後編

それはいつも九条や渚たちが練習している流派の引き方ではなかった。驚いている渚の前で、九条は淡々と慣れた様子で引き続けていた。体の左で既に矢の長さの三分の一程を押し開いた状態で、大きく弓を打ち起こす。そこからゆっくりと会に入る。左右に大きく伸びる姿は、けれどいつもと変わりなかった。静寂の中に弦音が響く。真っ直ぐ飛んだ矢は吸い込まれるように的に中った。そして九条も本座に戻る。本来の射詰なら、二人がどちらも的中したのでそのまま二本目を引くはずなのだが、目の前で起きたことに動揺した渚は、射場であることも忘れて九条に歩み寄ってしまった。


「九条さん、どうして斜面打起しで引いたんですか?どこであの引き方を練習したんですか?」


詰め寄るような少し強い口調になってしまう。弓道にはいくつも流派がありそれによって引き方に違いも出てくる。その中でも大きな違いが、正面打起しか斜面打起しかの違いだ。普段練習しているときはお世話になっている師範の流派が正面打ち起こしなので、渚たちは全員正面打起しで練習している。しかしさっきの九条は斜面打起しで引いたのだ。しかも九条の動きにぎこちなさは全く無くて、その引き方に慣れているのは一目でわかった。一体どこで流派の違う引き方を身に着けたのだろう。


「射詰の途中だぞ」


九条は渚の質問には答えず、はぐらかすようにそう窘めた。


「そう言っても、九条さん!」


語気を強めた渚に対して、視線を合わせないまま九条は


「とりあえず乙矢は引いてしまおう」


と言った。渚はしぶしぶ二的の本座に戻る。しかし九条の引き方のことが気になり、もはや射詰どころではなかった。離れの瞬間に弦が親指にひっかかり、矢は的の上の方へ大きく外れて安土に刺さった。渚は足早に射場から出て、九条が引く乙矢を見守る。やはり今度も斜面打起しで引いていた。会も安定していたが離れた矢は的の二時の方向へ外れ、すっと砂に刺さる音だけがした。二本目は二人とも的中せずだった。


 九条は射場を出るとそのまま弓を弓立てに置き、弓懸を外した。そして渚の方を見ると


「森波も一旦外しな」


と言った。渚は慌てて持っていた弓矢を置き、弓懸と胸当てを外した。そして正座のまま一歩二歩、九条の方へにじり寄った。


 九条はどこから話し始めるか考えあぐねているようにしばらく顔をしかめさせていたが、唐突に


「高校の頃に斜面打起しだったんだ」


と口にした。


「高校って、それじゃあ大学に入る前から弓道やっていたんですか?」


「ああ。弓道を始めたのは高校の時、叔父が市の弓道大会で優勝したのを見て憧れて始めたんだ。僕がいた地方は斜面打起しの方が主流だった」


「でも、それならどうして弓道未経験だなんて嘘ついたんですか。あんなに上手いのに、わざわざそんな嘘吐く必要ないじゃないですか」


渚の質問に一瞬口を閉じる九条。話そうと思っていたことを、本当に話していいのか迷っている、そんな風に渚には見えた。やがて九条はぼそりと呟いた。


「自分は、弓道を一から始めるべきだと思ったから、かな」


「一から、ですか」


「高校の弓道部の同級生に杏子(きょうこ)ってやつがいたんだ。練習熱心で的中率も良くて、何より弓道が本当に好きだった。学校の道場でも市の道場でも、暇さえあれば練習に行っていたよ。二人で練習すると、よく僕の悪いところを教えてくれたりもした。でも高校二年の秋頃から、杏子の的中は急に悪くなった。初めのうちは練習が足りないんだって言って、今まで通り熱心に練習していた。けれどなかなか中るようにはならなかった。その内に的中を後輩たちに抜かれ、大会や試合でもメンバーから外されるようになったんだ」


九条は滔々と語っていた。感情的でもなく、まるで温度がないかのように事実を淡々と伝える話し方に、渚は逆に身のすくむ思いがしていた。その人の境遇は今の渚と重なる部分があったのも理由かもしれない。でもそれだけじゃなかった。自分から完全に切り離したような九条の物言いに、むしろどれほどこの経験が九条にとって深く心に残っているのかを渚は感じてしまったからだった。


「僕は前にも増して一緒に練習をしては、引き方を見たりアドバイスをしたりした。でも前みたいに中るようにはならなかった。徐々に杏子は練習にも来なくなったんだ。そして最後の大会の前に、あいつはぱったりと部活に来なくなった。退部したことを顧問から聞いたのは二週間もたってからだったよ」


顔を見られなくて渚はそっと目線を下げた。最後の言葉は、九条が自分自身に向けた自罰の言葉にも聞こえた。


「で、でも、練習して出来るようにならなくて、それで部活を辞めてしまうことがあったとしても、それは仕方のないことじゃないですか。そのまま続けることも出来たし、やめることを選んだのはその人ですよね」


九条自身の言葉から九条を庇うように、渚は震える声で反論する。その言葉に九条はふふっと鼻で笑った。冷たく乾いた笑い方だった。


「僕も杏子に言ったんだ、何も止めることは無いだろうって。そしたらあいつ、言ったんだ」


九条は小さくつぶやいた。


「どうしてもっと早く諦めさせてくれなかったんだ、って」


渚は返す言葉が見つからなかった。九条はなおも淡々と語っていく。


「自分には弓道の才能なんてないのに、あんたのせいで馬鹿みたいな努力を続けてしまったって。私は本当は、弓道なんて大嫌いだった。……そう言ったんだ。それっきり、あいつと話すことは無かったよ」


「そんな言い方……!」


反射的に何かを言おうとした渚を九条は遮った。


「本心じゃなかったさ。ただそれだけ、あいつは弓道に対して全力だったんだ。あいつなりの『悔しい』だったんだ。でも僕はその言葉に何も言えなかった。励ましも慰めも、何一つ思い浮かばなかったんだ。偉そうに引き方の指導なんかしてみて、必ず的中が戻るとか根拠の無い自信だけ持たせて。聞こえの良いことを散々言ってきたのに、その責任を僕は取れなかった」


そして九条は吐き捨てるように言った。


「僕が杏子から弓道を奪ったんだ」


こんな九条を渚は見たことがなかった。


「好き、だったんですか、その人のこと」


聞くべきではないのに、渚はそれでも聞かずにいられなかった。九条は少しだけ考えてから


「いや、あいつに対しての思いは、後悔だけだったよ」


と言った。絶対嘘だと渚は思った。こんなに短い話の中からでも、九条がどれほど、杏子と呼ぶその人と、弓を引くのを楽しんでいたかが伝わってきたのだから。彼女である渡辺さんのことですら、人前で名前で呼んでいるところなど聞いたことがないのに。例えそれが後悔であったとしても、その人に対する九条の感情の大きさは明らかだった。


「だから……だから一から弓道を始めたんですか」


「改めて向き合ってみたかったんだ」


渚はなぜか心の内にふつふつと怒りが湧いてくるのを感じた。


「それで、一から始めるという言い訳で、その杏子さんとの時間を無かったことにしたんですか」


九条は驚いて顔をあげる。そして渚の表情をじっと見ると、何故か頬を緩めた。


「厳しいなあ、でもその通りだよ。楽しかったはずの思い出を封印したんだ。森波の、その勘の鋭さにはいつも驚かされるよ。まあ森波のそういうところを信頼してなければ、こんなかっこ悪い話できないけどな」


そう言って九条は渚の肩を軽くポンと叩いた。


「さあ射詰の続きだ。まだ奢る方が決まってないからな」


九条はすっと立ち上がると弽を取って、渚から少し離れたところで素早くつけている。しかし渚は動けなかった。聞いた話に対しても、九条に対しても、まだ気持ちが定まらない。怒っていいのか泣いていいのかすらも分からなかった。


「さあ引くぞ」


九条は既に弓を取りながら渚の背中に向かって、明るい口調でそう投げかける。


「九条さん」


その声に渚は絞り出すように呼び掛ける。物音がぴたりと止まる。


「どうしてそんな話、私だけにするんですか」


九条は答えなかった。時計の秒針の音さえ聞こえるのではないかというほどの静けさ。風さえ微動だにしない沈黙。


 やっぱりそうなのだ。渚は思った。最近的中が出なくて、みんなに隠れて日曜日にも練習に来ては数をこなしていたけれど、以前のような勘さえ失って悩めば悩むほど中らなくなっていた渚のことを、九条は杏子と重ねていたのだ。そう考えて、ふと思い当たることもたくさんあった。あえて渚のことを避けるような態度も、他の部員に比べて渚に対する助言が少ない気がしていたのも、過去の後悔から必要以上に渚と距離をとっていたということなのだ。そのくせ日曜日に隠れて練習していることを九条は知っていた。


「ずるいですよ」


渚は言った。


「そんなのずるいですよ、九条さん」


もう一度はっきりとその言葉を口にする。


「勝手に過去の人と私を重ねて、勝手に距離をとって、私が練習していることは知っているくせに見てみぬふりで。そんなのずるいじゃないですか。私は……、私は九条さんのことを目標に頑張っていたのに、勝手に逃げないでくださいよ」


立ち上がり振り返って九条を正面から見据える。


「私は逃げないです。九条さんを追いかけていたこの時間から、絶対に」


これじゃあまるで告白してるみたいだと、頭の片隅で渚は考えていた。でもこの言葉は本当に心からの気持ちだった。どんなに上手くいかなくても、例え弓道を嫌いになるほど思いつめたとしても、九条を目標にして努力した時間を後悔したりしない。徐々に弓力も上げて、的中も安定して、出来ることが増えていく楽しさも、時折くれた九条からの言葉も、その瞬間の喜びは何があっても消えないし変わらない。


「私はそんなに弱くないですよ」


渚が言うと九条は笑った。さっきまでの冷たい笑いではなく、渚が憧れたあの笑みだった。


「ああ、そうだな」


はっとして渚は急いで弽をつけて弓と矢を持つ。それ以上言葉を交わすことなく、さっきと同じく二人で続けて射場に入った。射詰の三段目だ。本座で揖をしたあとで、九条がいきなり口を開く。


「今度は僕から引いていいか?」


「はい」


二人で射位に入る。矢番えまでが終わったところで渚は一度動きを止める。後ろで九条がそのまま引き始める。取り懸けの後で一度押し開いた気配がしたから、恐らく今度も斜面打起しで引いているはずだ。弦が引かれるぎりぎりという音がして、そして静かになった。会の時間がいつもより長いことに渚は気づく。本気で中てにいっているのだ。息詰まる刹那、あの鋭い弦音がして木と金属がぶつかる高い音が射場に響き渡った。これで渚が外したら九条の勝ちだ。気を引き締めると、渚は取り懸けた。


 弓を打起し、そしてゆっくりと会に入る。杏子から投げつけられた八つ当たりのような悪意を、九条は律義に受け止め、それからずっと返すべきだった答えを探していた。さっきの話を聞いてから渚はずっと思っていることがあった。結局私は、九条さんにとって杏子さんの身代わりでしかない。あのとき出来なかったことを、今度は渚相手にやり直しているだけなのだ。それを思うと言いようのない淀んだ気持ちがこみあげてきた。的が揺れる。その瞬間右腕の力がふっと抜けるのを感じた。このままだと離れが出ない……。


「渚!緩むな!」


後ろから九条の声が轟いた。ぐっと噛みしめて抜けかけた右腕にもう一度力を込める。ぶれた狙いをもう一度合わせて、左手でぐっと矢を押し込みながら大きく離れた。


 矢は風を切って真っ直ぐに進み、的の真ん中を突き刺した。

 残心と一緒にふうっと思わず息が漏れる。足を閉じて射位を抜け振り返ると、九条が既に射位から抜けて渚の後ろで今の射を見ていた。


「完璧だな。文句なしで森波の勝ちだ」


「えっ、さっき九条さんも中てましたよね?」


「いやさっきのは的枠を蹴って安土に刺さってた。射詰の優勝は森波だよ」


「優勝って、二人しかいないですけどね」


少しすねるような言い方になってしまった。二人は一旦礼をして射場を出てきた。そして弓矢を弓立てに片付けてから、改めて九条は渚に言った。


「今のは良かった。途中で力を入れ直したから少し力任せな感じもあったけど、なんというか、すごく綺麗な射だったよ」


緩みかけたところで引き直しているのだから、本当に綺麗な射だったはずはない。それでも九条がそう言うのは、何かが今までと違ったからだ。渚自身も今の射にはこのスランプを抜ける手応えがあったと感じていた。


「その調子だな。よし、一旦矢取に行くか」


「あ、はいっ」


渚と九条は勝手口を出てサンダルを履くと、矢取道を通って的場の方へ向かった。その途中で九条は渚を呼んだ。


「森波」


「はい?」


「昔読んだ本で、ある女の人が『私は娘と夫のためになら死ねる。でも一緒に死ぬのならお前だけだ』って台詞を、長年の相棒に言うってシーンがあったんだ。その時は意味が分からなかったけど、今なら少しわかる気がする」


唐突な九条の言葉の真意は、渚には分からなかったけれど、何となく言いたいことが分かるような気もした。誰もいない射場に向かって、やっぱり手を叩いて声をかける九条。二人は並んで自分の矢を的から抜く。


「僕はただ、一緒に引くことを楽しみたかったんだろうな」


誰に言うとでもなく、独り言のように呟いていたのが渚にもぎりぎり聞こえた。それは過去の自分に対する本音なのだと思う。


「あんな話をしたりして、僕はどこか森波に甘えていたんだ。僕にとって特別な仲間であり戦友ってことなのかな」


渚に向かってそんな風に九条は続けた。矢についた泥や砂を取り切って、再び射場に戻る。九条は歩きながら、前を向いたままで後ろを歩く渚に呼びかけた。


「一応言っとくけど、杏子と森波を重ねたことは一度もないよ。僕にとって森波はあいつの代わりじゃないさ。真っ直ぐに弓道をしている、そんな芯の通った姿に、本当は僕の方が憧れていたんだ。ま、部員の中で一番の推しメンだったしな」


最後はあえて軽口のように誤魔化していたけれど、渚にとってその言葉は、ずっと追いかけてきた先輩からの最高級の賛辞だった。


「いいんですか、渡辺さんより特別ってことになっちゃいますよ?」


「いや、そこは良い感じに空気を読めよ」


呆れた風な九条の言い方が面白くて、渚は声を出して笑った。


 射場に戻るなり、終わりだ、と九条が宣言した。


「練習は終わりだな!」


通達するように改めて言う九条に突っ込む渚。


「えっ、終わりなんですか?」


確かに射詰は終わったけれど、まだまだ引くつもりでいた渚は拍子抜けする。九条は時計を指さしながら、


「そろそろ午後練習の人たちが来始めるころだし、第一もう昼ごはんの時間だろ?せっかく美味しいもの奢ってやるんだしな」


と言ってにやりと笑った。


「あ、さっきの射詰……?っていやいや、奢るのってジュースじゃなかったんですか?」


「先輩から提案しといて負けたくせに、ジュース一本って訳にはいかないだろ?ほら、早く片付けてお昼にするぞ」


「本当にいいんですか?」


「もちろん」


九条がグーサインを作って見せた。


 片付けている九条の後ろ姿を見ながら渚はふと手を止めた。この気持ちはただの憧れだとも思う。別に今の九条の彼女と張り合おうなんて思ったことは無いけれど、それでもこれは『好き』なのかもしれない、とも思う。けれどこの想いを別の形にしてしまう前に、もう少しだけ今のままで持っていたいと渚は思った。明日の夕方にはまたいつもの練習がある。さっき掴んだ感覚もすぐには身につかないだろう。でも、明日はこれまでより少し自信をもって引ける。そんな気がしていた。


「九条さん、私今日めっちゃお腹空いてるんですけど、たっくさん食べていいですか?」


それを聞いて九条が一瞬眉根をひそめる。


「まあいいだろう、たくさん食べたまえ」


「やった!」


露骨にガッツポーズする渚を見ながら優しそうに笑う九条の表情に、渚も自然と笑みがこぼれた。

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弦音 シャルロット @charlotte5338

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