硝子細工の水園で

@mas10

硝子細工の水園で

 青とは。虚しい色だと思うのだ。


 ◇◆◇


 「硝子細工の水薔園」。それがそこの通称だった。正式な名はない。ひとりの女の道楽のために作られた小さな箱庭であったので、必要がなかったのだ。名の通り、その花園には硝子でできた薔薇が咲き誇り、地面ですら薄氷を敷いたかのような硝子製である。美しいと思う。けれどこの美しい、枯れることのない薔薇達が、ひどく虚しく見えるのはなぜなのだろうか。

 こつり、こつり。硬いかかとが高い音を鳴らす。文字通り青々と茂る硝子細工の薔薇達を潜り抜けた先に、この花園の中央たる湖がある。

 その側に、少女が座っていた。淡い色に包まれた世界でその漆黒の髪は異質であり、ひときわ存在感を放っている。そしてその瞳はまた異彩を放っていることを、自分は知っていた。


「ねえ、あなた。山も海も、枯れるのだそうよ」


 少女は、振り返らずにそういった。その視線は目の前の湖に固定されている。


「挨拶もなしとは、御挨拶ですね。急にどうしたんですか?」

「別に。昔、ねえさまが教えてくださったことを思い出しただけ」


 立ち上がった少女は、ゆっくりとこちらを振り返る。こちらに据えられた瞳は、緑。鋭い視線が痛い。彼女の視線は、いつも冷たくて痛い。無機質な鉄ではなく、氷のような痛さ。

 けれども僕は、この青色に包まれた世界の中で、この緑に安堵する。命の色だからではなく、その瞳に宿る、その意思を見出すことができるから。


「ねえさまが、仰ったの。海も山も死ぬのですって。お眠りになる前に、そう仰ったの」


 再び、彼女の視線が湖に戻る。正確には、湖の底深く。光も届かない、その底に。彼女の最愛の姉が眠っている。

 彼女にとって、姉は最愛であった。その鋭い視線は姉に対してのみ熱をはらみ、甘くとろける。美しい青の瞳を持つ彼女の姉は、人形のような人だった。青は、虚しい色だと思う。その最たるが、彼女の瞳だった。

 少女は姉を、完璧な人と呼ぶ。


「ねえさまは、深い深い水の底。薔薇の下の、棺桶の中」


 緑色の少女は、歌うように朗々と言葉を紡ぐ。口元には小さな笑みが浮かんでいる。視線は湖にくぎ付けで、さざ波が、その瞳に波打つ。


「まるで、眠り姫か、白雪姫ね。生きてるのか死んでるのかもわからない。わかるのは、眠っているってことだけ。この青に支配された水園で。この青い薔薇の、その下で」


 くるり、と、少女がこちらを見た。ワンピースが風をふくみ翻る。口元の笑みは、人を小馬鹿にした笑みのまま。緑色の瞳が、細められた。彼女はこてりと、首を傾げる。


「赤い桜の根元には、死体があるのだそうよ。桜は、その血を吸って赤く染まるのですって」


 ならば、と、少女は言った。つかつかと、硝子の薔薇に近寄り、手に取る。薔薇に向けられた視線は、優しい。

 少女は言った。ならば。


「なら、ねえさまを巡る血液は。ねえさまを形作るその血潮は、青い色をしているのかしら」


 澄んだ水面のように。美しい硝子細工のように。この、青に支配された、美しい箱庭のように。

 この園の硝子の薔薇のような青い瞳を持つ少女の姉は、高貴なる青い血そのもののような女だった。彼女を満たす血には熱がなく、情もない。むなしいだけの硝子細工そのもののように、虚ろな目をした人形のような人だった。

 僕は、あの瞳が、嫌いだった。


「じゃあ、貴女があそこに沈んだなら、この花園は緑色に染まるのですかね」


 わざとからかうように言ってみる。妹たる少女は、おかしそうに声を鳴らす。猫のように目を細めた彼女は、肩をすくめながら片手で口元を隠した。

 少女の瞳が、世界の色を反射し、翠色に。


「そうね。そう、ね。ねえさまが青い血をお持ちなら、きっと私の血は緑色をしているのでしょうね」


 くすくすと笑いながら、少女は手の中の硝子細工を手慰む。細められた瞳は、一度軽く伏せられた。

 彼女は小さく息をついた。


「緑、緑、緑色。青に似ている色。似ていて、につかない色。私の目の色。怪物の、色」


 こちらに、彼女の瞳が据えられた。いつも意思に満たされた緑色が、どこか儚げに揺れていて。世界の色を反射した翠のせいなのか、わからない。


「知ってるかしら? 緑の目の怪物(グリーンアイドモンスター)。嫉妬という怪物は、緑の目をしているのですって。人の心をなぶりものにして、餌食にしてしまう怪物。ねえさまの目は綺麗な空の色なのに、どうして私はそんな、怪物の色なのかしらね」


 その声は、劣等感に塗れていて、見下ろす青色の薔薇を持つ手にも力がこもっているようだった。静かな声には自嘲の色濃く、歪んだ口元はその瞳の示す通り、嫉妬を隠し切れていない。嫉妬という怪物は、緑の眼をしているという。その瞳の示す通り、彼女はいつも姉に羨望と、憧憬と、そして嫉妬の視線を向けていた。

 彼女は、虚ろな姉を、完璧な人と呼んでいた。


「ねえ、あなた。山や海が死ぬのなら。この水園も、いつかは死んでしまうのかしら」


 唐突に、明るい声で少女が言った。努めて出したような、その声に痛ましさすら感じる。手を伸ばし掛けて、戸惑う。一体自分に、何ができるというのだろう。


「……さあ、どうでしょう。いつかは、枯れてしまうのでしょうが。どうしたんですか?」

「いいえ、大したことではないの。でも、ね」


 困ったような、哀しいような、不思議な表情をした彼女は、軽く首を傾けた。再び伏せられた視線は、湖に戻る。


「水なんていらない、偽物だらけの薔薇園で。仮に水が枯れたとして。それでも、この園が死ななかったとしたら」


 瞳が、揺れる。緑の瞳を波打たせた彼女は、微笑みとともに呟いた。


「この水園は、この水は、何の意味を持っていたのでしょうね」


 青い色は嫌いだった。空々しくて、嘘くさくて。だから、彼女の姉も恐ろしかった。人形じみた彼女は、いつも青い瞳を無機質に光らせていたから。

 だから、この水園も嫌いだった。この青い水園は、硝子まみれの箱庭は、まさに彼女そのもので。水園の女王は、まさに箱庭の体現者であった。

 薔薇の一欠、水の一滴でさえ、彼女そのもののようで。その虚無に、のみ込まれそうな気さえした。

 この少女は、のみ込まれることを望んでいたのだろうか。嫉妬と憧憬を煮込んだような、どろどろの視線を姉に向け続けた少女は、この箱庭に沈んでしまいたかったのだろうか。その瞳を、青色に塗り替えてしまいたかったのだろうか。


「貴女は、この水園に死んでほしかったのですか?」

「いいえ、まさか。ここはねえさまの大切な場所。そんなこと、思うはずがないわ」


 ばかばかしいと言いたげに笑う。それは確かに本心で。そうだろうな、と思う。彼女は本当に姉を愛しているし、姉の分身のようなこの場所を大切にしているから。

 だからこそ、なのだろう。得体の知れない確信と共に、問う。


「では、貴女はこの水園と一緒に、死んでしまいたかったのですか」


 その問いに、少女は数度瞳を瞬かせると、微笑む。それは、あまりにも美しい笑みだった。


「どうなのかしらね」


 呟く。どうなのかしらね。

 自分は、何も言えなくなった。






鯨魚取り 海や死にする 山や死にする

死ぬれこそ 海は潮干て 山は枯れする

 『万葉集』 旋頭歌 詠み人知らず

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