第6話 黒猫と、男


 サキは、泣いていた。

 流れ出る涙を指で拭うこともせず、崩れ落ち、ひたすらに泣いていた。


 クゥは四本の脚で立ち上がり、泣き崩れるサキの側へそっと身を寄せた。


「……嬢ちゃんが来るよりずっと前、ある男がここへ来た」


 クゥは、そういうと、静かに語り始めた。

 サキは、はっとして、クゥを見つめた。


「その男は、自称探検家の、変わった男だった。世界各地の、美しい景色を写真に収める。やつが執着していたのはそれだけだった。

 孤独で、その日食っていくのがやっとな生活だったが、男は満足していた。自分にしかできないことをやっているんだ、ってな。


 しかし、雨が降るある日、地盤の緩い山へ登ったところ、足を滑らせてそいつは死んだ。

 本当にあっさりした死だった。

 だが男は、死んでもなお、生へ執着した。

 だから、ここへ来たんだ。

 そして、この境界にきてすぐ、男は死神に会った」


「死神……」

 サキは出てきた意外な言葉に、息をのんだ。

 クゥは、ちらとサキのほうを見て、そのまま話をつづけた。


「死神を相手にしていてもヤツは怯むことなくこう言ったんだ。

『もう少し、境界ってのを見て回りたい。この世界を目に焼き付けたら、俺を現世へ放り返してくれ』ってな」


「男はまっすぐな目をしていた。何があっても信念が揺らぐことがない、そう自分を信じている目だった

 死神も、そいつの魂を、現世かあの世へすぐに送り出そうとはしていなかった。

 ほんの、気まぐれだったんだろうさ。

 そして、ひとしきり景色を見た後、あとは現世へ戻るだけ、となった。

 だがあるとき、そいつはこう思っちまったんだ……

 『現世へ帰ったとして、誰が自分を待っているのだろう』とな」


 クゥは、逆の方向へ向き直り、これまで歩いてきた道を、見るともなく見ていた。


「結局俺は、決断できなかった。そうして、魂は境界にとらわれ続けることになった」


 サキは話を聞きながら、ぼんやりと思った。

 クゥは気づいているのだろうか。


 いつのまにか、自分自身の話である、と、そう言ってしまっていることに。


「だが、それだけじゃあなかった。彷徨い続けた俺の魂は、他の魂を引き付けるようになった。

 死ぬ運命になかったやつまで、ここに呼び寄せちまうようになったのさ。

 輪廻転生の輪から外れて、ただ器のない魂だけになっちまえば、関係のない奴を引き付けちまうこともないんだろう。

 だが、それが分かっていながら怖くて決断できないんだ。……どうしようもなく、愚かな男さ」


「俺の中には、何人もの俺がいる。魂を受け入れる器も、いつの間にか人ですらなくなっちまった。

 もう、何が本当の俺か、だなんて分からない」


 クゥは、詰めていた息を吐きだすと、サキの目をまっすぐに見据えた。

「……嬢ちゃんは、帰りな。たとえ片手が使えなくなっても、できることは山ほどあるんだろうし、それに、お前には、帰りを待ってくれてる奴がいるんだろ」


 サキの脳裏に、ふわっと花が咲くような、ハナコの笑顔が浮かんだ。


「クゥ……」

「余計なこと話しすぎちまったな。行くぞ」

 クゥはそのまま歩いて行った。


 サキは、穴の開いた胸の内に、あたたかいものがすうっと沁みるのを感じた。


 無愛想だけど、優しい。不器用だけど、サキ元気づけようとしてくれたのだ。

「うん……、行こう」

 サキは涙をぬぐい、再び歩き出した。


 一人と一匹は、曲がりくねった道を下っていった。

 歩くふたりの距離は、近くなっていた。

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