第6話:共闘、そして邂逅

 ふわりと鼻先をかすめた甘く芳醇な香りに、ツバキはついに作戦が始まったと察した。

 結界越し、外と遮断しているはずのこの内側にまでも、わずかに香るそれに、オスカーも気が付く。

 理性を無くし狂うほどではない、けれども、気になる甘い香り。

「何だ、この香り……?」

 戸惑いを含むオスカーの言葉に、人間であるルークだけが、はてなと目を瞬かせる。

「えっ、何も匂わないけど?」

 きょとんと小首をかしげるルークの首筋へ、オスカーは顔を寄せると確かめるようにスンと匂いを嗅ぐ。

「うわっ、なに、くすぐったい」

「おまえじゃないな」

 似ているようで違う、なら考えられるのは、とオスカーがツバキに視線を向ければ、冷めた表情で結界の外側を見つめていた彼が、肯定するように頷いて見せる。

「結界越しでこれですからね……一歩この外に出たら、陽炎一族のみなさんは、いったい何人、正気を保っていられます?」

 皮肉気に問うツバキに、オスカーは言葉を無くす。

 陽炎一族は、ユリウスと同じレアブラッドであるルークの血に対して、全員耐性は持っている。

 だから、ルークと同じ血なら大丈夫だと、そう簡単に惑わされることはないと、思っていた。

 しかし今、わずかに漂うだけのこの甘美な香りを無視できないと、オスカーの本能が告げている。

「そんなにやばい感じなの、マスター?」

 おろおろと心配そうに見やるルークの肩を、オスカーは軽く叩いて大丈夫だと告げるが、その表情は険しいままだ。

「……おまえは、どうなんだ?」

「……無理に決まってるじゃないですか。だから、ここで待機してんでしょう」

 オスカーの問いに、ツバキは苛立たし気に吐き捨てた。

 役に立つどころか、傍にいることさえできない、こういう時、吸血鬼化したことに対しては普段なんとも思わないツバキでも心底悔しく、おのれが腹立たしくて仕方がない。

「俺は、あの人が霊札貼って匂いを消してなかったら、近づくことすらできませんよ」

 今の状況みたいに、と低く呟くツバキに、思うところがあるのかオスカーは口を閉ざした。

 沈黙が落ちた中、どこか寂しげな様子で佇むツバキへ、ルークはぽつりと尋ねる。


「……君はどうして、神父さんの傍にいるの?」


 純粋な疑問をぶつけるように、静かな声音で問いかけるルークに、ゆらりと冷たい眼差しを向けたツバキは、間を置かずに答える。


「……あの人の傍が、俺の居場所だからですよ」


 それと、贖罪のために。



 ***



 一方、町から離れた森の奥。

 寂びれた教会を背に、襲い来る下級吸血鬼へアイザックは銀の鉤爪を振るう。

「ハッ……思ったより多く集まったな。だが、想定内だ」

 次から次へと湧いて出てくる下級を容赦なく叩き潰しながら、アイザックは呟く。

 運悪くその辺を彷徨っていた関係ない野良も引き寄せてしまったのだろうが、駆除対象であることに変わりはない。

 つかず離れず互いに目視できる距離で共闘しているユリウスへ、ちらりと視線をやる。

 相変わらず、濃い隈の残る不健康そうな青白い顔をしながらも、細剣を片手に淡々とけれども確実に敵を葬るその姿は、無駄がなく機械的なようでありながら、洗練され研ぎ澄まされた鋭いナイフのように恐ろしく美しい。

 祓魔師ってのは、どいつもこいつも一見まともに見えて、どっかイカれてやがる、とアイザックはひっそり思っている。

 同時に、夜のバケモノたちに自ら進んで関わろうとするヤツなんざ、まともな人間であるはずがない、とも。

 ふと鼻先をくすぐる甘美な香りに、アイザックは血への渇望が強まっていくのを感じる。甘く馨しいレアブラッドの誘惑に溺れそうになるのを、アイザックは次々襲い来る敵を葬ることに没頭することで、何とか耐えていた。

 ここで理性を吹っ飛ばしたら、アイザックはユリウスに祓われる。

 そんな醜態を晒すつもりもなければ、彼にそんなことをさせるつもりもない。

「……終わったら褒美くらい欲しいもんだけどな」

 誰にともなく嘯きながら、ペロリと舌で乾いた唇を舐める。

 ユリウスが流した一筋の血の香りに引き寄せられるように、一人、また一人と、渇きに飢えた闇の住人たちが姿を現す。

 ゆらりと揺れる相手の赤い瞳は、もはや理性の欠片も残ってはいない。

 ただ血を求めて見境なく人を襲う、哀れな化物たち。

 雑魚に用はない、アイザックはおのれの銀の鉤爪をもって、圧倒的な暴力で彼らを葬り去りながら、その背後にいる黒幕の存在を探した。


 アイザックから少し離れたところで、夜の気配を恐れることなく、忍び寄る吸血鬼の姿を冷たく見据えながら、ユリウスは淡々と確実に一人一人仕留めていた。

 聴き取りにくい奇声を発しながら、一人が大きく爪を振りかぶる。ユリウスは、相手の攻撃を最小限の動作でかわしながら、薄く微笑んだ。

 刹那、銀色の鈍い光の残像とともに、相手が音もなく斬り伏せられる。

 けれども同胞が殺られたところで、すでに血に飢え理性を失っている彼らがひるむことはない。

「血ヲ……」

「……血、ヨコセ」

 夜の闇に、相手の瞳が、鈍く赤く爛々と輝く。

 それをユリウスは、静かに剣を構えながら見据えた。

 ただ血を求めて人を襲う魔物になった吸血鬼たちを祓うのが、祓魔師の仕事である。

 突進するように襲い掛かってくる相手の攻撃を、流れるような身のこなしでさばき、回避しながら、銀の光を帯びた剣を舞うように操り、瞬く間に三人を葬る。

 残りは、と周囲の様子を探るように振り返ったユリウスの耳に、ふと羽ばたく音が聞こえた。

 周囲への警戒を怠ることなく、音がする方へ顔を上げれば。

「ハハッ……コイツはラッキーだな! 聞いてたのと違うが、上物がいるじゃねぇか!」

 遥か上空、夜空の闇に紛れて、蝙蝠のような羽を羽ばたかせている吸血鬼が目に入った。

 甘美な香りの誘惑に溺れ爛々と赤く輝いた瞳が、舐めるようにこちらを窺うのが分かった。

 降りてきてくれれば楽なのだが、まだそこまで愚かにはなっていないらしい。

 目論見通り、のこのこと姿を現してはくれたが、狂ったような笑い声をあげている様子を見るに、かろうじて理性が残っているのかもしれない。

 おそらく間違いないだろう、こいつが、背後にいて下級吸血鬼を指示していた中級だ。

 ユリウスは空を見上げたまま、隣に近づいてきた足音の主へ確認する。

「……アレが最後ですか?」

「だろうな。小賢しい集団の黒幕」

 アレ潰せば終わりだ、と気だるげな眼差しで空飛ぶ相手を見上げたアイザックに、ユリウスはふと問いかける。

「つかぬことをお伺いしますが、貴方も飛べるのですか?」

「あ? ……やろうと思えばやれるが、腹減るからやらない」

 アイザックの答えに、なら撃ち落とすしかないなとユリウスは考える。

「そうですか。……では、私が落としますので、貴方は止めをお願いします」

 淡々と告げるユリウスの言葉を聞いて、アイザックはへぇと面白そうに唇の端を釣り上げた。

 遥か上空にいる相手に、剣はもちろんのこと、銃弾が届く距離でもない。

 どうするつもりかと様子を窺えば、剣を収めたユリウスは、腰のポーチから掌で握りこめるサイズの筒状の道具と、三角形の小さな銀製の矢じりを取り出した。

 左手に握った筒へ、ユリウスが霊力を流し込めば、筒の上下に白い光が伸び弓の形状を取った。

 銀製の矢じりにも同様、流し込んだ霊力が真っすぐな白い光の線となり、一本の光の矢を構築する。

 即席で霊力の弓矢を完成させたユリウスは、そのまま弓を持った左手を空へと向ける。

 普通に考えれば届くわけがない距離であるにも関わらず、ユリウスは夜空へ向かって弓を構え、光の矢をつがえる。

「馬鹿めっ、そんなもの届くわけないだろっ!」

 油断しきって嘲笑する声を空に、ユリウスは美しい所作で弓を引きながら、淡々と呟く。

「……届く、届かない、ではないんですよ」

 その薄氷の瞳は、夜空を吸い込んで普段より蒼く輝き、遥か上空の敵を冷たく見据え、躊躇うことなく光の矢を射る。

 回避しようと相手が空高く飛び上がったにも関わらず、その矢はまるで吸い込まれるように相手の翼を貫いた。

「……当たるんですよ、これは」

 ただ、必ず当たるというだけで、あまり威力はないのだが。本当に、射落とすことだけに特化した武器なのである。

 バランスを崩し、木の枝を折りながら落ちてきた最後の敵を、嬉々として下で待ち構えていたアイザックが容赦なく叩き潰した。

 崩壊していく敵の亡骸を見届けて、アイザックとユリウスは終わったな、と一息ついた。

 囮で一網打尽作戦、終了である。

 お互い、息一つ乱していないどころか、自傷を除いてかすり傷一つない。

「どうよ、大丈夫だったろ?」

 アイザックの得意げな顔に、一瞬何のことかと思いかけたユリウスだが、すぐに自分が血に狂わないということを証明してやる、とかなんとかそんなことを昨夜彼が言っていたのを思い出した。

 懸念していた事柄が杞憂に終わったのはいいが、特に歓迎すべきことでもない。

「……強がりは結構です」

 これ以上は外にも彼にも毒にしかならないと、外気に晒した首筋の印を再び封じるべく、ユリウスは霊札を貼ろうとして――その手を止めた。

 首筋の印が疼いた。同時に、刺す様な視線を感じる。

「……どうした?」

 ふいに動きを止めたユリウスを、アイザックが訝し気に見やったが、答える余裕はない。

 ユリウスは、剣の柄に手をかける。

 ぞくりと背筋に走る悪寒。心臓が早鐘を討ち、ぞっとするほど粘着質で不気味な狂気が肌を舐め、全身が総毛立つ。

 視線を感じる。どこかに奴がいる。こちらを見ている。

 夜闇に沈む森の中へ意識を集中させ、神経を張り巡らせて気配を探る。

 間違えるはずがない。待ち望んでいた相手、長年の仇敵。どこだ、どこにいる、どこから奴に見られている。

 筋肉が硬直するほど剣を強く握りしめながら、周囲を探り、ついに見つける。

 そう遠くないギリギリ視界に入る位置、けれどもユリウスの間合いから絶妙に外れた距離、生い茂る木々の一本の枝に、一羽の黒い鴉を見つけた。

 それは本体ではなく、ただこちらの様子を窺うためだけに飛ばした分身、影だろう、とユリウスは察した。

 ユリウスが鴉の存在を認識したことを確認したのか、鴉が一声カァと鳴く。

 これでユリウスは、奴に居場所を特定された、そう遠くないうち本体が会いに来るだろうことを確信する。

 互いの存在を確認し、鴉が本体の元へ飛び去る、今夜はそれで終わる、はずだった。


 その鴉に、アイザックも気が付いた。

 ただこちらの様子を、いや正確には、ユリウスの様子だけを窺っているようだが、その鴉から感じる嫌な気配に、アイザックは既視感を覚えた。遥か昔にしまい込んだ記憶の片隅を刺激され、眉間にしわを寄せる。

「おい、あんた――」

 アレとどういう関係だと、振り返って目にしたユリウスの異変に、アイザックは思わず瞠目する。

 振るえそうになる身体を必死に抑えているかのような、先ほどまでの淡々とした表情が嘘のように剥がれ落ちた、まったく余裕のない表情。口元は引きつったような笑みを刻んではいるが、その瞳はまったく笑っていない。

 おそらくアイザックの声も聞こえていない、ただ鋭く鴉だけを見据えているその薄氷の瞳に、危うさを感じた。

 臨戦態勢をとる彼の姿に、何故か、目を離したその瞬間、粉々に砕けてしまいそうな脆さを感じた。

 このままだと壊される、漠然とした焦燥感に駆られたアイザックは、とっさに引き留めるように、ユリウスの左手首を掴んだ。

 力を入れすぎて強張っていた腕を持ち上げると、未だ甘美な芳香を漂わせる左腕の止血帯に、そっと唇を寄せた。

「……もったいねぇな」

 するりと布をほどき、血はすでに止まっていたが、斜めに走る赤い傷口に残る血を舐めるように口づける。

 こっちを見ろ、俺を見ろと、アイザックが横目に窺えば、狙い通り、ハッと鴉から視線を外したユリウスが驚愕の眼差しをアイザックに向けた。

 直後、肌に痛いほど突き刺さる殺意に近い狂気を感じて、アイザックは視線だけちらりと鴉に向ける。

 鴉の視線がちゃんとアイザックに向けられているのを確認して、唇の端をわずかに釣り上げて笑うと、見せつけるように指を絡め左腕の切り傷から綺麗に血を舐めとった。

 芳醇な香りを含むその血の味は、空腹の身には想像以上に甘美で、そのまま腕へ牙を突き立てようとしたアイザックだが、我に返ったユリウスの右手に顔面を掴まれ阻止される。

「やめなさいっ……!」

 怒気と焦燥に駆られたその声が、まるで悲鳴のように聞こえた。

 ユリウスの意識が鴉から逸れ、完全にこちらに戻ってきたことを確認したアイザックは内心胸をなでおろす。

 絡めていた左手の指を放しながら、ユリウスを庇うように前に出たアイザックは、遠くの鴉を見据えると、「失せな」と赤く光らせた獰猛な瞳で、射殺さんばかりに一瞥してやる。

 アイザックの鋭い眼光と威圧感を受けた鴉は、バザリと翼を羽ばたかせ夜闇に飛び去っていく。

 羽音に夜空を振り仰いだユリウスの瞳が、鴉が逃げ去っていくのを見送る。

 張りつめていた空気が霧散し、森の中には再び静寂が戻った。

 さてこれでようやく一件落着だと、アイザックが気を抜いた次の瞬間、強い力で胸ぐらを掴みあげられた。

「あなたはッ……!」

 緊縛から解放されたせいか、それとも感情が高ぶりすぎたのか、ユリウスが声を詰まらせる。

 夜の闇を吸い込んだせいか、普段より蒼く見える薄氷の瞳が苦し気に歪んでいた。

「自分が、何をしたのか……わかっているのですかっ……!?」

 出会って数日、初めて見た声を荒げるその姿が、アイザックには何故か、とても傷ついているように見えた。

 落ち着けと宥めるように、胸ぐらを掴む腕を軽く叩いてやりながら、アイザックは平然とした口調で答える。

「高みの見物野郎に、挨拶してやっただけだろ」

「――ッ」

 震える唇が何か言いかけたが、それは声にはならず、ユリウスはただ奥歯を強く噛み締める。

 胸ぐらを強く掴み上げるその手が震えているのは、怒りのためかそれとも。

「……なんて顔してんだよ」

 ユリウスが怒っているのはわかる。わかるが、それならもっとちゃんと怒った顔をしてほしいものだ。

 そんな今にも泣きそうな顔で凄まれても、アイザックのほうが困ってしまう。

 おそらく本人も、自分が今どんな顔をしているのわかっていない、それがまた見ていてとても痛々しい。

「……ッ、貴方だけじゃない、……貴方の仲間も、狙われるかもしれない」

 ポツリと落ちる押し殺したような小さな声に、アイザックは、ユリウスの襟元へそっと腕を伸ばし、その首筋に触れる。

「――その紋章、見覚えがある」

 体温の低い冷たい指がそこに刻まれている印をなぞるように滑り、軽く爪でひっかかれ、ユリウスは半ば反射的にその手を振り払う。

 戸惑い揺れた薄氷の瞳を、アイザックは真っすぐに見つめて告げる。

「……通称、ノエル・ヴァン=シュタイン公爵。本名は知らない。かなり古株の純血によくある、長く生きすぎて歪んだ化石野郎だな」

 どうしてその名を、と驚き目を見開いたユリウスを見て、アイザックは自分の認識が間違っていないことを確信する。

「そいつとは、ちょっと因縁があってな……言ったろ。昔、王族付きの護衛やってたって」

 アイザックは、なにも顔も知らない相手を挑発したわけではない。

 相手が何者かをちゃんと認識した上で、喧嘩を売ってやったのだ。

 それはもう遥か昔のことではあるが、陽炎一族と浅からぬ因縁があるその相手と、偶然にもこんなところで再び遭遇することになろうとは、思ってもいなかった。

「これは、俺にも関係があることだ。……あんたに巻き込まれたわけじゃない」

 気にするな、とアイザックは言うが、ユリウスはそう簡単に頷くことはできない。

 自分に関わった者が、あの吸血鬼に関わった者が、どういう末路をたどるのか、これまでの経験上嫌というほど思い知らされている。

「……誓って俺は、この先何かあったとしても、あんたに責を負わせたりはしない」

 それでも彼は、責任を感じてしまうのかもしれないが。

 アイザックは聞き分けのない子どもをあやすように、ポンとユリウスの頭に手を置く。


「安心しろ。俺は死なない」


 揺ぎ無い口調で強い意思を込めて放たれたアイザックの言葉に、ユリウスが息を呑む。

 さらりと梳いた白銀の髪の手触りを悪くないと思っていたら、触るなとばかりに、はたき落とされた。

「……後悔しても、知りませんよ」

 そんな思ってもいないことを口にする、強さと脆さを併せ持つ彼が、感じているであろう負い目を、少しでも和らげてやりたくて、アイザックはフンと鼻で笑い飛ばす。

「しねぇよ。後悔なんて」

 今にも倒れてしまいそうなくらい青ざめた横顔を、強い輝きを秘めた炎の眼差しが優しく見つめ返した。


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