エピローグ
雨が降っている。
「俺、そこで待ってるんで」
ドアにもたれかかった驟君が、廊下を指さして言った。
「うん、ありがとう」
私は礼を言って、奥へと進んでいく。
天文台のドームは劣化が進んで、錆の侵食があちこちで進んでいた。雨水の染みは斑らに壁や床へとへばりついて、隅の方では、地面を割って植物が生え始めている。
望遠鏡の横を過ぎた先で片膝をつく。積み重なった瓦礫の上、黒ずんだ一輪の花を脇によけて、新しい花をそっと置いた。最近栽培されるようになった、青色の花だ。少し高いけれど、別に構わなかった。
それは私の空の色に似ている。彼方に夢見て、手を伸ばして、結局届かなかった蒼穹の色に。
穴の空いた天井から、雨が降っている。
それは、幻の雨。私は今になってようやく、彼女がいた世界を知った。
「久しぶり、花雨」
花雨がいなくなってから、半年が経った。
空は変わらずどこまでも雲が続き、世界は灰色のままだ。それでもやっぱり時間は流れて、移ろい行くものは確かに存在している。失くしたものと得たものがある。それによって、良くも悪くも、私たちの世界は一定の秩序を取り戻したように思う。
止まない雨を人の内に植え付けるあの病は、発症と悪化の原因が判明してから、“幻雨症”と呼ばれるようになった。
幻雨症は、人の身体に堆積した汚染物質が脳に作用して発症するものだそうだ。元をたどれば、戦時中に使用された数多の兵器の影響で大気が汚染され、それが結果的に、明けることのない暗雲と汚染された雨を生み出したのだという。
だとすれば、それはずいぶんと間抜けな話だった。私たちはずっと、そんなものの中で平然と生活していたのだから。
私が妄想した世界は現実のものとなった。幻雨症の患者は増加の一途をたどり、今では少なくとも世界人口の約半数が罹患しており、それに加えて、最近の新生児の中には、先天的に幻雨症の兆候が出ている事例もあるという。「雨が止まない」という言葉は私たちの間で共通の世界観となって、共有された苦痛をいかにして和らげるかという努力が日々なされるようになった。
根本的な治療法は今のところ存在しない。けれども、症状の進行を抑制する薬が開発されて、それぞれの政府から支給されることとなった。当初は混乱も暴動も起きたけれど、今となっては皆が同じ景色を見つめて、その瞳を曇らせている。
そんな中で、政府の支援を受けた幻雨症患者の互助組織ができて、私も驟君も、今はそこで薬の配布や、幻雨症に関連して精神を病んだ人々、重症化患者の支援に従事している。何もできないのは嫌だという思いは一緒で、私自身がこの雨と付き合っていくためにも、それは有効であるように思えたのだった。
雨粒の落ちる感覚にうんざりして、携帯していた折りたたみ傘を開く。ぱらぱらと表面を叩く音がするけれど、その実傘が濡れていないことを、今の私は知っている。
忙しさのあまり、花雨の元を訪れる機会は以前よりはるかに少なくなってしまって、話したいことは色々とあるのだけど、何よりもまず、伝えておくべきことがあった。
「聞いてよ、花雨。私たちね、木芽さんを見つけたよ」
私は努めて明るい声で、朗報だよ、と言った。
驟君に協力して、つい先月に病院の隔離病棟に収容されているところを発見した。木芽さんは、重篤化した幻雨症がもたらす終わらない刺激と、狂乱を抑え込むための鎮静剤の影響で、魂を損なった抜け殻のようになっていた。生きてはいる。口元に運んでやれば食事もできる。なのに、何も見ていない。何も聞いていない。何を触れても、感じていない。視線は一点に固定されて、手足を自らの意思で動かすこともなかった。
私も驟君も言葉が出なかった。今にも兵士を殺しに行きそうな驟君を落ち着かせるのには苦労した。ひょろひょろだけど一応男性である彼を、羽交い締めにしておかないといけなかったから。
驟君に言ったらどんな目にあうかわからないけれど、私は少し、安心していた。まだここにいるのだと思ったら、花雨のことを思い出して泣いてしまって、驟君に慰められることになってしまった。まったく恥ずかしいことだった。年長者なりにしっかりしていたいのだけど、そんな時には、私だけじゃやっぱりちょっとバランスが悪いな、なんてことを思って、また目を腫らしている。涙も悲しみも生き苦しさも、ずっと私の中で蟠ったままだ。
彼女のことは、私と驟君で面倒を見ている。いつかまた、言葉を交わせる時が来るようにと、性懲りもなく夢を見ながら。
何もかもが、もっと早くに起きていたら、と思う。そして、隣にいながらどうして花雨を先に連れて行ってしまったのかと、神様とやらを恨んだ。私でも良かったじゃないか。二人一緒でも良かったじゃないかと。
「ねぇ花雨。そっちに神様ってやつはいるのかな」
もしもいるのなら、いつか殴り飛ばしてやろうと思う。思い切り殴りつけて、地に落として、代わりに私が同じ席に座ってやるのだ。そして隣には、花雨がいてくれればいい。
雲の上で、その瞳は一層色鮮やかに煌めいて、私を魅了するに違いなかった。そうなったら今度こそ、掴んで放さない。抱きしめたまま、微睡みの淵に立っていたい。
ねぇ、花雨。
「天国は、晴れているかな」
晴れているといいな、と思う。
それでこそ希望がある。終わりの最果ては、輝けば輝くほど良く。
青く澄み渡っていれば、なおのこと良い。
「時雨さん、重症者っす。たぶん俺らが一番近い」
足音を響かせて驟君が近づいてくる。「わかった。すぐ行こう」私はそう言って、埃のついた膝を払う。
「いいんすか」
彼は青い花に目を向けると、私を気遣ってか、「俺だけ行っても」と口にする。私はそれを茶化して、
「熱心だね、驟君は。仕事、好き?」
「いや、別に仕事は……あー、なんでもねえす」
視線があらぬ方を彷徨うのに、思わず笑う。「ありがと」と礼を言ってから「でも、大丈夫」と続けた。
そして、歩き出す。雨の降る世界へと。いつか、大切な人のところに至るまで。
再会した時に雨が降っていたら、嫌だね、って言って笑い飛ばしてしまえるように。悲しみも、憂鬱も、現実も、雨だって、私は抱えていたいと思う。
花雨が見た色を、私も見ていたいから。
私たちは雨とともにある。
正気を奪い、記憶を削り、情動を砕き、魂を潰す雨と、逃れ難くともにある。
それがさだめで、人間の罪の証。
生まれてから死に至るまで、雨は、止まない。
幻雨 伊島糸雨 @shiu_itoh
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