二話

 写真を撮って欲しいという依頼人が今日、午前十時にやってくる予定だった。どんな写真を御所望かは分からない。主に芸術としての写真を撮るおれとしては写真館のような仕事はなるべくしたくなかったのだが、タバコ代を捻出することも考えて、何となく依頼を受けたのだった。依頼はメールで届いたが、普通礼儀として書くべき名前や年齢、依頼目的などは一切記載されていなかった。もしかしたらこういう謎めいた要素が、おれを不自然な行動に駆り立てたとも言えるのかもしれない。


時刻は九時半を回っており、おれは接客も込みでコーヒーを淹れることに決めた。

コーヒー豆は放置しておくとどんどんガスを出し、酸化してしまうため冷凍庫に保存してあった。おれは口の脇が切れかかった変色気味のジップロックに入ったそれを取り出し、勢いよく封を開けた。飲むそれとはまた違う深い香りが、空気を突き抜けて鼻に届いた。至福とはこのことなのだろうと思った。銀のカリタ製計量カップで規定量を量り、銅製の古いハンドミルに投入した。カラカラという乾いた音が心地いい。豆を挽き始めると同時にとうの昔に廃番になった曲線フォルムが特徴的なサイフォンのフラスコに水を多めに入れ、アルコールランプに火をつけた。アルコールランプでは沸騰に時間がかかるため、あらかじめコンロや電子ケトルで少し温めておき、そこからフラスコにお湯を移して火をつけるという人が多いようだがおれはあえてそういうことはしなかった。特に意味はなかったが、強いていうとするならばこだわりなのだろう。ただ決して、サイフォンというそれ自体で完結した最高の方法に茶々を入れたくない、というような高尚な考えではなかった。


 豆は挽き終わったが、沸騰するのには、まだ時間が必要そうだった。そうこうしているうちに、我が時計ハウスのインターホンが鳴らされた。彼女が代わりに客を出迎に行ったようだったので、敢えて気にはかけなかった。彼女にはどんな人の訪問にも自ら出迎えたいというような風変わりな欲望が昔からあるようだった。彼女の高揚した声が一階から、なんとなく聞こえてきた、ような気がした。もしかすると依頼人は彼女の旧友なのだろうか。滅多に男性との関わりを持たない彼女のことなので、もし旧友だとしたらば女性という可能性が高かった。やりづらいと思った。例えば、あくまで表現の一つとして裸体を撮影するということも考えられなくはない。どう切り抜けようか。頭半分でそんなことを思いながらおれはサイフォンを見つめていた。いい頃合だった。じっくりとアルコールランプで沸騰されたお湯は、サイフォンのフラスコを気化により真空にし、だんだんと上昇し始めた。そしてフラスコの口に入り込む形のろうと部分まで登りつめたお湯は一気にコーヒー粉の山を噴火させた。ここで本物の活火山ならば火山灰やガスが発生するところだが、コーヒーの場合にはそれは豊かなアロマに代替された。おれは全部で三人分のコーヒーを淹れた。アルコールランプの火を消し、ろうとをはずしてフラスコからコーヒーカップに注ごうとしたその瞬間、おれはキッチンの赤茶の木製引き戸の前に立つ二人の人物の存在を認めた。


 「ああ、いらっしゃいませと言ったらいいのかな。まあとにかくそこら辺の椅子にお掛けになってください。ええその柔らかそうなやつです。今コーヒーをお出ししますから」おれはぎこちないであろう作り笑いを浮かべながら申し訳ないといった感じでそういった。接客はかなり不得手だった。

「はい、分かりました。コーヒー、大好きでございます。」客人は言った。

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写真家Dの謎めいた日常生活 田付 貴 @hawksnows

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