもね、とか適当にごまかしたり、席を立っているところだった。だが、不思議だった。


 九王沢さんを相手にしてはなぜかそれが出来ないのだ。神々しいばかりの美貌や、魅惑のHカップのせいだろうか。いや、もしかしたら、言葉に出来ない別の何かのせいかも知れない。何かは判らないけど。


 ちょうどそう思い出していたときだ。


「那智さんは、人間の直感を信じる方ですか?」

 九王沢さんは唐突に聞いてきた。

「直観?」


 同じ発音でも違う意味がある言葉があるので僕は、観光案内のパンフレットに文字を書いて訊き返した。


「いえ、観る方ではありません。感じる方です。外来語で言うならインスピレーション、予感、予見、さらには未来予知」


 オカルト方面の話だろうか。まさかここで神秘の会に入会させられるのかな、と思ったのだが、九王沢さんはもちろん、そんな常人の予想が通じるような人ではなかった。九王沢さんは本当に不思議そうな表情で僕にこう尋ねたのだ。


「例えば人間の直感って、人の手で再現出来るものなのでしょうか?」


 人間の直感は人の手で再現しえるか。それはつまり、現在の人工知能にそれを、反映できるかと言うことなんだ、と思うんだけど。


「直感に必要なのは、想像力です。直感は、現在起きていないことを起こりえるものとして『察知する』力なのですから、実際まだ存在していないものを『想像する』能力が不可欠なのです。しかしこれは、『知力』から導き出されるものであっても、『知力』そのものではありません。ここまではご賛同頂けますか?」

「うん…何となくだけど、分かるよ。何て言うんだろ。一言で説明できないな」

「何か書くものを持っていますか?」


 僕は頷いた。さっきは面倒だったので観光案内のパンフに書いたが、僕は創作用に手のひらサイズのリングメモと筆記用具をいつも持ち歩いているのだった。


 九王沢さんはそれを受け取るとさらさらとそこに、何か短い英文を書きつけた。

 そこにはこのように書かれていた。


 Reason respects differences,

 and imagination the similitudes of things.


「知力と想像力の違いを感じ表したある人の言葉です。『知力は事物の相違点を重視し、想像力はその類似点を尊重する』。日本語ではこのように訳すのが適当なようです。那智さんはこれ、誰の言葉かご存知ですか?」

「あ、それは」


 言うまでもなく、パーシー・B・シェリーの言葉だ。五十嵐先輩のてつを踏んで、予習しておいて本当に良かった。とりあえず人間、やれることをやっておいて無駄なことってないもんだ。


「那智さんは、シェリーってどんな作家だと感じますか?」

「ううん、ラディカルって言うか、ちょっとパンクな感じがする作家だと思ったけど」


 ざっと生涯を追った第一印象としては、火のような天才肌の人と言う感じだ。


 当時の封建的社会階級制度に疑問を唱え、オックスフォード大学で社会運動に身をやつし、放校。道ならぬ恋に落ちて駆け落ち、国外逃亡して最期はイタリアの海難事故で亡くなるまで、宗教による因習を懐疑し、生命と精霊を追求した作品を描き続けた。


「まだまだカトリックによる封建制の名残りが強い当時のヨーロッパ社会で『神が存在しない、と言うところから考えよう』と言う考えを掲げたシェリーは十九世紀の人間にして、当時の社会常識の根本からを懐疑し、自分の感覚を掘り起こした人です。これまでの社会常識が世界的に混沌としつつあるこの現代に、また注目してもいい作家だと思います」


 と、九王沢さんは楽しそうに言う。


「確かに名声に関して言えば、シェリーは不遇な作家でした。彼の評価はイギリスでは知識階級だけの知名度に留まり、しばらく後世に名の知れることのなかったのですから。ちなみにそのシェリーを大きく評価した一人はアメリカの作家、かのアイザック・アシモフでした」


 僕は黙って頷いた。それもよく知っている。若くして亡くなったシェリーの没後、本国イギリスでもほとんど知られていなかった彼を高く評価したのは、かのアシモフなのだ。


 SFフィクションのみならず、現代の人工知能の存在理念の基礎ともなる『ロボット三原則』を作り出したあの、アイザック・アシモフだ。


「一九二〇年生まれのアメリカの作家、アイザック・アシモフはSF作家の大家としてよく知られていますが、本来の彼は著書五百冊以上、その守備範囲は科学、言語、歴史、聖書など恐ろしく多岐に渡った膨大な他ジャンル作家でした。その興味は一般科学に留まらず、人文科学の多くの分野に広がっていました。


 そのアシモフが歴史の闇に埋もれていたシェリーを発見し、高く評価した慧眼は時代を超えて得難い卓見たっけん(優れたものの見方)であった、と言わざるを得ません」


 九王沢さんの言うとおり、シェリーは長い間、埋もれていた作家だ。

 そしてそれは時間以外にも、色んな意味で、と言う意味でもある。


 実は文学の世界では、シェリーはその世界的な知名度を奥さんの方にほぼ完全に譲ってしまっている。彼の妻メアリーは、吸血鬼ヴァンパイアに並びホラー映画好きなら誰でも知ってるモンスター『フランケンシュタイン』を描いた人なのだ。


 彼女は若干十九歳にして後世にまで知られるその名作を書いたのだが、もともとそれは夫のシェリーといわば遊びで創作を競ったものだったと言われている。


「神が創りたもうた人の生命は、果たして同じ人の手で作れるのか」


 と言う一つの構想をテーマに始められた競作は、ある衝撃の理由で挫折したらしい。


 簡単に言うと夫のシェリーが飽きたのである。


 書くのめんどくて。


 シェリーは天才的な直感の持ち主だったが、飽きっぽくて根気のない人だったとされる。そのため長い小説を書くのに向いていなく、このときもその悪癖が出たようだ。


 経験上、何となく判るが詩と比べ小説を書くのには、一歩退いた状況説明や客観的な書き方が求められるため、詩でものを語れる人にはいちいち面倒くさいのである。


 一方メアリーは夫が飽きてもまめにこつこつ書きためてついに作品を完成させた。


 かくしてメアリーは天才的な感覚の持ち主なのに飽きっぽくて大作をものに出来ないシェリーの名声を軽く飛び越えてしまったのだ。二人は典型的な『うさぎと亀』だ。その寓話を作家の人生訓としてこれほど見事に表現している逸話はないだろう。


 ちなみにアシモフはこれを『作家の悪夢だ』と評している。


 五百冊以上も著書をものにしたアシモフからすると、

「やればいいもの出来たのになあ」

 と、言うところだろうが、その一言にアシモフのシェリーに対する評価高さと嘆きの強さがしっかり込められている、そんな気がするから不思議だ。


 あの夏目漱石にも惚れこまれる際立った天性を持ちながら、彼は本当の意味で残念な人だったのだ。


「シェリーはいわゆる感性の人だったと言います。『想像力の人』だったんですね。どちらかと言えば『知力の人』論理派の夏目漱石が感動したのはその点だと、わたしは思います」


 ちなみに、稀有の文学者にして、当時最先端の数学や物理の理論をも解したと言う漱石はシェリーの言葉に出会ったときの衝撃を感動そのままに、

「脳中の霊火炎上して一路通天いちろつうてんみちを開き」

 と、表現している。


 今風な表現で言えば、頭の中の回路がいっぺんに繋がった、そんな感じだろうか。


 あの漱石が知識と論理を煮詰めに煮詰めても解決できないカオスの中にあった物事の中核を、パーシーはただの直感一つで、わしづかみに得ていたと言うわけだ。


「それではさっきまでの人工知能のお話を踏まえて、シェリーの言葉を那智さんだったらどのように解釈されますか?」

 う、やっぱ応用問題来た。僕はしばらく考えた。

「えっと簡単でいいのかな」

「簡単でお願いします」


 うーん。じゃあどうせ九王沢さんにかなうわけないし、とにかくシンプルに、僕は言うことにした。


「知力は自分と『違う』を判断する力、想像力は自分と『同じかも』と感じる力?」

 恐る恐る僕は言った。何しろ相手は博覧強記はくらんきょうきの九王沢さんだ。

「伝わりました。今のはちゃんと、那智さんの言葉でした」


 するとにっこりと、九王沢さんは笑った。ああ、緊張した。にしても何で笑うときだけ、紛うことなき天使の笑みなのだろうか。


「わたしもそう思います。現在持っている知識から導き出されるパターンの中で一致、不一致を判断するのが、『知力』です。これは目の前の状況に対して導き出す答えは自分がすでに持っている『解』のパターンと同じであるかそうでないか、『識別』する能力なのです。つまりここには本質的にはイエスとノー、二つの極しか存在しません。


 そのため現在実用化されているコンピュータは現実の状況を『違う』と判断すると、その場で停まってしまいます。これ、自分の解決不能になった『判断』を優先して今目の前にある状況を『放棄』したから停止するんです。


 人間に限らず『生きている』他の生物には、そんなことは出来ません。たとえ間違っていても即座に行動は選ばないと、その状況を放棄したら死んでしまうことだってあるんですから。でも機械は、例えそこで自分の存在を破壊されたとしても、『停まる』でしょう。


 でも、『想像力』を持つ人間は違います。その気になれば、そこでまた手持ちの答えとは違う答えを探すことが出来ます。


 もちろんこれには、過去の経験や知識、元になるデータが必要です。しかしそのカテゴリにない、新たな答えを自分で創り出すことが出来るんです。それが人間の直感の正体ではないでしょうか。


 つまり『想像力』が『知力』そのものでなく、でも『知力』によって導き出されるもの、と言うのはそのようなお話を踏まえてのことだと言うことです。となると、人間の直感、ひいては感性は人工知能には再現出来ない、と言うのが結論になると思うのですが、いかがでしょう?」

「う、うん、普通にそうだと思うよ」

 概略しか話が分からないながら相槌を打つと、

「でも、果たしてそうなるでしょうか?」

 九王沢さんはまたあの悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「では次は、人間の側からお話をしましょうか」


 頭がぐらぐらしてきた。あれっ、僕、今どこにいるんだっけ。


 気がつくと僕は、すっかりライトアップが完了した赤レンガ倉庫街の中にいた。僕にとっては、きらびやかなあのクリスマスイルミネーションが鳩血色ピジョンブラッドに明滅する非常警告灯にしか見えなくなってきた。あ、しばらく考えるのやめよ。


 そうだ。あれから僕は九王沢さんとの議論が続いて時間を忘れ、暗くなったことも移動したことも上の空になってしまっていたのだ。


 正直、デートをしているのか、マンツーマンで科学と人文のごった煮の講義を受けているのか、自分でもよく判らなくなってきた。


 とは言え、決して詰まらない話じゃなかった、そう思っている自分がいるのはなぜだろう。例え僕がやっている文学の分野だけででも、あの九王沢さんと、きちんと渡り合えたと言う何となくの満足感がそうさせるのだろうか。


 そう言えばどんなものを書いていたって思うが、すべての創作上に登場する人物の感性は、人工物なのだ。作者の手になり生み出され、その物語の中でしか存在できない。それらは確かに、九王沢さんの言う人間が持つ『想像力』の賜物なのだ。


 そう考えるとちょっと九王沢さん自身のことで、僕なりに理解が深まった気がした。彼女のことで僕が、分かることがあるのだ。そう言えば距離が縮まったのかも知れない。


 彼女は純粋にただ、好奇心の人なのだ。


 議論に熱中しているときの九王沢さんは、ひと際魅力的になる。つまりは自分が知らないものに出会ったとき、まだ知らないこと、分からないことを、真剣に考えるとき。


 大きな瞳が輝いて、薄闇の中でも一層の潤いを帯びて光る。いつもおっかなびっくりの話し方や言葉の選び方が独特の切れを帯びて、勘や連想が冴え渡る。


 そう言うとき声大きいし、ちょっとはた迷惑だけど、本当の九王沢さんが感じられる。それがとてもかわいいし、決して嫌いじゃない、いや彼女のことがちゃんと好きだと思う。


 でもそれはもはや言葉にならない、好きなのだ。


「わたしの、どう言うところが好きですか?」


 九王沢さんが自分で聞いておいて、それは意地悪な質問だ、と言った意味が今なら、何となく分かる気がする。この感じ、一つ一つ言葉や論理で置き換えたら、本当のそれじゃなくなってしまうのだ。


(でも、それでもだからこそ、言葉があるのかな)


 僕は、はっとした。例えばパーシーと漱石の逸話みたいに論理で考えて、知識と符合させて、知力で踏み固めてやっと手繰り寄せかけてきたものが、想像力の飛躍的な直感で解決されてしまう、そんなことがあったとしても。


 何より言葉がなかったら、その両者は同じ結論を得たものだとしたって、違う生の周回軌道上に存在し、永遠に結びえないのだ。


 決して交わりえない遠いものすら、強く結びつける奇蹟の力。

 と、なると言葉こそ、人間の想像力の奇蹟の産物なのかも知れない。


 じゃあ、と九王沢さんみたいに僕は考える。


 人間の感性が知力ではなく、想像力の賜物だとするならば。

 好き、って人工知能で再現することが出来るものなのだろうか。

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