2.ある王子の喪失
一匹の悪魔が小さな国に降り立ち、若く無垢な王と契約した。王は愚かしいほどに無垢であったので、契約を友人間の約束と思っていたし悪魔が見せる高度な魔法にもただ感心するばかりだった。
王は人の善性を信じ国を開いていた。賊に城が荒らされようとも彼らには事情があるのだと赦して繰り返される犯罪を見逃し続けた。王は恨まれていて、それは当然のことだった。民はいくつもの魔物を生み出し、その切り離した憎悪を隔離した。
王族は国が滅びぬかぎり理を定める決定権を持ち続ける。だから仕方なく王が悪魔と邂逅を果たし契約を結んだことに目を瞑った。国が良くなるならそれでいいと民達は働き詰めで固くなった手の皮膚をさする。
耐えねばならなかった。一夜にして渓谷に橋をかけた悪魔…宰相の揺れ動く影から目をそらす。人でないなんてわかりきっている。
棄て去った疑心が恨めしげにこちらを黒いもやの中に僅かに覗く一つの目で睨んでいた。
「王子には剣の才能がありませんな」
「…勇者殿が言うのでしたら、そうなのでしょう」
勇者の証たる古代文字に覆われた顔面は草臥れている。濃い隈に垂れた目は温厚さと不安定さを表しているようで、こんな男にはたして勇者が務まるのかといぶかし気に視線をやると、男は笑みを深くした。
次の稽古を始めなければならない。勇者も王子も多忙で、特に前者は世界を回っているのだから教えを乞うなら今しかないのだ。
この国の王子たるパトゥリオは傲慢であったが、それでいて聡明で愛情深かった。国を守るために自らの更なる名誉を求め、民に自立を促し、父王が王位を退くのを待つ。パトゥリオは力が欲しかった。自分だけの力が。あの悪魔のものではない、自分の。
「貴方にはペンの方が似合いますよ」
「ペンも、剣も…両方、欲しいのです」
「国のためにですか?」
「それ……い、以外に…何がありましょう」
勇者が羨ましい。息が乱れ膝をつきもう声も上げられないパトゥリオに対し勇者は微笑ましそうに…それこそ遊んでいるかのように木の剣を振るっていた。
そんな勇者だがパトゥリオの目でもわかることがある。彼の戦い方はおよそ剣士のそれではない。20歳を迎え妻を持つ直前まで、谷を越えた先の…それでもこの国から一番近い国家から騎士をわざわざ教師役に招いていたのだから確かだ。
安定感と速さが無い。とにかく力で押すだけのお粗末なものだ。体力はあるだろうが、勝てているのはパトゥリオが弱いからだと断言できてしまう。
才能がないのはそちらの方だと言おうにも息が乱れ何も言えなかった。弱弱しく軽い切っ先を突き付けようとしても強烈な力で叩き落される。
「俺が、ゆう、しゃで、あれば」
”俺が勇者であればよかったのに。”
なんとか一矢報いようと振りかぶった拳を受け止められて、さぞや恨めしい顔をしてしまったのだろう。
もしくは、勇者には心のうちまで聞こえているか。
「羨ましいですか。妬ましいですか。いやまったく、王子は向上心の塊でいらっしなる。私なんぞとは大違いだ」
歪んだ笑みだ。古代文字が怒りに呼応するかのようにうごめいている。
向けられる殺気に息ができない。握っているのは木の剣だというのに殺されると恐怖する。
そして自分はまた言葉を間違えたと気づいた。なぜいつもこうなのだ。違う、ただ力が欲しいだけ。民を守るのが自分の役目なのだから苦しむのは自分だけでいいはずで、ならば勇者という責だって背負ってやろうと。そう思って。
「私は勇者になるまで学校に通って勉強ばかりの生活を送っていました。課題を終えてひと眠りする時間がなにより好きで、大切で…。
勇者になったあの日。先代が亡くなられ勇者の証が空に輝き…私の中に落ちてきた日。私の身体は尽きぬ力の器になったのです。剣なんて触れたことすらなかったのに」
吐き捨てるような声だった。なりたくてなったわけではないと言いたいのだとパトゥリオは理解する。哀れだ、ひたすらに。
この世で魔物を生み出さないのは”人でないもの”と”勇者”のみで、つまり、およそ勇者だけは心を棄てられない。どんな憎悪も恐怖も絶望も抱えて生きねばならない。地獄のような苦しみだろうに、千年前の王族達は勇者をそう定めた。
パトゥリオが息を整えるのを勇者は昏く虚な瞳で見つめている。勇者の力であれば首に力を込めただけで死ぬだろう。肉体の状態を無視した限界の無い怪力だ。
言葉を紡ごうと胸に手を添える。日差しの暖かさと眩しさが邪魔だとさえ思えるほど苦しく沈黙が続いていた。
「俺は、勇者に苦しんでほしくない。馬鹿だとはわかっている。けれど世界を変えたい。一人が苦しんで死にそうになっているのにそれを受け入れるのは、おかしいじゃないか。
…勇者殿、申し訳ありませんでした。俺は貴方を傷つけてしまった」
鐘の音が12時を告げた。
うっとうしいほどに晴れ晴れとした空に少し強く髪を撫でていく風。城下町に暮らす人々の匂い。パトゥリオにとっては当たり前で退屈な、勇者にとっては欲しくて欲しくてたまらない日常。
勇者はパトゥリオよりも深く頭を下げて剣を置いた。証に隠されていてもわかるほどに涙で頬が濡れている。
どうしてこんな男が選ばれたのだろう。その印象は勇者が次の旅に出て、素晴らしい戦果を挙げたと聞いても変わることはなかった。
…115代目の勇者が死んだのはそれから一年後だ。その間に国が滅び民は散り散りとなり、パトゥリオの世界を変えるという夢が潰えても彼は変わらず戦い続けていた。そうするしかなかったから。
空に浮かぶ勇者の証に絶望し膝をついたパトゥリオはただ声を押し殺し涙を流す。背を撫でる妻、初めてみる父の涙に不安げな我が子。勇者が欲しいものはすべてパトゥリオの傍らにあった。
あの哀れな男が最期に見たのは、どんな夢だったのだろう。
結局すべてどうしようもないことだった。何かに依存して成り立っている世界がまともなわけがない。
王は狂っていて民は諦めていた。パトゥリオは父王を憎んでいる。今もどこかで息をしているあの男を今も変わらず憎んでいる。奴が善政に努めていれば魔物は生まれなかった。
魔物は成長し王を殺そうとやってきて、逃げ出した民にも気づかず徘徊する魔物によって国は瘴気に包まれた。
自分に何ができたのかと今更な後悔の波に呑み込まれる。妻の涙も子供の声も届かない。
誰もが晴れ晴れとした空に浮かび上がった証が、流星のように落ちていくのを見上げて安堵の息を吐いていた。
「大嫌いだ。こんな世界、ぜんぶ嫌いだ」
そうして一人の男の折れかけていた心はあっさりと潰れてしまった。自分にできることなどないと目を閉じて、膨れ上がった憎悪と後悔を切り離す。
黒いもやの中に怪しく輝く一つ目から涙を流す魔物が野原へ駆けて行った。今はまだ小さな魔物の行方は誰も知らない。
ゴーン、ゴーン…。
鐘の音がする。故郷のものとは比べ物にならないくらい鈍い音だけれど、やがて何も思わなくなる。
気づいた時にはパトゥリオの心はとても軽くなっていて、なぜあんなに苦しんでいたのかわからず苦笑する。それよりも妻と子供に心配をかけてしまったことが気がかりだった。
愛おしい二人を抱きしめてパトゥリオはいつものように笑ってみせる。
あの宰相もこんな風に笑っていた気がして少し嫌な気持ちになった。…ああ、だとすれば、あの悪魔は人が愛おしかったのだろうか。
ふと思い出した二匹の悪魔が今どこにいるのか知るすべはない。悪魔に死はないのだから、また別の人間に契約を持ちかけていることだろう。元とはいえ婚約者だった彼女も次の人間の元では幸せになってほしい。
ゴーン、ゴーン…。
こんなに良い気分になれるならもっと早くに心の切り離しをするべきだったなあ。
仕方がない悲劇たち しらとり(くゆらせたまへ) @dousite
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