最終話 梅雨が明ける
道はどんどん細くなっていた。
しばらく歩いていると、また、木が現れた。
盆栽のような立派な幹が力強くて、それでいてどこか物悲しさを感じさせる、あの木だ。
「ちょっと前まではこんなとこになかったはずだが……、新しいものか」
今度は、よりはっきりと、四肢を区別することができた。
その姿は、この木が、もともと人なのだということを、サキに強く意識させた。
内心気味悪がりつつも、サキとクゥは先へ進んだ
すると、靄が晴れ、視界が開けてきた。
道の終わりが見えてきたのだ。
そこは、波ひとつない、静かな広い水平線が広がっていた。
そこに、ぽつんと木船がひとつ。
「もしかして、ここが……」
「着いたぜ。<船渡し>だ」
「ほんとに、船なんだ」
「そうみてぇだな。なんのひねりもねぇ」
クゥは喉の奥で、クク、と笑った。
「そういえば、クゥはどうするの?」
「さぁな。俺は、一緒にはいけねぇから……、まぁ考えるさ」
バキバキバキ
不意に、後ろから、木が砕ける音がした
さっきすれ違った木が、なんと動き始めたのだ。
木人、ともいうべき人の四肢をかたどった、白い木が、メキメキと音を立てて、木の粉を纏いながら近づいてくる。
それは、異様な雰囲気を纏っていた。
クゥが毛を逆立てている。
「う、うそ、クゥ、これどうすればいいの?」
「まだここに来て日が浅かったのか……? 気をつけろ……、どうも仲良くお話ししに来た感じではなさそうだ」
木人は足を引きずりながら、じりじりと距離を詰めてくる。
顔にあたる部分はツルのようなものに覆われて、表情は見えなかった。
木人が、声にならない声を上げながら、サキに襲い掛かった。
その動きは意外に俊敏で、サキは振り払うこともできずに一緒に倒れこんだ。
「サキ!」
クゥが小さな手で爪を立てるが、木人はぴくりともしない。
木人は、サキに馬乗りになり、両手で首を掴み、そのまま地面に押し付けた。
その瞬間、サキのなかに、情景が流れ込んできた。
――パパ、眠っちゃ、や
サキは、脳裏に閃いた光景に、はっとした。
それは、小さい子供や、妻を残して死んでいった、男の姿だった。
「俺のためによお……、死んでくれよなあ!」
木がこすれような声を、サキは聞いた。木人はどんどん首を絞める力を強めていく。
「そうだよね。この人にも、生活があって、家族がいて、きっと生きていたかったんだよね。」
ふとしたきっかけで零れ落ちそうな涙をこらえて、サキは言った。
サキは、懸命に息を吸いながら手を伸ばし、木人の頬をそっと撫でた。
「でも、ごめん……。私は帰りたいんだ。現世に、みんなのいる場所に」
サキの言葉を聞くと、木人がわめき、頭を抱え、サキから離れてその場にうずくまった。
そして、しばらくのたうちまわった後、木人は灰となって消えていった。
その光景を見て、サキは信じられないものを見る目で見ていた。
「死んじゃったの……?」
「何言ってんだい」
サキの問いには、ヨミが答えた。
「あいつはもともと、死んでいるんだよ。あるべき場所に帰ったって、それだけのことさ」
いつの間にか、ヨミはすぐそばにいた。
サキが襲われている間も、何も言わず、じっとこちらを見ていたのだ。
「それで、腹は決まったかい」
問われて、サキは、息を大きく吸い、吐きだし、言った。
「うん……。やっぱり、私は生きたい。生きて、私にできることを、探したい」
そこまで言うと、サキは堪えきれずにポロポロと泣き出した。
サキは、ずっと恐れていたのだ。
自分はショックから立ち直れるのだろうか
受け入れがたい現実を前に、再び折れてしまうのではないか、
友達は今まで通り友達でいてくれるのだろうか。
これから先、見たことがない苦難が自分を待っているのではないのだろうか
そんな、先の見えない不安が、サキを
「しっかりしな! このおたんこなす!」
ぴしゃり、とヨミはサキの頬を打った。
「現世で待っている、友達や、親は、どうするつもりさ!」
サキはハッとして顔を上げた。
そうだ、自分には帰りを待つ人がいるのだ。
そのことを、皮肉にも、魂の生と死を司るヨミに気づかされたのだった。
「もう一回だけ聞くよ。あんたは、帰りたいのかい」
「生きて……」
サキは、嗚咽混じりに、言葉を絞り出した。
「帰りたい……。もう一度、みんなに、会いたいよ……」
ヨミの表情が、ふっと緩んだ。
「いい顔だね。それじゃ、乗りな。送っていってやるよ」
「うん……」
サキは、目元をごしごしこすりながら、木船に向かった。
*
サキが木船へ歩いていくのを見て、ヨミはふぅ、と詰めていた息を吐きだした。
「さて、あんたはどうするかい」
クゥのことだった。
死神と対峙する黒猫は、淀みのない目でヨミを見つめた。
「あの嬢ちゃんのおかげでようやく決心がついたよ。……頼む」
「……はいよ。じゃあ、な」
ヨミは、目を伏せて、クゥの体をゆっくりと撫でた。
*
木船に乗り込もうとしたとき、ヨミが後ろについてきていないことにサキは気づいた。
振り返るとヨミは、こちらに背中を向けて屈みこんでいた。
「あれ、ヨミさん、来ないの?」
「はいはい、すぐ行くからちょっと待ってな」
そう言って、ヨミは振り返り、木船のほうまで歩き出した。
サキが見たときには、クゥの姿はどこにもなく、ヨミの背後に灰が散っているだけだった。
◇
サキは目を覚ました
見たことのあるつややかなカーテン、見たことのある白い天井。
そしていまサキが横たわっているのは、病院のベッドだった。
現世に戻ってきたのだ。
ベッドの横には、ノートが置かれていた。
サキは、慣れない左手でノートを開いた。そこにはいくつもの、震えて歪んだ線が書かれていた
サキは、だらんと垂れている、自分の右を見た。
ひじから先は包帯で巻かれている。腕自体も、今は思うようには動かない。
(夢……、だったのかな)
サキは、考えるのをやめた。今、ここで生きていることが重要なのだ。そう思った。
病室の扉が開いた。
「起きた……! 気分はどう? 気持ち悪くない!?」
私服姿のハナコが騒がしく駆け寄ってきた。
「うん、大丈夫……」
「うわああ、サキぃぃ……、心配したよお! サキってば、ずうっと寝てるんだもん!」
ハナコがサキの枕元に泣きつく。
サキは左手で、ハナコの頭をぽんぽんと撫でた。
「ごめんね、心配させちゃった」
ハナコを撫でる手は震えていた。
これから一生、この体と向き合っていかなければならないのだ。
そのことが現実味をもってサキの胸に迫った。
再び病室の扉があいた。サキの母親が入ってきたのだ。
目を丸くして自分を見ている母の姿を見ると、自分はずっと遠いところにいて、時間をかけてようやく帰ってきたのだ、とサキにそう思わせた。
「サキ、良かった……。気分はどう? 気持ち悪くない?」
「……それ、ハナコと全く同じこと言ってる。うん、大丈夫」
ふふ、と笑いながらサキは答えた。
「お母さん」
「うん? どうしたの、サキ」
サキは震える左手で母親の手を握った。
「心配かけてごめんね。……ただいま」
梅雨が明けた、晴れやかな日差しが、部屋の中を明るく照らしていた。
境界の迷い人 キリン🐘 @okurase-kopa
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