保安係

 巴几巳斗トモエ=キミトは考えていた。

 銀縁の眼鏡を何度も掛けなおし、さして汚れてもいないレンズを拭きなおす。程よく片目にかかるかという程度に伸ばした前髪をかきあげ、なにか深い思索に没入しているのだとでも言わんばかりに脚を組んでみせた。




 ……いや待て、この組み方では股関節に負担がかかる。やはり組み直そう。テンプルも少し弄って、腕も組んでみようか。どこか不気味なこの助役は姿勢とか態度とか、そういう付随的なことはあまり気にかけていないようだから。

 第一、保安係の面々はどいつもこいつもおかしな奴ばかりで、その言動行動たるやおよそ職業人らしくない。今さっきの襲撃を思い出そう。目の前に座るこの安藤とかいうのは、衝動に駆られたのか、勝手に動いた。初見ではこの女が一番まともだと踏んでいたが、実にそれは違ったのだ。いくら実戦がまだとはいえ、座学で<魑魅魍魎>や『鉄器』のことを知っているにも関わらず、この尋常ならざる積極性をなんと評そうか。ただの阿呆ではないのか。

 容姿こそ、深窓の令嬢だ。あでやかに光る黒髪は弓なりに張った背をまっすぐ伝い、肌は太陽光に絶縁状を叩きつけて久しい。駅務室でご令嬢とすれ違うときには、柑橘類から放たれる化学物質に鼻腔粘膜の神経をくすぐられるかの如き錯覚を堪能する。なんとよい香りか。ここでよだれを垂らすまでに堕落した男ならば、もはやパブロフの犬である。

 

 江井几はいつも縮こまっている。立っているときはまだいいが、座らせると勝手に四肢が萎縮している。極限環境に曝露されたクマムシなのかと疑ってはみたが、クマムシほど耐久力があるわけではないらしく、事実何度か体調不良で仕事を休んでいたことを記憶している。前髪が瞳を覆っていて、どこを見ているのかてんで見当もつかない。髪型はボブカットに類するものであろうが、どうにも柔らかなヘルメットに見えてしまう。柔らかなヘルメットとはなにか、それは分からない。


 几島は話の通じる男だ。やけに筋肉質な双腕、体躯の壮健さを見るに、体育会系でブイブイ言わせていたのだろうと予測していたが、スポーツを嗜んだことなどなく、毎朝毎夕に近所の土手を散歩する習慣を物心ついたときから続けていたら身体が出来上がったという。そんなバカな話があるかと訝しんでいるが、本人がそう言うのだから仕方が無い。さらに驚くべきことに、このムキムキお散歩野郎は大学院の修士を出ている。修士論文のテーマは『英語のtoughタフ構文に関する認知言語学的考察』という。さぞかしムッキムキな論文に違いないが、怠惰な学生であったために彼が嬉しそうに語ってくれた内容にあいづちを打てるほどの教養すら持ち合わせてはいなかった。無ッ知無知である。


 神代とは保安係に配属されてからの1か月で三回、話したことがあるが、三回とも会話の歯車がかみ合うことはなかった。そんなにも彼女の会話のギア比がずれているのかというと、そもそもあれは歯車でもギアでもなんでもなく、恒星の重力に引かれて宇宙をあてもなくさ迷う百武彗星とでも言わざるを得ない。言葉のキャッチボールなど夢のまた夢で、現実は言葉のピッチングマシーンである。

 安藤の言う通り、神代が振りまいている香水は少々キツいところがあるが、安藤の嫌がり方はさすがに過ぎたところがあるように思える。それよりもなによりも、あのピンクの髪はなんなのか。実に、栄えある第1回目の彼女との会話は、その奇抜なカラーリングについてであった。

 神代さん神代さん、その素敵な髪色は生得的なものなのですか。それとも、時々の思いつきで染められたのでしょうか、恣意的なのでしょうか。

 低調にして丁重に、礼節をわきまえた慇懃無礼さでもって、こう問いかけたところ、彼女が言ってよこした言葉がある。

「ヒトの血の色がね、ピンク色に見えたのよ。ね」

 そんなことは聞いていない。質問には過不足なく答えていただきたい。

 あと2回の会話については、語る必要もないだろう。




「トモヱ。なにをぶつぶつ言っているんだね」

 キリオ助役の声で、巴は即座に脚を直し、膝に両手をつく。

「失礼しました。なんでもありません」

「キミッチー。また独り言ォ? すごいキモイっ! ね」

 ショッキングピンク=ショートヘアを振り乱し、神代は無邪気に笑いかけた。

「あ、そ」

「お前、端正な顔立ちしてさ。エリート!ッてカンジやのに、意外と陰キャっぽいやんな」

 几島が隣で嫌味を言う。

「……あ、そ」


 たわいもない会話が続く車内に突然、車掌のアナウンスが入る。ここまで、西大寺駅をあとにして、菖蒲池、学園前、富雄、東生駒を通過してきた。幸い、<魑魅魍魎>は出現していない。

『車掌より連絡。次の生駒駅から指令。構内で停車せよ、とのことです』

 それを聞いた助役はあからさまに嫌そうな顔をして言った。

「どうせ鍋ちゃんやろうなア。ああ、いやダいやダ」

 几島は助役が嫌がる理由を知らず、<鍋ちゃん>なる人物が誰なのか、見習いたちに聞いた。神代が意気揚々と答える。

「生駒の鍋島駅長のことだと思うノ。助役さん、でしょ?」

「ん、アア、そうだがネ」

「ね」

「駅長が来はるんか。ちょっと気ィ引き締めんとな。それにしても……神代、お前、いろいろ知っとんなぁ。<魑魅魍魎>が出たときも飄々としてたやないか。もしかしてお前、保安係の経験あるんか?」

 神代はその華奢な体をゆらゆらさせながら、うんともすんとも言わなかった。

 ただ、にっこりとほほ笑んでいた。


 日誌ここまで。




(社員歴概要)

キリオ=サヴィルシャール=ウビーストヴォ(Kirio Savershal Ubijstvo)

大阪管区第11列車区助役。年齢、35歳。男性。名古屋管区第1列車区乗務員(運転士)・宇治山田駅助役を経て、対<魑魅魍魎>用保安係に登用。大阪管区転属、現在に至る。<人殺し>の噂がまことしやかに囁かれている。

使用言語:日本語東京方言、ロシア語


安藤美沙几(Ando Misaki)

大阪管区第11列車区保安係見習い。年齢、23歳。女性。本年4月入社。第2新卒。

<魑魅魍魎>への執着を見せる。

使用言語:日本語東京方言


江井几暦(Ejki Koyemi)

大阪管区第11列車区保安係見習い。年齢、22歳。女性。本年4月入社。新卒採用。

体が丈夫ではなく、意見を口にすることも少ない。

使用言語:日本語東京方言


神代拶几(Kamiye Satzuki)

大阪管区第11列車区保安係見習い。年齢、18歳。女性。本年4月入社。高卒採用。

<魑魅魍魎>や<保安係>、社内の事情になぜか詳しい。

使用言語:日本語東京方言


几島義輝(Kidzima Yeshchiteru)

大阪管区第11列車区保安係見習い。年齢、24歳。男性。本年4月入社。修士卒採用。

ムキムキ。

使用言語:日本語近畿方言、英語


巴几巳斗(Tomoe Kimito)

大阪管区第11列車区保安係見習い。年齢、22歳。男性。本年4月入社。新卒採用。

見た目やしぐさはエリート候補生のようだが、実際は脳内一人語りが激しく、考えている振りをよくする。

使用言語:日本語東京方言










 

 


 

 

 

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