桜橋と後輩
かたなかひろしげ
桜橋と後輩
ここ数日続いている酷い残暑のせいで、武蔵境駅の中央線のホームは、今日もじりじりと暑い。
そんなホームからの反射熱のせいか、夕刻になり少し日が陰ってきたというのに、
ホームの上にいると、じっとりとした暑さが足元から伝わってくる。
最近転職し、馴染みの深い代々木を出て、三鷹に引っ越しをした。
就職してから早10年近く、慣れない会社勤めを続けていたが、俺も年貢の納め時、ついに地元の彼女と身を固めようという話になったからだ。
まあ、いわゆる出来婚というやつだ。
地元の安居酒屋で呑んでいる時に意気投合して、そのままずるずると付き合いはじめ、今年の春、妊娠していると告げられた。
ある程度、心のどこかで期待と覚悟はしていたので、あいつと結婚すること自体はまあ悪くない話だ。なにせこんな甲斐性の無い俺のことを好きでいてくれる女なんて、そうはいない。
ところが、問題はきまって思わぬところから起きるものだ。
俺が勤めていた会社が懇意にしていた得意先に、結婚相手の父親が勤めているのがわかったのだ。まあ地元企業だし、そういうこともあるかもしれない。
しかも俺は、頻繁にその得意先を訪問していて、よりにもよって相手の顔にもなんとなく覚えがある始末。
いっそ、このままとぼけて知らぬふりをしたまま結婚してしまおう。とも思っていたのだが、案の定、早々に得意先の会社に先にバレてしまった。
そこからはもう相手の父親と揉めに揉め、結局、俺は当時勤めていた会社を辞め、その得意先の会社に転職することで、ようやく折り合いがついた。
一人娘をもつ父親の心配というのは俺もそれなりに理解はできるし、それなりに相手にもリスペクトをもって接してきたつもりだが、こういう時、俺の
結局、当時いた会社には不義理になってしまったが、経緯を秘密にして黙ったまま、退職することになった。得意先だけに、引き抜きがあったと元の会社からクレームが入ることはないだろうが、会社同士のトラブルにはしたくなかった。こんな俺でもその程度の機転は回る。
季節は晩夏に至り、今の会社に転職して数ヶ月経つ。
前職とはまるで違う慣れない仕事をする羽目にはなったが、そもそもコミュニケーション能力にだけは自信があった。そのため、周囲を質問攻めにすることで、なんとか新参者なりに戦力にはなっている気がする。外回りでからっぽの頭を下げて回った日々も、こうして経験として今の仕事の役に立っているのだから、適当にやっていた俺にはなんとも皮肉なものだ。
今日も一日を終え、事務所を出て武蔵境駅への帰路につく。
今の事務所は武蔵境駅から15分ほどの場所にある。駅からは、玉川上水を桜橋で越えてすぐのところだ。
思えば今の会社に転職する前も、何度もこの橋を渡ってきた。
当時は、とある後輩とコンビを組んでこの道を歩いていた。
そういえば奴は元気にしているだろうか。いきなり俺が辞めたので、引き継ぎもなしに仕事を全部おいてくる形になってしまったのは、流石に随分と悪いことをした。大柄な痩躯にのった真面目そうなあの顔が、少し機嫌を悪くする姿を少し思い出して、苦笑いをする。
いささか頭の硬いやつだったが、こんな俺が中身のない適当な話をしても、嫌がらずに相手をしてくれた気のいい後輩だった。まあ、先輩への配慮という点も多分にあったのかもしれないが。
近所の浄水場から風に乗って流れてくる、くぐもった水の匂い。こんな暑さでは、そんな水の匂いでも、幾ばくか涼しい気持ちになれるから、不思議なものだ。
桜橋の交差点で信号待つ間、左を見ると、雑木林が見える。
そのすぐ中に国木田独歩の碑がある。ちなみに中学の頃はいっぱしの文学少年だった俺は、親しみを込めて、心の中で独歩ちゃんと呼んでいる作家の碑だ。
その後輩とはいつもここら辺で、「休憩」と俺が勝手に称しては、タバコを吸いながら缶コーヒーを傾けていた。勿論、ここはべつに喫煙場ではないのだが、ちょうど近辺には立ち寄る人影も少なく、都合の良い木陰もあって、体の良いサボり場所だったのだ。
もっとも、一人で帰るようになってからは、立ち寄ることもなかったが、後輩のことを思い出して興が乗ったので、今日は碑の前まで立ち寄って一服することにした。
夏の終りを告げるべく、ここらにだけ固まって群生している雑木林を目当てにした蝉たちが、飽きもせず夕刻の大合唱を奏でている。
少しでも樹木があるところというのは、そよぐ風が肌に当たると、たとえ晩夏であっても気温の違いを感じずにはいられない。地味に居心地の良い場所であった。
おもむろに碑の方を見やると、その横には、見慣れた缶コーヒーの缶が置かれている。汚れてもいないので、最近置かれたものだろう。
「───なんだよ。
なんだかんだいって、お前もここでサボるの気に入ってたのか。」
どうやら、例の後輩君により、独歩ちゃんには既にショバ代が払われていたので、今日は手持ちの缶コーヒーを置いてゆく必要はなさそうだ。
───先日、以前の会社の人間にも、今の転職先がついにバレてしまったので、しぶしぶ連絡をとる羽目になった。
突然辞めたことと、何より得意先の娘との結婚を秘密にしていたことについては、それはもうかなり強くなじられたが、軽く不義理を詫びるついでに、例の後輩の様子をさりげなく聞いてみた。
「元気にやってますよ。よく愚痴ってますけど。」
近頃は、なにやら渋谷の得意先に出入りしているようだが、時々、こちらにも足を向けることもまだあるらしい。
前の会社は、二人組で客先を回るのが業務スタイルだった。どうやら新しいコンビ相手とは、あまりうまくいっていないようだ。経験もまだ浅い上、俺と別れた後に、すぐに新しい相手とコンビを組まされるのだから、あいつもさぞかし大変だろう。
電話を切ると、2本目の煙草に火を付け、そばの自販機で買った缶コーヒーのプルタブを開ける。
珈琲を飲みながら紫煙をくゆらせる。そのままなにをみるでもなく目線を落とすと、自然と地面に置かれた先の缶コーヒーが目に入る。
前の会社は、なにかの強い思いがあって入社したわけではなかったので、なんら感慨はないのだが、こうして一度縁を持った人間と距離を置くことになると、色々と考えてしまう。人の人生に責任など持ちようがないのは理解しているのだが、中途半端な状態で後輩を見捨ててしまう形になってしまったのは否めない。
あの後、後輩君がどんな気持ちで、またここに来て、この缶コーヒーを置いていったのかは知る由もない。思えば、彼と比べてたかが数年早く社会人を始めただけの身であり、仕事以外に教えるほどの中身の無い俺だ。何か彼に教えるほどの有意義な話が出来たかというと、正直怪しい。
缶コーヒーの缶を眺めていて、ふと気がついた。
───そうだな。こういうサボり場所でうまく休憩する手管だけは、うまく仕込めたのか。
苦笑いしながら煙草の先を携帯灰皿にこすりつけ、くすぶっていた火を消し、 置いてあったコーヒー缶の横に、自分の呑んでいた空き缶も並べて置いた。
あいつ、気がついたら片付けておいてくれるよな。
桜橋と後輩 かたなかひろしげ @yabuisya
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