奇怪大和伝 鬼ノ娘

こたろうくん

太一郎と鬼の娘

 大和国やまとのくにとは四方を海に囲まれた箱庭の如き国である。うねる大海により人は決して大和を出ること能わず、その外に何があるかを想像することまかり成らぬ。ただ大和国と言う地にのみ人は生き、そして死ぬのである。それが人と云うものなのである。



 海沿いの街道で物思いに歩を休め、曇天より落ちる雨粒が笠に砕ける音と悍ましき波音を耳に、その目に遥か広がりうねる水平線を映したその男。腰に提げた大小二刀、剣を振るう以外の能書きを持たぬその者の名を太一郎と云う。

 国元に二親と姉弟たちを残し放浪する太一郎の目的は、自らに唯一ある剣を振るうこと、ただそれだけであった。

 そのために相手は厭わず、辻斬りも行えばそれを行う武士をも斬った。そうしてやむなくも家族を捨て故郷を離れたる太一郎であったが、食わせるべき者を無くした彼を襲ったのは虚しさと、そして一抹の淋しさであった。

 今にしてようやく太一郎という人間は、己が好いていたのは剣を振ることではなかったのだと気付いたのである。

 では一体、自分には何があるというのか。太一郎が物思いにふける理由こそがこれであった。彼はずっと剣だけが太一郎という人間であると思っていた。だがそうではなかったのである。

 さてどうしたものか――波はただ人を拒み、磯の香りは鼻を衝くばかり。雨は弱くも強くもなく、風に乗り笠を掻い潜って顔を濡らし鬱陶しく太一郎の行く先を示すものは何一つ現れず。

 太一郎の追憶は続いた。



 さて、それは太一郎がふらりと立ち寄ったとある宿場でのことであった。

 その時彼の懐具合は存外に暖かく、しかし血生臭さを伴っていた。とはいえ金は金。手放すついでに湯にでも浸かり、旅の疲れを垢と一緒に洗い流してしまおうと思い、立ち寄ったのは湯宿。

 出迎えは盛大に、湯は広くなくとも熱く、食事はそれなりに豪勢。身分の無い浪人者としてはそれでもこの上ない贅沢である。

 湯で火照った体を冷ますついでにと宿の二階、開け放った窓辺に寄り添った太一郎は杯を揺らしながら月光に照らされ、夜とは思えぬ明るさの中にある宿場の通りを見下ろしていた。

 聞こえるのは枝垂れ柳が風に揺れる音と、猫の喧嘩。そして大急ぎに駆け回る幾つかの足音であった。太一郎はそれに興味惹かれ、慈姑頭故の後ろ髪を揺らしながら僅かに窓より顔を覗かせ、明るい闇夜を窺い見る。

 すると奥の辻より現れ、大慌てして通りを駆けて行くのは与力、同心とその岡っ引きたち。それと太一郎と同じく流浪者であろうか、身なりはみすぼらしいが引き締まった顔付きといい精強そうな者も数人見られた。

 捕物か、はたまた切り合いに押し入りか……何にせよ、面白いものが見れるのではないかと言う期待感が胸に込み上げてきた太一郎は盃を放り出すと掛けていた大小を引っ掴み、着の身着のまま宿を飛び出すのだった。



 どこまで走っただろうか、既に場所は宿場内とは言えない茂みの中であった。既に連中の姿は太一郎の目から見失われていたが、彼の足は止まる事なかった。

 太一郎には分かるのだ、澄んでいた空気に混じり漂ってくる脂と血の生臭さが。ただの切り合いですら相当数がかばねへと変わらなければ漂わぬような濃ゆい濃ゆいその臭い。彼はそれが強くなる方に向け慎重に歩みを向ける。その手にしっかと剣の柄を握り締めながら。

 やがてすんと鼻を鳴らすと、一気に嗅覚に押し寄せた臭気に太一郎は表情を歪めた。

 一行と進んだ道は違うようであったが、間違いない。茂みの奥に現場はある。太一郎は確信を覚え、立ち塞がる茂みへと左手を差し伸べ、身を屈めつつその向こうの様子を探った。

 そして見付けたのは真っ赤に染まった雑草林。血液だけでなく肉片や、腹の中のものまで散乱するものは無数にある。

 熊にでも襲われたのか、いや熊とてここまで惨くは散らかすまい。となれば果たして――あまりの凄惨な光景を前に太一郎の下腹部がきゅうと縮こまり、冷たな汗がぶわと全身を塗らした。

 動揺して揺れる瞳で現場を見渡す。与力らの持っていたものであろう提灯が燃え上がる明かりのお陰で確認は容易であった。

 ぬらぬらと照り返る血液と肉片たちの中をゆっくりゆっくり、その目を凝らして端から端へ見渡して行く太一郎がそして見つけたものは、なんともこの凄惨さに似付かわしくない娘子であった。

 我が目を疑う太一郎であったが、薄暗闇と血溜まりの中に浮かび上がる白い肌や長く伸びたまま、そのままの黒艶髪を見るに間違いなく人の娘である。

 それは手のひらに乗せた何か丸こい、血塗れながら白くも見えるものをそこで転がし物珍しげに見詰めていた。太一郎はただその姿を息を殺し注視する。まるで釘付けにされたかのように。

 すると唐突に、狐が如き奇声と共に太一郎が潜みたる茂みとは別方から飛び出したのは同心の一人であった。山本菊次郎、惨劇の生き残りである。

 しかし半ば狂乱する山本。振りかざした刀そのままに、それは娘へと向かっていた。

 よもや女子を斬るつもりでいるのかと太一郎がその姿に驚愕を覚えた時には既に、彼は茂みから躍り出て腰のものを解き放っていた。

 二つの閃きが迸り、そして今度は雉が鳴いた。

「娘子を斬るつもりか?」

 じりじりと鍔迫り合いを繰り広げる太一郎と山本の二人。

 箍の外れた山本の力は凄まじく、うっかり押し切られぬよう渾身を握り手に込めながら体重を掛けてそれを押し込みながら太一郎が訊ねた。

「鬼だ、鬼を斬るのだ」

 猪のように荒い吐息を太一郎へと吹き付けながら山本が告げたのは、凡そ筋の通らぬ戯言。太一郎にはそのように思えた。

 だが同時に、もしこのような惨たらしい、まるで合戦跡のような様相を生み出せる存在が人以外に在るのなら、それは鬼しか居なかろうとも。だがここに鬼は居ない。

「引け。引いてこの儀、お上に知らせ改めるが良い」

「退くのは浪人、そなたである。でなければ諸共斬る」

 山本の押しが強まり、殺意が遂に太一郎にまで及んだ。すると太一郎の目の色が変わり、直後彼の膝が落ちたかと思うと山本の六尺にも及ぼうかというような身体が弾んだ。鍔迫り合いと云う密着から放たれた太一郎の打撃が山本を突き飛ばしたのだ。

 そして地に足を付け、たたらを刻みながらも踏み止まった山本が太一郎を見る目もまた変わる。鬼めと呟く彼の目は、娘を見るその目と同じであった。その時、山本は太一郎をも鬼と認識したのである。

 それを見て、太一郎は改めて剣を諸手にて構えた。呼吸は長く、刻を窺いながらそれを待つ。

 太一郎の放った打撃。当て身の一種ではあるが、それ自体に威力というか殺傷力はその実、無い。重心の移動を利用した、要はあれは単に突き飛ばすだけの技なのである。

 ただし仕切り直しをするにはこれ以上無い技でもあり、太一郎、此処から一撃必殺の剣閃を瞬かせ山本を切り伏せる腹積もりであった。

 両者の構えは同等。太一郎も山本も中段、剣を人に構えていた。剣術を修めている山本は言うに及ばず、農民に過ぎぬ太一郎のその剣はこれまで立ち合ってきた剣士から盗んだ物である。

 構えだけでは無い。着物も金も、無論剣も。太一郎が元来持つものはその頑強な肉体と、悲しいかな持てぬはずの剣を振るう才能だけ。しかし今やその手には剣がある。

 えいやと山本が甲高き声を挙げて剣を振り挙げる。そこにこそ隙があると見破る太一郎が彼の喉へ切っ先を突き込もうとした時であった、太一郎剣が始動せしめる刹那、眼前で山本の上体がざくろの如く爆ぜ、花が咲いた。

 赤く熱き飛沫を浴びれども太一郎の双眸が閉ざされることなく、ただその尋常ならざる光景を見詰めるばかり。肩を無くした山本の双腕が剣を硬く握り締めたまま落ち行く中、それが過ぎ去る先に腰より上を喪失した人の下半身がただ突っ立つ。

 やがてそれが崩れ落ちる頃、振り返った太一郎の前に居たのは、紅蓮に燃え上がる右腕、その手刀を突き出した娘であった。

「娘……おぬし……」

 またも目を疑う事態に陥る太一郎はよもやこれが酔い潰れた自身が見ている夢なのではなかろうかと思いすらしていた。それほどまでに怪奇。

 娘の燃える右腕は膠で鍛えた皮の如く硬質そうで赤く、炎を纏うだけに飽き足らず赤熱する鋭利な五指の爪と刃のような刺が前腕には備わっていた。肩には大袖代わりの般若の面が生じてすらいて、その般若が吐き出す炎が腕を燃やしているようだ。

 奇っ怪で無骨なその腕を降ろしながら、太一郎を見た娘が小首を傾げる。娘には彼が向ける、これまで遭遇した誰のものとも違う瞳が解せないのであった。恐れでも、怒りでもない色が。

 剣すら構えぬ太一郎を前に、やがて娘の右腕は元の柔い白肌に戻る。そうなればこの惨状を引き起こしたあの力は放てまいと踏んだ太一郎は、あろうことか剣を鞘へときびきび戻してしまう。

「娘、名は? 名は何という」

 そうして鍔鳴りが威勢良く響く中で太一郎が投げ掛けた問いに、しかし娘は何も答えず彼を見ていた。

「おぬし、か?」

 まるで物怖じすること無く、太一郎は娘に歩み寄りながら更に問うた。すると娘はかぶりを振るので、もう一度彼は彼女の名を訊ねる。するとそれはようやく答えた。

「名前、知らない」

 悪びれる事のないその声は穏やかなもので静かで、しかし良く耳に届く鈴の音のような綺麗な声であった。それが紡いだ言葉は太一郎にとって少々意外なものであったが、人里に居らず纏うものも無い。改めに追われ刃を向けられた挙げ句、あの腕である。太一郎はしかしすぐに納得した。

 そうか――と太一郎はそれだけ告げるとすっかり慣れてしまった血と死臭の中溜め息を落とし、袖の中へと腕を引っ込めるとまだまだ暗い空を見上げた。枝葉の隙間からはきらぎらと輝く星々が見えた。

 その太一郎を見るのは無名の娘。その頬が綻びると、気配に気付いた太一郎もそれを見て小さく笑った。姉弟たちの顔がその脳内には思い浮かんだ。



 そう言えばまだ、名を与えていなかった――うねる大海を臨みながら太一郎はついでにふと思い出す。そして首を傾け、来た道を顧みる。見付けたのは彼の轍を辿ってのろのろとついてくる娘の姿があった。血のように赤い安着物を着せられた姿が。

 太一郎にはどうにもあの惨劇と娘の姿を別にすることが出来ず、ならばいっそと思い立ってのことであった。他の誰もが知る由のないことである。構わぬだろうと踏んでのことであった。

 そんな娘へと太一郎が手招きすると、気付いた娘はそれまでの亀のような歩みを一転させ、兎のように素早く駆け出しその元へと参じる。

「思い付いたのだ」

 何をと当然の疑問を投げ掛ける娘へ、太一郎はふと鼻を鳴らして笑い、街道から少し逸れた方を指差す。娘がそれを追い掛け当然首を傾げると太一郎は続けた。

「……母者ならば、そなたに良い名を授けてくださるだろう。己には結局、良いものは考えつかなんだ故な」

 それは同時に、自分に残っているものを思い出した太一郎の次なる目的でもあった。

 たまには顔を見せるのも悪いことはなかろう。初心に立ち返ることでこそ、新たな道も見出せよう。そんな考えであった。

 そんな太一郎の提案に娘は二つ返事でうんと笑い。であればと彼の指先を目指して先んじて駆け出すのだった。太一郎はその背中を見てまた一つ笑い、そして止まってしまった足を再びと動かした。動いたと言っても良いだろう。まるであの背に導かれでもするように。

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