第5話

 女ってのは、分からない。分からないもんだ。


 一度は言ってみたい粋な台詞だが、いざ本当のカオスに直面してみると、なんて辛いのだ。ハードボイルド気取ってる場合じゃない。この子、本当に分からない。


 九王沢さんについては、すでにこの時点で僕のこれまでの常識すらが音を立てて倒壊しそうだった。


 逃げ出したい。だが一方でたとえ少しでも、あの九王沢さんが僕を好きだ、と言う可能性があるんなら、僅かばかりのその可能性に賭けたい貧乏性な自分がいた。だってもったいないじゃん。


 分際を知らず、しかもなんてみみっちいのだ。悲しい。だがそれが男だ。例えこの行く手に更なるカオスが待っていたとしても。


 ただ目の前の欲望に向かって突っ走るそれが男だと叫ぶ、僕の中の何かが止められなかった。だって、なにしろ相手は血統書つきHカップなのだ。


 しかしそこから先は幸いなことに、一般論的なカップルの誰もが経験するごく普通のデートになった。


 正直、待ち合わせの段階で僕と九王沢さんには異星人同士ほどの隔たりを感じたのだが、全くそんなことは気にならなくなるくらいにちゃんとしたデートだった。


 当たり前のことだが、九王沢さんも二十歳になったばっかりの女の子なのだ。良かった、ほっとした。だが、そんな感じで気を抜いているとまたえらい目にあった。


「那智さん、那智さん」


 と、生まれたての子犬みたいな目で、ぐいぐい僕の腕を引っ張って一生懸命自分が見慣れないものを探す、九王沢さんにいちいちノックアウトされた。僕は侮っていた。これが、かわいすぎるのだ。


 まずはウィンドウショッピングを、って感じで横浜ワールドポーターズに足を運んだのが、運の尽きだった。


「今度は、あっちです!あれ!ほらっ、これも!こっち見て下さいよお!」

 と、もはや誰にも止められない九王沢さん。


 特大テディベアのお腹に顔を埋めたり、小犬のぬいぐるみにはしゃいだり。古銭や駄菓子と言った、九王沢さんに生涯接点がなさそうなものについて矢継ぎ早に僕に説明を求めてくる。


 何でも答えてあげたい気分だ。そして、ほっとけない。目を離すとふらふら、危険なゾーンへも足を踏み入れてしまう。


「那智さん…さっき、知らない方に突然話しかけられたんですが。絶対領域、ってなんのことでしょうか?」

「そう言うおじさんに着いてっちゃだめ!」


 お蔭で、僕はうかつに一人で、トイレも行けなかった。


 でもそんなとき、九王沢さんは僕が、普段、見たことないようなきらきらの、奇蹟みたいな表情を見せるのだ。


 例えばこんな子が自分の彼女だったらなあ、とか思わない男がいるか?でも今となってはむしろ、そう言う人の方が幸せなんじゃないかと僕は思った。


 さっきの話だと今日の九王沢さんは僕と、かけあい漫才がしたくてここに来ているのだ。


 いわば芸人的な意味合いで、僕に突っ込んでほしいのだ。勘違いしたらそれこそ、確実に九王沢さんをがっかりさせ、依田ちゃんに罵倒されるだろう。


 でもそれなら、英国詩について途方もない議論を吹っ掛けられた方が、まだましなくらいだった。


「那智さんって、わたしのこと好きですか?」


 いきなりの根本的質問だ。赤レンガ倉庫街の前を通り抜けて、山下公園に向かう道の途中のことだった。


 ちょうど横浜税関の前辺りからそこは道が長い歩道橋になっていて、山下公園裾野にあるコンビニまでずっと、海を見ながら歩けるようになっているのだ。


 行く手に浮かぶ海上の大桟橋を見ていた九王沢さんだが突然、さっきまでいた場所に忘れ物をしたのを思い出したような顔で振り返っての、核心をついた質問だった。


「そ、そりゃ好きだよ」

 僕は絶句しかけたが、どうにか間をおかずに答えられた。

「だからデートに来てるんじゃないか」

 すると九王沢さんはまた、あの天使の笑みを見せた。

「ありがとうございます。ではそれは、後輩じゃなくて、友達じゃなくて、と言う前提でよろしいでしょうか?」

「うん、いいよ」

 あ、後は恋人だけだ。動揺を隠しつつそう言うと、

「じゃあ、わたしのどう言うところが好きですか?」

 と、すかさず切り返された。考えてみればそれ、一番答えにくい質問だった。

「なんて言うんだろ。…その、頭いいし、かわいいし」

「他には?」

「えっと…」


 絶滅危惧種に近い超絶お嬢様なのに我がままで高慢だなんてところ微塵もなく、清楚だし、素直だし包容力あるし、皆の注目の的だし。さらにはHカップ…いや、それ本人の前で言えないだろさすがに。でも後は、とことん最低な表現しか思いつけない。


「ちょっ、ちょ、ちょっと待って…」

 僕が口ごもっていると九王沢さんはなぜか悪戯っぽく笑って、

「ごめんなさい。その辺で十分です。正直、すっごく答えにくかったと思います。わざと、意地悪な質問をしましたから。悪気はなかったんです」


 その時、氷川丸の汽笛の音がした。正午を知らせる引退した汽船の時報に、彼女は反応したが僕から視線を外さなかった。二人でちゃんと会話が出来なくなるのを警戒して注意を払っただけだ。


 案の定、その無遠慮な横槍が収まるのを待って、彼女は言った。


「よく判りました。でも今のそれ全部、那智さん自身の言葉じゃないと思います」


 絶句した。

 だってどう考えても僕はそれに、反論する術を持たなかったからだ。


「那智さんは那智さんの言葉をちゃんと持ってると、わたしは思います」

 わたしは、それが聞きたいんです、と、九王沢さんは言った。

「ちなみにわたしは、わたしが那智さんを好きな理由を一つだけ答えることが出来ます。それはこの、作品の中にあります」

 と言って九王沢さんが出したのは、あの忌まわしい前回の会報誌だった。反射的に僕は露骨に話題を反らしたくなった。

「あの大桟橋の中って、一体何やってるんでしょうかね…」

「あなたの作品と、わたしの話から逃げないで下さい」

 僕はトラウマの入口で引き返そうとして、九王沢さんにがっちり引きとめられた。

「依田さんから聞いているはずです。だってわたし、那智さんの作品を読んでこのサークルに入ろうと思ったんですから」


 それは正直、デマだと思っていた。


 だって依田ちゃん自身が、

「あ、それデマですよ。ただのページ稼ぎさんなんだから調子に乗らないで下さい」

 ってとことん辛辣だから。まさかここで本人の口から、直接噂の真相が語られるなんて思ってもみなかったから。


 ちなみにその噂によるとだ。


 九王沢さんはイギリスから来日してこの大学に編入前に、うちの学祭に訪れてたまたまこの会報誌を手に取ったらしい。


 あんまりにもかけ離れたルックスの女の子が、がらっがらのサークルの即売所の前に貼りついて、あの薄い本を思い詰めた顔で何度も繰り返し繰り返し立ち読みしているので、そこにありえない人だかりが出来始めたらしいのだ。


 SNSサイトで九王沢さんの写メを撮って拡散した奴もいるくらいだったと言う。信憑性ある話ではある。見ての通り九王沢さんは立ってるだけで、立派な広告塔になりえる。


 ただこれ、実際起こってみると、製作者としては嬉しいが、販売所にとってはぶっちゃけ有難迷惑だった。


 依田ちゃんは買いもしないのに、九王沢さん目当てで群がってくるむっさい連中への対応に追われ、かわいそうなくらいへとへとになった。


「だあーっ、どけえーっ、どいつもこいつも!買わないならみんなどっか行け!」

 と、布のはたきを武器に、呂布りょふ並みの無双奥義で野郎を追っ払う依田ちゃん。頼もしすぎる。書店に就職したら、店頭では欠かせない存在になりそうだ。


「あの…そんなに欲しかったら差し上げますよ、ただでそれ。どうせ売れないし」

 そんな依田ちゃんに、九王沢さんはこう詰め寄ったと言う。

「この本のこの作品、これ書いた人に会わせて下さい!」

 と、それがなんとまあ、よりによって僕の、史上最低の駄作だったのだ。


「なんであのとき会って頂けなかったのか、ずっと考えてました。やはりわたしはまだ、未熟だったからでしょうか。足りないものがあったからでしょうか。お答えを頂けなかったので、そのせいだと思うことにしました」


 ちなみにこの件。

「それは違います!」

 と声を大にして叫びたかったが、絶っ対出来なかった。


 だってあのとき九王沢さんにせがまれて、依田ちゃんは何度もその場で僕の携帯に電話したらしいのだが。


 白状します。その頃の僕ですか。つぶれた酒屋から捨て値で在庫を仕入れたと言う先輩のうちに上がり込んで、ウイスキー、焼酎、日本酒で、朝から晩まで爆酔してました。


 だって製本後の読み合わせ段階であれだけ酷評されたし、刷った分なんて到底、はけやしないだろうから、持ち回りのめんどくさいカウンター当番をついサボってしまいますた。…かくして依田ちゃんは激怒して、一ヶ月ほど口を利いてくれず、一世一代、空前絶後の本気の反省文を提出してようやく許して頂きましたのです。


 などと言う裏事情は、死んでもこの子には言えなかったからだ。

 て言うか、それなら逆に思いきって聞きたいくらいだ。


「九王沢さんは、なんでそんなにこの作品に興味持ったの?」

 九王沢さんはそこで初めて、ミステリアスな表情を浮かべた。

「この作品のテーマには、一つの啓示があります。それがすごく気になったからです」

「啓示…?」

 もちろんぴんと来なかった。

「それだけじゃありません。もっと何か、大事なことが」

「大事なこと?」

 そして首を傾げた僕に、

「例えば」

 彼女は続けて言ったのだ、

「そこに、隠された構図が」

「え…?」

「違ってましたか?」


 心臓をぐさりと刺された気がして、僕は顔をしかめた。なんでか今の瞬間。他のことはおっかなびっくり健気一途な彼女が、なぜかそのときだけとても確信的犯的な声音を出したから。


「何かあったかな…?」

「よく思い出して下さい」

 その表情の変化を九王沢さんはまたあの不純物のない笑みで受け止めていた。

「それは追い追い、お話しましょう。お互い、時間のかかることでしょうから」


 十二月の陽は本当に短い。僕たちは山の手を北上すると、日暮れ前のみなとの見える丘公園にいた。ちょうど今、横浜港が一望できるこの場所は、落日前の神々しい光が降りてきている。


 その黄金色の光を浴びて、神々に祝福された九王沢さんと、もろもろ見放されたすすけた僕が歩いている。


 そこからは陽が暮れるのを待って、中華街近くの生演奏が聴けるジャズバーに行って、赤レンガ倉庫街でクリスマスイルミネーションをみて、後は野となれ山となれコースだったのだが、九王沢さんの話に引っ張られたせいか、そのことはすっかり頭に入ってこなくなっていた。


「『ランズエンド』と言うタイトルはどこから?」


 岬を渡る際立って冷たい海風に髪をなぶられながら、九王沢さんはついに僕の書いた作品のタイトルのことを口にした。


「特に意味はないよ。海辺へドライブに行って、そこでふられる話だから」

「関係の果てを地の果て、とかけた寓意ですか?」

 僕は素直に頷いた。


 一般的にランズエンドは「みさき」と言う意味だが、ケルト人にとっては「地の果て」を意味したそうだ。つまりはそこから先は生と死との境界線、すなわち別世界との分岐点。


 そう言うタイトルだと想像力が刺激され、なんか暗示的な感じがするが、内容は今どき書くのも敬遠されるほど単純なストーリーだ。


 もう終末期のカップルがいて二人のうち、男の方は別れたくない、女の方はうんざりして半ば面倒くさくなっている。二人が出した違う結論が、決断に変わる果てを描きたかったのだが、


「全然そうなってないですけど?」


 タイトルだけなにカッコつけてんですか、と、依田ちゃんには、いらっとされた挙げ句眉をひそめられた。


「ランズエンド岬に行ったことは?」

「ないよ」


 九王沢さんが言うのは、イギリスの観光名所の方だろう。


 このランズエンド岬はイングランド南西端のコーンウォール州と言う地域にある。鉄道よりも車や夜間バスが主なアクセスと言う辺境だ。


 ちなみにイングランドの本島では一番西にある『地の果て』を謳っているが、位置的には本当の地の果ては別の場所らしい。


 地理学上の最果てではなく、その地に住んだケルト人の信仰上の問題と言える。ちょうど日本で言う浄土思想、つまり海の彼方に極楽があると言う考え方を元に陸地の果てを、浄土ヶ浜や浄土ヶ浦などと称したのと一緒だ。


 ちなみにイギリスだけでなく、例えばフランスなどにもケルト人が足跡を残した岬には、ランズエンドの名前がつけられている。


 大体僕の作品はイギリスほとんど関係ない。舞台は僕の地元、太平洋の荒波洗う千葉県の銚子市ちょうししの海っぱた沿線である。


「やっぱり銚子の犬吠崎いぬぼうさきや九十九里浜じゃ、雰囲気でなかったかな?」

「そんなことありません」

 九王沢さんはきっぱりと、言った。

「そんなことないです。文章を読んでいてそこに行ったことのないわたしにも、ちゃんと風景がつながりましたから。不思議なお話だと思いませんか。


 わたしはランズエンド岬に行ったことはあっても、千葉県銚子市の岬に立ったことはありません。そして那智さんは犬吠崎から見る海を実際に目の前にしたことはあっても、ランズエンドの地に立って同じことをしたことはない。


 その二人がただ一つの文章で、同じイメージを共有できたんです。これってとても素晴らしいことだと思いませんか?」

「そうかな…」

 理論上はそうだけど、どうもぴんと来ない。

「奇蹟ですよ」

 完璧に曇りのない笑みで、九王沢さんはそう断言した。

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