第7話:吸血鬼の姫

 翌日、日没後のBARカゲロウへ、OPEN直前にツバキが血相を変えて駆け込んできた。


「何したんですかあんたっ!」


 開口一番、ツバキは店内のカウンター席で気だるげに頬杖をついていたアイザックに掴みかかる。

「なになに、どしたの?」

「あんた神父に何したんですかっ!」

「おいおい落ち着け、神父さんがどうした?」

 アイザックが無抵抗に揺さぶられるがままなので、店内にいたルークとオスカーが間に入ってどうどうとツバキを宥めた。

 何があったのかととりあえず事情を聴くと、少し冷静さを取り戻したのかツバキが手短に語った。

「……協会に入れてもらえない?」

「…………正確には、いつもと違う結界が張られていて、中に入れないんです」

 ユリウスがいる森の奥の協会には普段、吸血鬼除けの結界が張り巡らされている。

 本来なら半吸血鬼のツバキも中に入ることはできないのだが、結界を張ったユリウス本人が通行許可しているので、自由に出入りができる。

 ところが、昨日夜の共闘を終えて戻ろうとしたところ、結界に拒まれたという。

「えっ、昨夜から? 昼間どしたの?」

「森にある洞穴で野宿しましたよ」

「ウチにくればよかったのに」

「戻るのが面倒で」

 一段と低い声音で言いながら、ツバキはイライラした様子でカウンターを指で叩き始める。

「あの人、ほかに連絡手段ないし」

「電話とかないんだ」

「中にいるはずなのに、声かけても応答がなくて」

「声が聞こえなかったとか」

「あの人に何かあったとしたら、原因はあんたしかいない!!」

 再びアイザックに詰め寄るツバキを、相槌を打っていたルークが慌てて抑える。

「……何で原因が俺だと?」

 憤るツバキに対して、まったくどうでもよさそうな態度でアイザックが気だるげに問う。

「昨日最後に一緒にいたのあんたでしょうが!」

 あんた以外に誰がいる、と間髪入れずに目を怒らせたツバキを、オスカーが襟首をつかんで止める。

「落ち着け落ち着け」

「わかった、俺が行ってくるよ! 俺、人間だから入れるでしょ?」

 はいはい、と手を上げて主張するルークの提案に、ツバキが大人しくなる。

「ぶっ壊して入ればいいじゃねぇか」

「アイザ、おまえはちょっと黙っとけ」

 めんどくさそうに呟くアイザックを、オスカーが有無を言わさぬ笑顔で黙らせた。

「よしっ、そうと決まればすぐ行こう! あっ、でも俺、この前神父さんに協会来るのはこれで最後にするって宣言しちゃったんだけど、大丈夫かな」

「俺が特別に許可します」

 なんだかんだで心配で仕方がないのだろう、浮かない表情のツバキの背を押してルークがテンション高く店を出ていく。

「まぁ、大丈夫だとは思うけど……夜の森は危ないから、念のためジョシュアも連れて行け」

「りょーかーい」

 足早に出ていく二人の背中に、オスカーが声をかけると同時に、カランとドアベルを響かせて扉が閉まる。

「ハァー……あの子は本当、神父さんのことになると、冷静さを失うというか、なんというか……」

 嵐が去ったように静けさを取り戻した店内で、オスカーは胡乱気な眼差しをアイザックへ向けた。

「……で、アイザ。おまえ、何した?」

 オスカーの言葉に、アイザックの灯火色の眼差しが一瞬ゆらりと揺れた。

「……何もしてねぇよ」

 おまえも俺を疑ってるのかと、うんざりとした視線を寄こしてきたアイザックに、オスカーは慈悲もなく頷いて見せる。

「おまえが、自覚なくなんかやらかしてる可能性あるし」

 なにより何もしてないといいながら、ほんのわずかに泳いだ視線が、昨夜何かあったことを雄弁に語っている。

 オスカーが問い詰めようとした時、ふいに店の奥が騒がしくなった。

 店の奥にあるのは、裏口と陽炎一族の居住場所でもある地下室に続く入口があるだけなのだが。

 慌ただしい気配を感じ取ったオスカーが何事だ、と振り向くのと、メイド服姿の女吸血鬼――ソフィアが血相を変えて駆け込んでくるのが同時だった。


「マスター! マスター!! そこに、シュバリエはいらっしゃる!?」


 なんだか今日は駆け込み寺みたいだなと、内心で思いつつオスカーは取り乱した様子の相手をまずは落ち着かせる。

「いるけど。どうした、ソフィア」

「お、お嬢様が、どこにもいらっしゃらないんですー!!」

「なんだって?」

 言った傍からおいおいと泣き崩れたソフィアに、オスカーも眉根を寄せる。

 陽炎一族には、一族の中では最も若いが同時に最も位の高い高貴な存在、王族の血筋を引く吸血鬼の少女がいる。本来ならお姫様と呼ぶべきところを、本人の希望は名前の呼び捨てであったが、さすがにそれは無理と、陽炎一族の一員はみなお嬢様と呼んでいる。陽炎一族は、彼女のために存在する一族でもあり、若いとはいえ彼女は実質一族の長ともいえる立場でもある。

 ソフィアは、彼女の侍女のような存在だ。

「いつから?」

「昨夜、どこかに出かけられたようで、今に至るまで戻ってきていないようですの……」

「何か手がかりは?」

「こちらの置手紙が」

 二つに折りたたまれた花柄の便せんには、かわいらしい字で「わたしの騎士が人に迷惑をかけたときいたので、あやまってきます」と書いてあった。

 涙を流したソフィアが、カウンター席にいるアイザックに掴みかかって揺さぶる。

「シュバリエ! 貴方という方はっ……! それでも姫様の騎士シュバリエですかっ!! 貴方、一体どこのどなたに何をしたんですの!? その方の元にお嬢様がいらっしゃるんですか!?」

 なんだろうつい先ほど見たような光景だな、とオスカーは今度はアイザックを助けなかった。

 ちなみに彼女が呼ぶシュバリエというのは、アイザックのことであり、それはアイザックが王族の血を引くお姫様の両親の騎士であったことが由来である。

「もし、もしもっ……お嬢様の身に、なにかあったら、わたくしっ……! 貴方を殺しますっ……!」

「おい、やめろやめろ。それより、状況を説明してくれ。地下は探したのか?」

 泣きながら物騒な発言をするソフィアを、さすがにオスカーは止めた。

 我に返ったソフィアは、昨夜から今に至るまで捜索していた状況を説明する。

 陽炎一族の居住場所でもある店の地下には、ウィスティリアの町の様々なところに繋がる出入り口がある。

 昨夜、地上で起こっていた囮作戦を知らなかったお嬢様がソフィアの目を盗んでどこかの出入り口から出て行ったきり日が昇るまでに戻らず、夜が明けてしまったためソフィアも地上の捜索ができず、その間地下室をくまなく探したが見つからなかったとのこと。

 唯一の手掛かりともいえる置手紙の詳細を尋ねるべく、BARに顔を出したとのことだった。

「あのお転婆から、目を離したおまえが悪い」

「いいから貴方は、どこのどなたにご迷惑をおかけしたのか速やかに吐きなさいっー!!」

 話を聞き終え、しれっと言い放ったアイザックの首をソフィアが強力で締め始めたのを、オスカーがやめなさい、と止める。

「あー……もう、これは、どう考えても……あそこか?」

 アイザックが迷惑をかけている人間といえば、もう心当たりは一人しかいないのだが。

「どこ!? どこですのマスター!?」

 思わせぶりなオスカーの言葉に、ソフィアが目を見開いて問い詰めるが、アイザックは眉を顰める。

「あ? あそこに繋がる出入口なんかねぇだろ」

「そうなんだよなぁ……」

「森に入って行ったってんなら、俺が気づかないはずがねぇ」

「そもそも町に結界張ってたから、出られるはずがないしなぁ」

「だから、その場所はどこなんですのっ!?」

 しびれを切らしたソフィアの金切り声に、オスカーとアイザックは顔を見合わせた。


 ***


 ルークの足に合わせていたら森の奥の協会まで半日もかかるので、ツバキに担がれるようにして森の中を吸血鬼の足で駆け抜けた二人は、たどり着いた協会の前で立ち尽くしていた。

「うわぁ、ダメだこれ。俺も入れないみたい」

 手がびりびりする~と、手を伸ばした先から見えない壁に弾かれたルークは困ったようにツバキを見た。

 何故か人間であるルークまでも結界に弾かれた、と考えるとこの結界は吸血鬼除けどころか協会自体を守る防壁に近いものということだ。

「おーい、お~い、神父さ~ん、こんばんは~!」

 思考に沈んだツバキの隣では、ルークが声を張り上げ始めた。

「神父さ~ん、お~い、ツバキさんが入れなくて困ってるみたいだよー!」

 しばらく叫んでいたルークだが、残念ながらなんの返答も変化もない。

 聞こえてないのかな、と困ったように眉根を下げるルークに、二人の後ろに佇むジョシュアがボソリと呟く。

「……寝てんじゃねぇの?」

「ない。あの人寝ないから」

 ジョシュアの呟きに、ツバキが舌打ちと共に吐き捨てる。

「はぁ? 人間ってのは、寝ないと生きていけない生き物だろ?」

 まぁ確かにあの人眼鏡で隠してるけど隈すごいよな、と思い出したジョシュアの言葉を受けて、途端ツバキの目が据わる。

「寝てないんじゃないかってくらい、眠りが浅いんだよあの人。……半径五メートル以内に他人がいたら絶対寝ないし、そうじゃなくても気配がしたら目を覚ますし、針が落ちた音ですら目を覚ますし、そもそもベッドで寝ないし、窓下で座りながら寝るし」

 そろそろ睡眠薬でも盛って無理やりにでも寝かせてやろうと、ツバキは本気で考えている。

「おーい、神父さーん! 神父さーん! ツバキさんが、だいぶメンタルヤバそうだから、入れてあげてー! 俺たちはすく帰るから、ツバキさんだけでも入れてあげてー!! 彼、また野宿になっちゃうよー!!」

 これはなんとかしないとやばい、と思ったルークは声の限りに呼びかけ叫ぶ。

「おいっ! こっちの声が聞こえてんなら、答えろよっ! あんたの連れが困ってんだぞっ!」

 見かねたのか、ジョシュアも声を張り上げ参戦してきた。

「えぇ~ジョシュア、言い方こわーい」

「うるせぇな! 聞こえりゃいんだろ!」

 それでもやっぱりダメかと諦めかけた時、必死の思いが届いたのか、はたまたやかましく叫び続けたおかげか、ふいに目の前の結界にゆらりと変化が現れた。

 ぐにゃりと目の前が歪んだかと思うと、入っていいよとでもいうように、結界が開き小さな入口を作る。

「えっ、と……?」

「オイ、なんか開いたぞ」

 ルークとジョシュアがツバキを振り返ろうとした刹那、二人の脳内に直接声が響いた。


 ――ルーク、ジョシュア、静かにして


 鈴を転がす様な、聞き覚えのある少女の声に、ルークとジョシュアは目を丸くする。

「えっ、お嬢?」

「なっ、なんで、お、お嬢様の声が……」

 幻聴か、ときょろきょろ辺りを見渡す二人を、唯一声が聞こえなかったツバキは怪訝そうな顔をして見やったが、二人を置いてさっさと中に入った。

「おっ、おいこら! 待てよ!」

「えっ、入っていいの? これ俺たちも入っていいの?」

 ジョシュアとルークも足を踏み入れるのと同時に、背後で結界が再び閉じた。

 騒がしい二人を無視してツバキは、一目散にユリウスの部屋を目指した。

「……神父っ!」

 駆け付けた先、部屋の中から聞こえてきた小さな歌声に、ツバキは思わず足を止めた。


 ――Twinkle, twinkle, little star

 ――How I wonder what you are.


 寝台に横たわるユリウスと、その枕元に座り、優しく彼の白銀の髪を撫でながら子守歌を歌う、月白色の長い髪の少女の姿が目に入った。


 ――Up above the world so high.

 ――Like a diamond in the sky.


 寝台に腰かけそのまま寝落ちてしまったかのようなユリウスと、子どもをあやす母親のように慈愛に満ちた眼差しで静かに歌う小さな少女。

 その様は、どこか現実離れして見えて、まるで一つの絵画のようにも見えた。


 ――Twinkle, twinkle, littler

 ――How I wonder what you are.


 あんな至近距離に人がいても眠っているユリウスにも驚いたが、すぐ傍で子守唄を口ずさむ少女が真珠のごとき涙を流していることにも驚いて、ツバキは部屋に入るのを一瞬躊躇ってしまった。

「……どういう状況だよ」

「おいっ! 置いてくんじゃねぇよ!」

「えっ、あっれ、お嬢? なんでここにいるの?」

 追いついてきたジョシュアとルークが、立ち尽くしているツバキの後ろから覗き込むように部屋を見渡し、少女の姿を目にして驚きの声を上げた。

「ジョシュア、ルーク、うるさい」

 歌うのをやめた少女の深紅の瞳が、ジョシュアとルークに注がれる。

 その眼差しを見つめた時、ツバキの中の吸血鬼の細胞がざわりと総毛だった。彼女に逆らってはいけない、いや逆らうことは許されないと吸血鬼の本能が告げてくる。

「……知り合い、デスカ」

 このガキ誰だ説明しろと言いたげな半眼で、ジョシュアとルークを振り返ったツバキに、状況を把握できていない二人も目を瞬かせながら少女の紹介をする。

 月白色の髪に深紅の瞳の少女は、オリビアと名乗った。

「お嬢、彼はね、その神父さんの付き人というか、護衛? えーと……」

 しどろもどろなルークの説明を継いで、ツバキと名乗れば、オリビアの深紅の眼差しがじっと見上げてくる。

「偽りの名前に覚える価値はない」

 淡々と告げられた言葉に、ツバキは苦々しげな表情になる。

 確かにツバキというのは、コードネームであって、本名ではない。

 祓魔師として生きる以上、吸血鬼に名前を知られることは、命を危険に晒すことに等しい。名前というものは、個人を特定するものであり、名前による縛りの効果は強大で、最悪相手の意のままに操られ利用されるリスクが発生する。

 現状、やっかいな大物を敵に回している以上、こちらの弱点になりかねない情報を無関係の者であっても口にすることはできない。

「……悪いが、名は明かせない」

 結局そう答えるしかないツバキに、この人も同じことを言ったわ、とオリビアが眠るユリウスを見つめて呟いた。

 野薔薇にいた時はリコリス、今はユリウスと名乗ってはいるが、神父の本名は、ツバキも知らない。

 二人とも名前を明かせない事情がある、ということはオリビアも薄々察してくれたようだ。

 彼女は、陽炎一族の中では最も若いが同時に最も位の高い高貴な存在、王族の血筋を引く吸血鬼の姫である、とルークが説明してくれた。

「……で、なんでその姫さんが、こんなところにいるんデスカ」

「わたしはもう、姫じゃない。……わたしの騎士シュバリエが、この人にとっても迷惑かけてるって聞いたから。……謝ろうと思って」

「……スミマセン、何言ってるか説明してクダサイ」

 先ほどから何か荒ぶる感情を抑えているのか、カタコトになるツバキに、ルークが解説役を務める。

「えっと、彼女が王族のお姫様だった時代、アイザックが彼女の両親の騎士だったらしくて」

 まとめるとつまりは、ユリウスに対する彼女の騎士アイザックの非礼を詫びるために主である彼女がわざわざこの教会までやってきたと。

「えっ、でもお嬢、どうやってここまで来たの? 一人? ソフィアさんは?」

「一人で来た。カゲロウの地下室。ここの井戸と繋がってたから」

 確かに、この教会の裏の庭には枯れ井戸がある。

 だが、それがどこかに繋がっているなど、ツバキもおそらくユリウスも知らなかった。

 しかしこれは、ルークとジョシュアも初耳だったようで、非難の眼差しを向けるツバキに二人ともブンブンと首を横に振ってみせた。

「……この人、もうずっとあんまり眠れていないみたい。とても疲れている。だから、子守歌を歌ってあげてた」

 昨夜ここでユリウスと対面したオリビアは彼と挨拶をかわし、当初の目的通りおのれの騎士の非礼を詫びた後、少し話をしようとしたが、彼がとても疲れていた様子だったので眠ってもらおうと思ってと語った。

 寝ていいと言われたところで、素直に眠るユリウスではない。彼女が、暗示のようなもので強引に眠らせている状態らしい。ツバキとしてもそろそろ睡眠薬でも盛ろうと思っていたところなので、そこはありがたく、よくやったと言いたい。

 そのまま寝かせて立ち去ろうとしたらしいが、オリビアが傍を離れた瞬間彼が目覚めそうな気配を感じて、ついそのまま傍にい続けて、現在にまで至ったらしい。

「……もう少し、寝かせてあげたくて」

 結界を張っていたのもオリビアで、昨夜ツバキが中に入れなかったのは、半吸血鬼のツバキが敵か味方かわからなかったからだという。

 ルークとジョシュアの声が聞こえて、あまりにも騒々しいので中に招いたとのことだった。

 とりあえずこれは至急マスターに知らせないといけない案件だな、と察したルークは、ジョシュアに報告に走らせた。

 しばらくしたらアイザックか誰かが姫の迎えに来てくれるだろうと思い、ルークはオリビアに向き直る。

「さっきは、どうして泣いてたの?」

「泣いてない。あれは、この人の涙」

 小さく首を横に振りながら、オリビアは憂い顔で瞳を伏せる。

 涙に濡れた長いまつ毛がふるりと震え、傍で眠るユリウスを見つめる。

「……とても悲しい。この人の中は、悲しみでいっぱい。今にも溢れて溺れてしまいそう」

 オリビアの言葉に、ツバキは胸を突かれた。

 瞼を閉じた神父の青白い顔、傍にこれだけ他人がいるのに目を覚ます様子はない。

 久しぶりどころか初めて見るかもしれない、ユリウスの無防備な寝顔に、ツバキは知らず拳を握り締めた。

 その拳へそっと、小さな手が添えられる。


「この人が、まだ溺れないでいられるのは、あなたのおかげなのね」


 紡がれたオリビアの声に、その手を振り払うように反射的に腕を引っ込めたツバキは歪んだような笑みを浮かべる。

「は? なに馬鹿なこと言って……」

 オリビアの深紅の眼差しが、じっとツバキを見上げてくる。

 全てを見透かす様なその視線に耐えられなくて、ツバキは顔を背けた。


「あなたがいてくれるから、この人はまだ立っていられる」


 不意を突くようなオリビアの言葉に、息を呑んだツバキは不覚にも泣きたくなった。


 ***


 迎えが来ことを察知したオリビアは、傍にいてあげて、とツバキに言い残して、ルークとともに部屋を出た。

 協会を覆う結界は、ツバキが引き継いで張りなおした。

 二人が協会を出ると、ちょうど森の入口で、アイザックが気だるげに待ち構えていた。

 ジョシュアの知らせを受けて、オリビアの迎えに来てくれたのだろう。

「おっ、早いね、お迎えご苦労~!」

 おどけた口調で声を上げたルークの頭を、アイザックは無言で叩いた。

 痛った、と頭を押さえてしゃがみ込むルークを無視して、アイザックはオリビアのワンピースの襟をつまみ上げると肩に乗せて歩き出す。

「……勝手に一人で動くな、お転婆」

「あの人に迷惑をかけた、アイザックが悪いのよ」

 しれっと言い返してくるオリビアを見上げて、アイザックはふと目を丸くした。

「なんだ、おまえ。泣いたのか」

「泣いてない」

 些細な変化にもすぐ気が付くおのれの騎士の観察眼に、オリビアは見ないでとつっけんどんに突き放す。

「あの神父に泣かされたか」

 見透かしたようなアイザックの言葉に、オリビアは一瞬ぐっと唇をかみしめ、彼の夜色の髪に顔をうずめた。

「視るつもりは、なかったの……ごめんなさい」

 ただ安心して眠ってほしくて、子守唄を歌って、髪を撫でただけだった。

 それだけで。

「……あの人の心が、流れ込んできて、止められなかった」

「やっぱ泣いたんじゃねぇか」

「わたしは、泣いていない。あれは、泣けないあの人の涙」

 流せない涙が、溜まって溢れて溺れそうになった。

 悲しくて、辛くて、苦しくて、背負っているものが大きすぎて、重すぎて、押しつぶされないように気を張るのに精一杯で、心を休める余裕がない。

「……あの人は、とても傷ついてる。ひびがたくさん、はいってるみたい、隙間がたくさん、とてもぼろぼろ。とても痛いのに、痛いこともわからない」

 それでも彼が折れずに立っているのは、誰よりも強い力と強靭な精神力を持っているからで。

 ぽつりぽつりと呟くオリビアの言葉の羅列に、アイザックはただ、だろうな、とだけ呟く。

「あの人は、とても強い人。でも……人間は、脆い」

 脆くて弱い生き物だ。

「……ずいぶん気にかけてんな。初対面だろ」

 しかも人間で神父だぞ、とアイザックがからかうように言ってやれば、オリビアがきょとんと純粋無垢な眼差しを向けてきた。

「だって……アイザックが気に入った人間だから」

 どんな人か気になって、と呟いたオリビアに、アイザックの方が驚いて目を丸くする。

 このお嬢様が単独行動を起こした原因はやはり自分にあったようだ、とアイザックは内心で苦笑した。

 ふいに、わたしの騎士シュバリエ、と小さく呼びかけてきたオリビアが、ぎゅっとアイザックの頭を抱きしめる。

「……アイツが視えたの」

 オリビアにとって、不吉な存在、不幸の象徴。

 金髪に赤い瞳の吸血鬼、ノエル・ヴァン=シュタイン公爵。

 彼によってもたらされた、二百年前の悲劇は、オリビアと、そしてアイザックの心に未だに癒えぬ深い傷跡を残している。

「……あの人も、壊されちゃう、かな」

 お父さまとお母さまみたいに、と囁くような彼女の小さな声に、下から伸びてきたたくましい手がオリビアの頭をわしゃわしゃと無造作に撫でた。

「させねぇよ」

 決意のこもるアイザックの低い声は、夜の森に静かに響いた。

 いつもは賑やか担当であるルークが後ろから静かについてくるだけで、何も言ってこない。

 黙々と歩く足音だけが、しばらく聞こえていた。


「オリビア」


 ふいにアイザックに名前を呼ばれ、オリビアはそっと顔を上げる。

「……帰ったら、ソフィアに謝れよ」

 すげぇ心配してたぞ、と告げるアイザックに、オリビアは素直に頷いた。

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