仕方がない悲劇たち
しらとり(くゆらせたまへ)
1.今は遥か故郷の残滓
「わたくしには手を差し伸べられるだけの価値がなかった。ただそれだけのことです」
記憶の箱の片隅にいつまでも置かれた女の最初で最後の微笑みが優しい思い出に埋もれて消えていく。
磨きあげた冠をしまい込み厳重に鍵をかけた。大切にするべき品であるとわかっていても、ヤオはひどく気分が悪くなって慰めにその荒れた手の皮を撫でる。
もう十年前の話。ヤオは小国の姫で、それこそ夢に夢見るような少女だった。115代目の勇者に会った時など誰よりも質の良いドレスに手汗のシミができるほど興奮してはしたなく質問を繰り返したものだ。なにせ勇者は王族と婚姻を結ぶことが多かったので、もしかしたら未来の旦那様なのではと馬鹿みたいに考えていた。
故郷が滅び、表向き死んだことになって辺境に逃げてきたヤオと父は細々と暮らしている。ヤオは猟師、父は農業。故郷では考えられなかった暮らしだった。
あの時の勇者は死んでしまった。ある日、木にもたれかかったまま眠るように死んでいたという。
そういえば彼は眠るのが趣味だと言っていた。「このまま目が覚めなければ」と思いながら目を閉じる瞬間がいっとう好きで、そのために使命を果たしていると。
あの時は勇者なのになんて危ういのだろうと思ったけれど、今になってあの気持ちがわかるような気がする。彼は大人で、疲れていて、休みたかったのだ。
勇者とは何だろう。勇者が魔物を救う存在であるとして、勇者を救うのは誰だろう。
幼い頃の自分が彼に問うた。「何のために戦うのですか?」
彼が薄い笑みを張り付けて答える。「世界のためですよ」
夜が来るたび気分が沈む。手の皮は相変わらず硬くて乾燥している。
ヤオの故郷はすでにない。もうどこにもありはしない。
この冠を戴く日だって、二度と。
気分はまだ良くならない。とても嫌な感じがしていた。
ヤオ、と声がして父がいきなり部屋の扉を開く。気分はさらに悪くなる。頭さえ痛みだし、身体が震えた。
あのいつまでも姿の変わらぬ宰相から渡されたという首飾りを不安げに握りしめ、父は声を絞り出した。
「116代目が死んだ」
一気に力が抜けて椅子から床へ身体が投げ出された。がたがたと震える脚に止まらない汗。必死に言葉の意味を理解しようとして、しかし余計に震えが大きくなるばかりだ。
優しい父はヤオの背を撫で、落ち着いてくれるように気を配っている。
優しく善良で…愚かしいほどに無垢だった父。いつだって人を思いやれる正しき人。
”お父様”、絞り出した声は耳を澄ませねば届かないほどにか細い。
「116代目はまだ15歳だった。幼いながらも使命のために戦い、死んだ」
「嘘よ」
そんなものは嘘だとヤオは確信をもって拳を握った。それは勇者への侮辱ではなく、勇者を”死なせた”連中への罵倒だった。
「勇者は使命ではなく人々に殺された。あの方のように…私たちのように」
今も鮮明に思い出せる。ひたすらにきれいで優しい日々のことを。
十二時の鐘が鳴る。人々は仕事をいったん休み昼食をとりながらお喋りをして、子供たちは学校の中庭で遊んでいた。
小さな国は皆がきょうだいのようなものだった。その距離感を嫌う者はとうに国を出ているので、残ったのはそれを受け入れられる者たちだ。
王族も平民も身分の差があれど互いを信じ愛していた。昔は荒れていたらしいけれど、十を迎えたヤオはもちろん成人したばかりの兄王子ですらそのことを紙面上でしか知らなかった。それほどまでに国は変わったのだ。あの常に笑みを浮かべた悪魔の如くうつくしい宰相の手腕で。
鐘の音が遠く響いている。
くるくると風車が回っていた。誰が作ったものなのか窓際の花瓶の隣に置いてあったので、偶然見つけたヤオの手に渡り持ち主を探すように活発に回っている。
”姫様”
”ああ、ドゥベルダ!もしかしてこれは貴方の持ち物?”
”ええその通りです。ご子息様に差し上げようかと思いまして”
”きっと喜ぶわ。こんなにきれいでよく回るものは初めて見たから”
生まれたばかりの甥っ子は動くものが好きだ。だからきっと風車を気に入るだろう。
相変わらず眉を動かしたり目を細める以外の動作をしない、次期宰相と名高いドゥベルダの父譲りの顔を少し怖いと思いながらも、ドゥベルダの忠誠心をよく知っているヤオは笑みを深くした。
兄王子が生まれた時期と同じくして、宰相は娘を城に連れてきた。宰相の友でもあった王はいつの間に妻を娶ったのかとからかいながらもあっさりと娘を受け入れて、自分の子の如く可愛がったという。ヤオが物心つく前に娘…ドゥベルダは宰相補佐として皆をまとめ上げていたので、その頃にはもう贔屓になるとして線引きを徹底していたが。
ドゥベルダはほんとうに兄王子によく尽くしている。そのために生まれたのだと言われた時は納得できたが、それ以上のものが…たとえば恋愛感情が…あるのではとヤオは思っていた。現に二人は七年前まで婚約関係にあったのだ。もちろん今それを持ち出すことは義姉への侮辱に他ならない。ゆえにこの推測は夢に夢見る年ごろのヤオだけの秘密だ。
今更な話。あの推測は当たっていたのではと思う。もっとも、ドゥベルダは否定するだろうし”兄王子を愛しているのか”なんて聞けるほど馬鹿ではない。
「勇者なんて生み出さなければよかった。
私たちには決定する権利があったのに、何も知ろうとせず…勇者というただの人間に全てを押し付けたんだ」
場面が切り替わる。その間の出来事は昔のヤオからすれば当たり前すぎて、ただ通り過ぎるばかりだ。
勇者様、とヤオは遠く旅をしている彼に来るはずのない助けを乞い涙を流す。泣いている暇はない、と義姉がヤオを立たせ走らせた。
姉様はどうするの…そう問いかけるより早くドゥベルダが追い付いてきて、軽々とヤオを担ぎ先ほどより早く走り出す。
姉様、姉様!どうして置いて行くのかとドゥベルダに叫ぶけれど、相変わらず彼女の顔には汗すら浮かばない。
「どうしようもないことだよ。決めるのが遅すぎた。
私は愚かな王だったから…間違う以前に決めることすらできなかった」
国が魔物に襲われた。群れをなしてやってきた彼らは一目散に城を破壊し、謁見室を占拠する。
魔物とは人の心だ。恐怖、絶望、怒り、悲しみ。そういった感情を人は健全に生きるために切り離し棄てる。それが当たり前で、この世界の人々はその行為を制御できない。
魔物を殺す…すなわち人の負の心を救うことができるのが勇者だった。何千年と繰り返してきた世界の理の一部。
勇者なしに魔物は救えない。遠くに逃げようにも転移魔法といった大掛かりなものを発動するには時間がかかる。つまり、どうすることもできやしない。
”姫様、貴方を逃がします。どうか生きてください”
”みんなはどうなるの”
”私の部下が逃がします”
”貴方は?これからどうするの”
轟音。無駄のない動作で秘密裏に作られた通路のカギを開くドゥベルダは、なんてことないように答えた。
”魔物には敵いませんし、死ぬでしょうね。現在も民を逃がしていますが魔物は国を荒らす。そうしたら住むこともできない。せめてもの抵抗に戦いますが私ではどうにも”
「おかしいじゃない。ねえ、魔物だって少なくないのにどうしてそれを救えるのは勇者だけなの?
王族には決定権がある。勇者という理を作ったのも、人の心を切り離す現象も、昔の王族が決定して生み出したものでしょう。
今からではほんとうに駄目なの?この血を使って理を変えることは…」
長い長い通路を抜けてたどり着いた森。再会できたのは父だけで、兄夫婦家族の行方は知らない。
あのドゥベルダ…そして宰相が嘘をつくわけがない。だとすれば彼らは生きている。けれど、あっという間に国は瘴気に包まれ立ち入ることができず、勇者が討伐に訪れた後に父の静止を振り切って覗いた町は見る影もなかった。
父は国の再興を考えたが、父の手腕では無理に等しい。国では誰もが目をそらしていた事実。あの国は宰相とその娘によって繁栄していたという、現実。――二匹の悪魔による、つかの間の繁栄。
失って思い知らされるのは無力であるということ。もうすべてが遅いのだということ。
「我々の血には何の価値もないよ」
15歳の若い命が散っていった。そうして次の勇者が選ばれる。次の勇者を救うことは誰にできるだろう。
王でもない老人と姫でもない女。
みじめで無力な、ただの人、
「……ああ…どうして…」
”わたくしには手を差し伸べられるだけの価値がなかった。ただそれだけのことです”
どうして婚約を解消したの?…幼く不躾な質問に答えたあのうつくしい悪魔の微笑みを思い出す。
人でないなんて関係なかった。幼いヤオに合わせられた目線も、回る風車も、兄王子への忠義も、すべて真実なのだ。
悪いのは目をそらした自分たちで、彼らに甘えていなければ…もっと自分で考えて結論を出していれば、115代目はもう少しこの国で安息を得られていたかもしれないし、116代目は普通の人として生きていただろう。
眠りたい。そうしてもう目が覚めなければいいのに。
けれど、どうせ朝になれば目を覚まして当たり前のように狩りに出るだろう。
いつかこの悲しみを忘れてどうしようもないことだからと諦める。それがとても嫌なのに、やはりヤオにはどうすることもできないのだった。
――轟音。黒いもや。悪魔よりおぞましいものたち。
「お父さん。悪魔も死ぬんですね」
「お前は半分ですから」
それは初めて聞いた。どうやら私は人との合いの子だったらしい。母はどうしたとか、どうせお父さんには無駄な質問なのでやめておこう。
「お前の母は可愛い人でしたよ。花の似合う未亡人です」
「聞きたくありませんでしたそれ」
「ちゃんと真っ当に口説き落としたんですよ?」
「……ああ、そう、ですか」
魔物の方が強いなんて反則だ。民を逃がすためとはいえ本当は戦いたくなどなかった。死を回避せねば先は続かないからだ。
無傷のお父さんが憎らしい。本物の悪魔というものは魔物を救えないが魔物に殺されることもないらしい。
お父さんは私の頭を撫でて、よくやったと褒めている。人をすぐ褒める人…悪魔だったけれど、最期まで変わらないのだな。
「僕の可愛い娘。頑張りましたね。辛かったでしょう」
「……いえ、ぜんぜん」
だって、人が好きだったから。…パトゥリオ様には好かれなかったけれど。
「兄王子を恨んではいけません。彼は言葉は悪かったけれど賢くて誰よりも…王よりも正しかった」
「は、い」
悪魔と婚約させる王が悪いのですよ、とお父さんはくすくす笑っている。
パトゥリオ様は私たちを嫌っていた。私たちに依存する民のことも、もしかしたら嫌っていたかもしれない。
私はお父さんの子供だからお父さんの言いつけを守って国に仕えていた。それは人からすれば間違いで、良いことではなかったのだろう。
私たちはまさしく悪魔で人を惑わし破滅させる存在だ。
王を、彼らを…幸せにしたかったのに。
「ごめんね。…僕たちは誤ってしまった」
「………、」
お父さん、もう何も、聞こえないの。
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