第5話:協力依頼

 太陽が一番高く昇る頃、いつものように聖堂でユリウスが祈りを捧げていると、遠慮がちに扉をノックする音が響いた。

 もちろん来客の予定はなく、協会関係者が訪れる予定もなければ、出入りする唯一の存在であるツバキも今は昼間なので地下室で寝ている。

 麓の町ウィスティリアから森の奥のこの教会まで、一般人の足では半日かかる。

 そんな所へ、わざわざ足を運んでくる者なんて、迷子かただのモノ好きしかいない。

 薄々予感はしながらも、ユリウスはノックされた扉を薄く開いた。

「やぁ、神父さん。こんにちは」

 案の定というべきか、扉を開けて訪れた客の顔を確認したユリウスは、困ったように微笑んだ。

「……おかえりください」

「ちょっ、待って待って!」

 そっと協会の扉を閉ざすユリウスを、訪問客――ルークは慌てて引き留める。

「わかった神父さん、中には入らないから! ここで! ここでいいから! ちょっとだけ話を聞いてくれませんか!」

 閉ざされそうな扉を掴んで抵抗するルークと押し問答を繰り返し、ついに折れたのはユリウスだ。

「これを最後にしますからっ! もう来ませんから本当にっ!」

 そこまで言われてしまうと、ユリウスも無慈悲に追い返せない。

 ツバキがいたら、甘すぎると言われてしまうことだろう。

 仕方ない、と諦めたユリウスはルークを連れて協会の裏に回り、そこにある木製のベンチに二人で腰掛けた。

「……それで、お話とは?」

「うん、俺の思い過ごしだったらいいんだけどね……もしかしたら神父さんに迷惑をかけるような気がするから、先に謝っておこうと思って」

 ごめんなさい、と謝罪されても、ユリウスにはなんのことかわからない。

「どういうことでしょう?」

 ルークの話の切り出しからして、もう嫌な予感しかしないユリウスだったが、ここで話を聞かずに帰すわけにもいかない。自分が巻き込まれそうだというのなら、なおさらである。

「いや、俺も詳細はわからないんだ……でも、アイザが何か企んでいるみたいだから、気を付けてね、って神父さんに伝えたくて」

 なにをどう気を付ければいいのか、具体的に教えてほしいところである。

「マスターが言ってたのを、小耳に挟んだだけなんだけど……」

 近頃、ウィスティリアの町をうろつく小賢しい連中がいて、陽炎一族としてはまとめて潰したいところなのだが、下っ端が小出しにしか現れないため手を焼いているという。

 地道に潰していくのが確実だが、時間がかかる。

 そこへふいに、アイザックが一網打尽にする方法があると言い出したという。

「……その方法とは?」

「さぁ……? ただすごーく悪い顔をしてたから、もしかしたら神父さんを巻き込もうとしているんじゃないかなーと、なんとなく思って」

 町の住民を守るために敵を相手にするというのなら、手を貸さないこともないが、そういう場合は、まずユリウスの前に、この区域の担当祓魔師であるツバキに話がいくはずだ。

 そしてツバキなら、手に負えない敵、それこそ貴族クラスの吸血鬼相手でない限り、ユリウスへの協力依頼を断るだろう。くだらないことでユリウスの手を煩わせるな、とでもいうように。

「とりあえず、アイザになんか言われても、この前みたいに、関わるなーってバッサリ切り捨ててくれればいいから!」

 それを言われると少々心苦しくなるが、ユリウスはルークの言葉を真摯に受け止めた。


 そして数日後、ルークの懸念は現実となった。



「だからそれは、お断りしますって言ってんでしょうが!」

「……また結界、ぶっ壊して入ってもいいんだぜ」


 そんな脅し文句が聞こえてきたのは、日が完全に沈んで夜空に星が瞬き始めた頃。

「神父がいなくても、余裕な案件でしょうが!」

「だから、あいつがいたほうが手っ取り早く終わるって言ってんだよ」

 協会の外で騒ぐ声に、窓から様子を窺えば、ちょうど森の入口、協会の周囲に張り巡らした吸血鬼除けの結界の手前で、ツバキとアイザックが言い争っているのが見えた。

 結界を張っているユリウスが許可しているため、ツバキは結界を自由に出入りできるが、それ以外の吸血鬼(この場合アイザックたち陽炎一族も含む)は、結界を破壊でもしない限り協会へ侵入できない。そして結界は、アイザックほどの力でもなければ、そう簡単に破壊できるものではない。

 視線を感じたのか、距離があるにもかかわらず、アイザックの灯火色の瞳がゆらりとユリウスの方を見た。

 アイザックの視線の先を追って、振り返ったツバキもユリウスに気が付いた。

「神父! 出てこなくていいですから!」

 慌てて叫ぶツバキに倣い、アイザックも声を張り上げた。

「一分以内に出てこないと、この前みたいにぶっ壊すぞ!」

 無視しようかとも思ったが、宣言通り結界を破壊されても困るので、ユリウスは仕方なく外へ出ていった。

 おそらく頑張って引き留めてくれていたのであろうツバキを労わるように、彼の肩を優しく叩く。

 ツバキが苦々し気な表情をしているのを横目に、ユリウスはため息をついて、アイザックを見据えた。

「……関わらないでくださいと、言ったはずですが」

 言外に何の用だと問えば、してやったりとばかりにアイザックが唇の端を釣り上げて笑った。

「のこのこ出てきたってことは、話ぐらいは聞いてやってもいいってか」

 ルークの予感は正しかった、とユリウスはある意味感心した。

 アイザックの話はだいたい、事前にルークから漏れ聞いていた通りで、その内容が詳細に語られる。

 わかりやすく要約すれば、町に小賢しい害虫がいるから、一晩駆除に協力しろと。

「俺は、奴らをまとめて一掃したい。そこでだ」

 一旦言葉を区切ったアイザックは、灯火色の瞳でユリウスを真っすぐに見つめる。

「あんたに囮をやってもらいたい」

 舌打ちしたツバキが、口を開こうとしたのをユリウスは制する。

「具体的に」

「俺たちとしては、町への被害はできるだけ最小限にしたい。だから万が一でも、取りこぼすわけにはいかない。なるべく町の外に集めて、一人残らず一気に叩きたい」

 そこで問題がある。

 一つ、どうやってまとめて全員を集めるか。

 二つ、どうやって短時間で全員を叩き潰すか。

「あんたの血を餌にすれば、血に飢えた下級は残らず集まる。その後ろにいる中級も血に狂って姿くらい現すだろう。そこを即刻叩く」

 ユリウスに流れる血は、一般人とは異なる質を持つ。

 貴重なレアブラッドと呼ばれる、この血を持つ人間は、吸血鬼に吸血されても吸血鬼化することはない。たった一滴でも、彼ら吸血鬼の理性を一瞬でなくさせるほどに危険であり、同時に彼らにとってはなによりも濃厚で甘美な香りを漂わせる極上の血液だ。

「アイザックさん、いい加減に……」

「いいでしょう」

 聞いていられないとばかりにツバキが声を上げるが、それをユリウスが遮る。

 目を瞠るツバキに申し訳なく思いつつ、話を聞いてしまった以上、祓魔師として放っておくわけにはいかない。町の人々の安寧のためなら一晩くらいは協力してもいいとユリウスは考える。

「ただし、条件が三つあります」

「言ってみろ」

「一つ、敵を集める場所はここ。この協会の外。町の外でやるよりも、こちらのほうが離れていますから、より安全でしょう」

 それでいいのなら、とアイザックは頷く。

「二つ、町全体に結界を張ること」

 これは念のための保険だ。

 逃げた敵を絶対に町に入らせないようにする。

「三つ、ツバキくんと、あなたたち陽炎一族の方はそのまま結界内で待機。敵は私一人で片付けます」

 淡々とした口調で言い切ったユリウスを見据えて、アイザックは思いっきり顔をしかめた。

「ふざけてんのか?」

「大真面目ですが?」

 こいつ正気かと、確認するようにアイザックがツバキを見やれば。

 こうなるから嫌だったんだと、ツバキはユリウスを巻き込んだアイザックをどうしてくれるとばかりに睨みつける。

「俺は、協力を依頼しているんだ。あんた一人に押し付けたんじゃ、筋が通らない。……最後の以外は、のんでやる」

「私の血を囮に使う以上、貴方がたとの共闘は不可能です」

 譲るつもりのないユリウスに、アイザックは眉間の皺を深くする。

「なら、あんたと俺の二人で蹴散らす。異論は認めない」

「貴方も吸血鬼でしょう」

 その言葉に、アイザックの灯火色の瞳がゆらりと揺れた。

 気に入らないな、とばかりにアイザックの声が一段と低くなる。

「……あんたは俺が、あんたの血に狂って、襲いかかってくるんじゃねぇかって、懸念してんのか?」

 おびき寄せる奴らと同じだと言いたいわけか、と凄むアイザックの射貫くような眼差しから、ユリウスは視線を逸らす。

「俺が、信用できねぇってことだな?」

「……信用できるほど、私は貴方のことを知りませんから」

「じゃあ、今回証明してやるよ。俺があんたの血に惑わないってことを」

 ユリウスは、自分の血が招く事態を甘く見ていない。

 最悪を想定して行動するなら、もう少し条件を足したいくらいだ。

 今回最も避けたい事態は、陽炎一族の吸血鬼たちがユリウスの血に正気を失い、町の人たちを襲うことだ。

 折れないユリウスに、アイザックが責める方向を変えてきた。

「囮にするのは別にあんたじゃなくて、ルークでもいいんだ」

「……それは脅しですか」

 いやこれまでにも何回か実践している、としれっと答えたアイザックに、ユリウスはなんてやつだと内心で憤る。

 仲間によくそんな危険な真似をさせられるなと、思わずにはいられない。

 同じ血を持つとはいえ、ルークはユリウスと違い祓魔師ではなく、ただの一般人である。

「あんたが俺に待機を命じるのは勝手だが、そうしたら俺は、その結界をぶっ壊してでも外に出て、敵を叩き潰しに行くぞ」

 この男なら本気でやりかねない。

 さぁどうする、と脅し以外の何物でもないアイザックの言い分に、苦渋の決断を迫られたユリウスは最終的に、嫌々ながら折れた。

「……もし貴方が、理性を無くした場合……私は、協定を破り、貴方を祓います。それでも――」

「決まりだな」

 ユリウスに最後まで言わせることなく、アイザックは勝手に都合よく話を締める。

 決行は明日の夜ということで、その後すぐさま作戦会議が開かれた。


 ***


 翌日の日没後、ウィスティリアの町に降りたツバキは陽炎一族の自称町の警備隊たちに、音叉の形をした媒介を手渡す。

 町の人たちには事前に、今夜は家の中から出ないようにと陽炎一族のメンバーたちが言い伝えてある。

 さすが長年人間と吸血鬼が共存している町とでもいうべきか、町民たちも心得たもので、陽炎一族の指示に素直に従っていた。

 結界内で待機することとなった、ツバキと陽炎一族のメンバーたちは、五つの班に分かれていた。

 ウィスティリアの町を囲うように、五か所に楔を打ち込み、それを媒介としてツバキが結界を発動させる手はずだ。

 結界を張った後は、各班、万が一にも結界が破れないように、媒介の傍で待機。

 当初、アイザックとユリウスが二人だけで対応するという作戦に、ジョシュアを筆頭に陽炎一族たちは当然の如く反発した。

 それに対して碌な説明もせずに全員に納得、いや強引に黙らせたアイザックは、結界の外側で、ツバキが結界を発動させたのを見届けると、森の奥の協会で待機しているユリウスの元へ向かっていった。


「なんか、ごめんね~」

 万が一の事態に備え、結界の楔の傍に佇むツバキの背に、のほほんとした声がかけられた。

 近づいてきたのがルークだとわかったツバキは、あれと違和感を覚える。

 いつも無防備に振りまいている彼の、レアブラッド独特の血の匂いが、今はあまりしない。

 何故だろう、と不思議に思ったのが顔に出たのか、ルークが見てこれ、と笑顔で話してくれた。

「これね、マスターがくれたんだけど、血の匂いを抑制する機能的なのがついてるんだって。俺にはよくわからないけど、どう?」

 匂いと言われても、吸血鬼たちの嗅覚が捉える血の匂いなんて、人間であるルーク自身にはさっぱりわからないので、両耳に着けた新しいピアスを示しながら、ルークは自分の匂いを苦手としているらしいツバキに感想を尋ねてみた。

「……普段よりマシになりましたね」

「そうなの!? やった! 効果ありってことだね!」

 わーい、と何が嬉しいのかわからないが満足げな笑みを浮かべているルークに、ツバキは、ため息をついてやりたいのを堪える代わりに、じっとりとした視線を向けた。

「……ていうか、今回……事前に神父になんか吹き込んだの、あんたでしょ」

 低い声音でボソリと呟くツバキに、ルークがハッと表情を引き締める。

「う~ん……残念ながら、無駄な忠告になってしまったみたいで」

 巻き込んで申し訳ない、と眉根を下げて困ったように頭を下げたルークに、こいつ無自覚かと察したツバキは、結局ハァとため息をついてしまった。

「無駄どころか、決定打ですよ。……あんたにこんなことさせるくらいなら協力するって、初めから決めてたみたいだし」

「えっ、うそ……うわぁ~そうくるとは考えてなかったなぁ。ごめん」

 心の底から申し訳ないと、しょんぼりと項垂れてしまったルークに対して、ツバキは別に、とぶっきらぼうに返した。

「あの人……一人で無茶するのが癖になってんですよ。……だから正直、俺は、この状況……悪くないとも思っています」

 半ば脅迫されたような形ではあったが、ユリウスが嫌々ながらも、誰かを隣におくことを許した。

 それが、ツバキにとって嬉しくもあり、悔しくもあった。できれば、その隣には自分がいたかった。けれども現実は、自分は戦場の外側、安全なところで待機だ。

「……ねぇ、神父さんのこと、教えてくれない?」

「……それを聞く覚悟が、あんたたちにはありますか?」

 あんたたち、と複数形で言われたことに首を傾げたルークの隣へ、足音もなく姿を現したのはオスカーだった。

「好奇心で首を突っ込むなって?」

 こっちだって好きで面倒ごとに関わりたくはない、とオスカーは肩をすくめる。

「けど、アイザが関わるっていうなら……聞いとかないとな」

 オスカーは、協会と陽炎一族を繋ぐ橋渡し、いわゆる連絡役でもある。

 人間と陽炎一族との取引などは、主に彼を通して行われ、一体どうやって仕入れているのかわからないが、情報屋としての一面も持つオスカーには、彼独自の情報網がある。

 そんな情報通のオスカーであれば、ユリウスの情報なんてとっくに手に入れていることだろうに。

 それでもあえて、ツバキに問いかけるということは。

「断言しますけど、……あの人に関わると、下手したらあんたたち死にますよ」

 陽炎一族を巻き込むことは、ツバキとしては歓迎だが、ユリウスは絶対に嫌がるだろう。

 だからツバキは良心でもって、最後の警告をする。

「物騒な話だな」

 そんなこと分かり切っているとでも言うように、オスカーが呟く。

 それでも彼らが、踏み込んでくるというのなら。

 ユリウスに関わろうとしてくれるというのなら。

「事実ですから。……現に俺は、一回死んだようなもんですし」

 五年前に人間としては死んだ、運よく吸血鬼化して生き返ったようなものだ。

 もう後はないけど、とツバキは自嘲するように呟く。

「それでも俺は、知りたいかな」

 この中で一番弱い存在であるルークが、真面目な声音で言った。

「……この中で一番死ぬ確率が高いのは、あんたですよ、ルークさん」

 彼はただの一般人だ。でも、ユリウス同じ体質という共通点を持つ。

「俺、逃げ足の速さには自信あるから!」

 根拠のない自信を無邪気に言ってのけるルークを、オスカーが呆れたようにひっぱたく。

 警告はした。

 それでも彼らが、こちらに介入してくるというのなら、あとはもう自己責任だ。

「……一族全滅したって、知りませんからね」

「それは困るなぁ」

「陽炎一族は、しぶといから大丈夫だよ!」

 どこまで楽観的でいられるかな、と皮肉気に思いながらツバキは口を開いた。


 ***


 今夜のユリウスは、いつもの神父服ではなく、首から下げた銀のロザリオはそのままだが、襟のある白いシャツに黒のスラックスと、動きやすいラフな格好をしている。

 その腰には細身の剣を佩いていて、色のついたガラスの眼鏡は、すでに外して部屋に置いてきていた。

 普段協会の周囲に張り巡らせている吸血鬼除けの結界は、今夜だけは解いている。

 静かな夜闇の中、町の結界が無事に発動された空気を、ユリウスは肌で感じ取る。

 麓の町からここまでは一般人の足では半日かかるが、吸血鬼ならそこまでかからないだろう。

 案の定、それほど待つことなくアイザックが姿を現した。

「いいぜ。始めるか」

 いつでもどうぞとばかりに楽し気に笑うアイザックを無視して、ユリウスは確認ですが、と淡々と問う。

「……相手の数は、貴方の推定で、どれほどいますか」

「三桁はいかない。多くて、せいぜい五十」

 吸血鬼は、太陽の光を浴びると身体が灰となって滅びる。しかし今は夜中、吸血鬼を倒すには、銀製の武器で心臓を貫くしかない。吸血鬼は、絶命するとその亡骸は脆く崩れ落ち跡形も残らない。

 今回の目的は、捕縛ではなく殲滅、ほぼ下級クラスの吸血鬼が二桁と、おそらくその背後にいるであろう中級が一人。

「なら、五分で片付けましょう」

 あまり時間はかけたくない。

 この距離では無駄だとは思うが、念のためユリウスはアイザックから距離を取った。

 そして、襟元を緩めたシャツの下、左の首筋に手を添える。

 この霊札を剥がした瞬間、封じていた首に刻まれた印の効力が復活する。

 それはつまり、この身にこの印を刻んだ相手に、おのれの居場所が特定されるということだ。

 今回アイザックに協力したのは、もちろん町の人たちを守るためというのもあるが、個人的な事情としては、長年の仇敵を迎撃するために、おのれの居場所を知らせるためでもあった。

 ユリウスは、一つ息を吐いてから、霊札を剥がす。


 その様子を少し離れたところから見守っていたアイザックは、ユリウスが霊札を剥がした瞬間――ふわりと広がったその芳香に瞠目した。

 ざわりと森の中で空気が揺らいだのを感じ取る。

 吸血鬼にしかわからないレアブラッド独特の芳香が、先ほどまで無臭だったのが嘘のように、濃く甘く芳醇な香りを伴って鼻孔をくすぐり、喉の渇きを刺激した。

 ゴクリと喉を鳴らさずにはいられない、気を抜くと眩暈を起こしそうなほどむせかえるような馨しい誘惑の芳香に、一瞬とはいえ意識のすべてを持っていかれそうになった。

「――ハハッ……マジか」

 きっとこれが、本来彼が普段身にまとっているはずの芳香なのだろう。

 ルークと同じ血だからと、耐性のある自分は大丈夫だと少し侮っていた。

 正直、比べ物にならない。似ているようで、まったく違う。

 初めて遭遇した時、協会で相対した時、その過去二回無臭の時に、味見程度とはいえ口にした、その血の甘美な味。

 霊札を取っただけでこの香り、その状態で、彼が血を流したなら、彼の血を口にしたのなら。

 ユリウスがちらりと様子を窺うように、アイザックを見やった。

 それにアイザックは、なんともない風を装いながら片手を上げて平気だと合図を送る。


 ユリウスはアイザックの灯火色の瞳が、夜闇の中ほんの一瞬、強く赤く揺らめいたのを見ていた。

 実際のところ、匂いと言われても、吸血鬼たちの嗅覚が捉える血の匂いなんて、人間であるユリウス自身にはさっぱりわからない。自分と他の一般人と一体何が違うのか。

 アイザックの内心の葛藤などつゆ知らないユリウスは、彼が平気そうにやれと合図を寄こしてきたのを見て、ほっと息を吐いた。

 そして、シャツの袖をまくり上げた左腕を持ち上げると、逆手で抜いた剣を添え躊躇うことなく滑らせる。

 スッと赤い線が引かれると同時に生まれた浅い切り傷から、じわりと血がにじみ出る。

 傷口に沿って伝い落ちる血の一滴が、肘から地面へ零れ落ちる前に、ユリウスは取り出した止血用の布で左腕を縛った。

 直後、逆手で握った剣をおのれの右側面へ無造作に突き刺す。

 それは的確に、音もなく忍び寄っていた吸血鬼の心臓に刺さる。

 抜いた剣を逆手から持ち直し、ダメ押しで首を刎ね、そのまま頭部を両断した。

 その間およそ一分にも満たない。

 絶命し、ぼろぼろと形を崩していく吸血鬼の身体を横目に、ユリウスは夜闇に包まれる森の奥深くを見据えてふわりと微笑んだ。


「さぁ、始めましょう」

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