弦音
シャルロット
前編
渚が弓道場の玄関を入った瞬間、空を切る鋭い弦の音と高らかな中(あ)たりの音が響いた。二重に張り付けられた的紙の中心を突き抜ける真っ直ぐな矢と、残心の姿で凛と立つ射手(いて)の後ろ姿。それは見慣れた光景であるはずなのに、なお渚の胸にぐさりと突き刺さった。
大学に入ってから始めた弓道だけれど、そんな渚にでもわかるほど、今のは完璧な的中だった。我に返って靴箱に草履を入れながら、渚は再び射場の方へ視線をやった。本当のことを言えば的中の音を聞いたときから、誰が引いているのかは想像がついていたのだけれど、それでもその背中を確かめてしまう。的中の音というより、その直前の弦が返る音を聞いて、というべきかもしれない。聞きなれたあの鋭く真っ直ぐな弦音(つるね)は、間違えるはずもなかった。
朝の光の中で、その人は静かに弓を起こして乙矢(おとや)を番(つが)えた。二本の矢を一手(ひとて)と呼び、その1番目の矢を甲矢(はや)、2番目の矢を乙矢と呼ぶ。羽の部分で見分けるのだが、去年の今頃はそんな基本的なことも渚には難しく感じられた。そんな始めたばかりの渚にとっても、九条一成(くじょうかずなり)の射(しゃ)は力強さと美しさをひしひしと感じさせるものだった。曲がりなりにも1年間続けた今なら、それが当時感じていた以上にすごいことなのだと分かる。だからこそ九条が弓を射る姿は、今の一瞬でさえ渚の心を揺さぶり釘付けにするのだ。
九条は、入ってきた渚のことには気づいていないようだった。弓を目の高さに掲げると、すっと立ち上がる。自分の準備をすることも忘れて、渚はまじまじと彼の射を見ていた。
弓の下端、本筈(もとはず)と呼ばれる部分を膝に乗せ、左手で支えた状態で一呼吸を取る。弦に目を通して確認し、番えた矢に沿って的の方を見据える。そのまますっと目線を矢の筈(はず)に戻し、腰に置いていた右手で弦を取り懸ける。そのまま大きな円を描くように弓を高く持ち上げた。的の方に顔向けすると二十八メートル先の的をきっと見据え、そのまま左手を押し開く。弓は三分の一開かれて、矢尻が光を反射して一瞬きらりと光った。おもむろに弓を引いていくと、矢は水平を保ったままゆっくりと頬の位置まで下がっていった。体中に力が満ちているような堂々とした構えの会が数秒続く。その沈黙の時間に、渚は息をするのも忘れる。そして糸が弾けるように右手が大きく開いたかと思うと、さっきと同じ鋭い弦音とそれに一瞬遅れて的中の音が響いた。誰もいない弓道場にその音は再び強くこだまする。残心の後、弓を倒してゆったりとした動作で姿勢を戻し、退場のためにこちらへ向き直ったところで一瞬目線が合う。しかし相手はさして驚いた風もなく、渚のことを認めると少し笑って、そのままの歩みで進むと一礼をして射場から出てきた。
「やっぱり森波(もりなみ)だったんだな」
弓を持ち上げながら、九条は柔らかく言った。さっきまでの凛とした剣のような雰囲気が一瞬にして解けて、いつもの先輩の顔に戻る。
「やっぱりって私が入ってきたこと気づいてたんですか、九条さん」
渚が聞くと、九条は弓を弓立てに戻して、すっと床に正座しながら答えた。
「いや引き終わってこっちを見るまで、人が入ってきたのには気づかなかったよ。でも日曜のこの時間に、森波が練習に来ているのは何となく知っていたから」
右手につけていた弓懸(ゆがけ)を外しながら何てことなさそうに九条は言う。しかしそれを聞いた渚は、リュックを背負ったまま、片手に持った矢筒を杖のように床に立ててぽかんとしていた。
「えっ、私が練習に来ていたのを知っていたって……」
「僕もよく日曜の昼頃に練習に来ていたけど、必ず森波の弓が倉庫の手前に置かれていたから。きっと朝来ているんだろうと思っていたんだ」
ああそっか、と渚は思う。この部活は大学の敷地内に、専用の弓道場を持っていないから市の道場を毎回一部借りながら練習させてもらっている。市のものなので社会人の会もいくつか曜日を決めて練習しているのだが、利用者はみな裏手にある倉庫に、使っている弓や矢筒を仕舞うことが出来るようになっていた。自分たちが木曜の夜に練習して弓を片付けると、金曜と土曜に練習する人たちの片付けた弓がその手前に重なることになる。本来なら部員の弓はある程度奥に追いやられるはずなのだ。それが日曜の昼に手前に置かれているのは、直前に渚がその弓を使ったということを示しているわけだ。しかしそんな小さな変化に気付いていたなんて。渚はちょっとびっくりした。
「最近森波が自主練習しているんだろうとは思っていたんだよ。まあ僕もここ何回か、日曜に練習しに来るようになって気づいたんだけど」
「九条さん、さすがですね。そんなところ見られていたとは思いませんでした」
「変なところによく気が付くだけだよ。それにしてもこんな朝早くから練習していてさすがだな。僕が見かけてないってことは、僕が来るより先に帰っちゃうんだろう?」
「あ、ええまあ。なるべく人がいないときに引きたいと思って。日曜の朝は曜日ごとの練習も組まれてないですし、こんな早くから練習に来る人もいないので早めに引いて早めに帰ってました。あ、でも、今日は九条さんに見つかりましたけど」
「見つかりましたって別に悪いことじゃないだろうに。今なら好きなだけ引けるぞ。僕はとりあえず矢取(やとり)に行ってくるよ」
「あ、はい」
九条は矢を回収しに外へ向かった。弓道の的は安土(あづち)と呼ばれる盛土の上に並べられているので、刺さっている矢を外した後で、矢尻についた泥をしっかりタオルで拭かなければならない。さもないと持ち帰ってきた射場の中が、砂まみれになってしまう。
渚は持っていた矢筒をひとまず弓立てに置き、リュックを荷物置き場に置いてから九条を追って弓を取りに倉庫へ向かった。誰も射場に入っていないのに律義に手を鳴らし「入ります」と宣言する九条。それを横目に見ながら渚は奥の倉庫へ入る。部員の弓が置いてある辺りを見ると、確かに今は、渚の弓が他の部員たちの弓に埋もれて奥の方にあった。それらをかき分けるようにして自分の弓を取り出す。射場に戻る途中で渚はもう一度、九条を盗み見る。備え付けの雑巾で六本の矢についた泥を拭いている九条に、見ていることを気取られないように横を足早に通り過ぎる。
九条はとても上手い射手だった。練習でも大会でも常に七割近い的中率を崩すことはなく、そのうえ射形も綺麗だった。弓道をする人の中には、的中率は良くても射形が崩れている人というのもいる。大会で的中のみを競うのならそれでも良いのだが、この部は道場を借りて社会人の人たちと一緒に練習している関係もあって、的中だけを求める姿勢はあまり感心されなかった。そんな中でも九条はよくバランスがとれていて、後輩である渚から見て素直に模範となる先輩だった。大学から始めたとは思えないほどだった。
実際、九条が入部した当初は多少動きにぎこちなさはあったものの、初心者とは思えない上達ぶりで、教えていた先輩たちから経験者ではないかと何度も疑われたほどだという。しかし本人曰く、親戚に数回真似をさせてもらったくらいで、ほとんど初心者と変わらないという。入部当初からの高い的中率を守っているのを見ると、本当に弓道のセンスのある人なのだと渚は思っていた。
渚は手早く弓と矢を取り出し、弽をつけて準備をしていく。練習用の巻き藁(まきわら)で二本引いて少し調子を整えてから、一手持って射場に入った。矢取をしたばかりだからどの的に入っても良いのだが、さすがに九条の後で大前に入るのは気が引けて、渚は三的に入った。
礼をして射位に進み、足踏みをして弓を構える。取り懸けの力加減や大三の高さ、両手の押す力と引く力のバランス。いつもと同じように意識をしながら、一つ一つが狂わないように会を保ち、そして離れを出す。しかし矢は砂に突き刺さる鈍い音をだけをさせて、的の二時の方向に外れた。乙矢も外れ、九時の方向に甲矢のときよりも距離をおいて安土に刺さった。射場を出ると、ふう、と思わずため息が漏れてしまう。
「綺麗に引けてはいるんだけどな」
後ろから見ていた九条が、弽をつけたまま渚の方へ歩いてきた。
「そうですか……」
渚自身も、今の二本は決して悪くないと思っていた。大きく崩れたところもなく、これまでなら二本の内どちらかは的に中たっていてもおかしくない射だったと思う。しかしここ1、2カ月はこの調子でなかなか的中が出なかった。悪い部分がはっきりすれば改善の余地もあるけれど、今回のスランプは何が悪いのかよくわからない。引いても引いても先が見えないと言うか、泥にはまっていく感じがあった。弓道の難しいところは、射形が悪くても的中する人の逆で、射形が整っているのに的中を出せない場合もあるということだった。
「せっかく九条さんがいるので、とにかく矢数を引いてみます。なんか変なところがあったら教えてください」
「え、あ、ああ」
九条は何故か少し虚を突かれたように、詰まりながら答えた。前のめりになりすぎただろうかと渚は思う。しかし九条はそれ以上戸惑う様子もなく、普通に弓と矢を取って射場の入り口に立つ。渚も慌てて一手持ち直すと、九条の後ろから射場に入った。
そこからはしばらくお互いに特に会話もなく引いていった。九条の的からは相変わらず的中の音が響いていたが、的を蹴る固めの音や安土に刺さる鈍い音が一、二度交じった。渚の方は引いていて大きな違和感がないのに、矢所も安定せず満遍なく安土に抜いていき、時に的のやや外側に的中が出る感じだった。
前で引く九条の背中を渚は盗み見る。気づいたら渚にとって、九条は大きな目標になっていた。練習に来ている九条を見る度にどこかほっとするような安心感があって、けれど弓道の上では追いかけ、追い越していきたい人でもあった。真面目に練習している姿か、真摯に失敗と向き合う強さか、あるいは周りの部員や後輩とちゃんと関わり陰に日向に皆を引っ張っていく人柄か。そのどれもが渚にとって眩しくて心惹かれる部分だったと思う。
二十分ほど引いただろうか、二度目の矢取から渚が帰ってくると、九条は一旦弽を外してペットボトルの水を飲んでいた。矢返し箱に矢を入れると金属の矢尻が木を叩く音がやけに大きく聞こえた。
「最近暑くなってきてるし、森波もちゃんと水分取っとけよ」
「一応水筒持ってきてますけど、私あんまり汗かかない体質なんで大丈夫です」
「それ逆に大丈夫なのか?」
怪訝そうな顔でこっちを向く九条。渚は右手でオッケーの丸を作りながら、わざとらしく笑ってみせた。とあるTVタレントがやっていて、一時期流行ったやつだ。
「かわいくねえな」
「え、ひどくないですか?」
「せっかく心配してる先輩に、そんなとってつけたような笑い方で返す後輩のどこに可愛げがあるんだよ」
「いやいや、可愛さの塊ですよ?」
「はいはいっと」
手をひらひらと振って九条はそっぽを向いて見せたが、その横顔がほころんでいた。時に出るこうした先輩後輩を感じさせないようなやり取りも渚は好きだった。ちゃんと尊敬できる部分はあると同時に、少しからかうと面白いのもこの人の茶目っ気なのだと思う。でもそれは、少しおどけた態度でしか九条と会話ができない自分の言い訳なのだということも、渚は心のどこかでわかっていた。
「そういえばいつも九条さんは、一人でこの時間に練習に来てるんですか?渡辺さんと一緒に来ればいいのに」
渚は九条の彼女のことを口にした。ああそのことか、と九条は再びこっちを見る。
「そんなに始終一緒にいる感じでもないんだよな。それぞれで行動する時間は割と干渉しないというか。そのくせ夜になっていきなり転がり込んできたりするけどな、あいつ。テストの前日とかに」
その屈託ない言い方はいつも通りの九条だった。惚気けるわけでも、話題を避けるわけでもない。渚も別に普段はこんな話題を振るキャラでもないのだが、二人だけで練習してるせいでいらないことを口走ったようだ。渚が入部した時にはすでに付き合っていたようだったから、もう長いこと続いているのだろう。そのことを知ったのは入部してから随分経ってからだった。
「いきなりそんなこと聞くなんて、めずらしいな」
渚の心中を見透かしたような九条の言葉に少しドキリとする。
「いや、何となくなくです」
今日はやけに落ち着かないなと渚は思う。普段の練習で九条たちが二人でいるのを見ても何も感じないこともあれば、時にこんな風に彼女のことを語る姿を見て言いようのない息苦しさを感じてしまうこともある。でも渚が感じているこの気持ちは、一言で表せるような分かりやすい感情では無かった。人を好きになったときのあの焦がれるような高鳴りはよく知っている。でもこれはまったく別の物だった。もっと静かでもっと気まぐれな何か。二人でいることを意識しすぎなのかもしれないと渚は思う。思い返すと、何気なく話をする機会は多いけれど、二人きりというのは無いシチュエーションだった。
その理由の一つは、九条が渚を避けているらしいことだった。他の後輩たちと比べて、九条は渚に対してあまりアドバイスをしようとはしなかった。他の先輩たちにも言われたことだが、渚は割と素直に引けるようになった部類らしい。だから九条も、あまり言うことも無いと思っているのかもしれないけれど、渚としてはそのことに対して複雑な思いを抱かずにはいられなかった。追いかけている人だからこそ、その人に自分が弓を引いているところをきちんと評価して欲しいと、そんな風に思ってしまうのだ。
「相変わらず九条さんは的中すごいですね。さっきからほとんど外していないじゃないですか」
何となく渚は話題を反らす。
「いや、そんなことはないよ」
そう答える声は、しかしどことなく元気がなかった。
「ただ引いているだけって感じなんだ。最近は弓を引くときの張りつめた感じが、昔ほど……いや何でもない」
何かを言いかけてやめる九条。机から弽を取りながら正座して準備を始める。小さな違和感を覚えて、渚は九条の横顔を見下ろしていた。俯いたままの九条は弽をつける手を止めると、渚の方を見ないままで言った。
「射詰(いづめ)するか」
予想外の言葉に渚は一瞬固まった。
「えっ、いきなりですか」
突然のことに驚く。射詰は弓道における勝敗の付け方の一つ、いわゆるサドンデスだ。順番に一射ずつ引いていき、外した時点で負け。九条と射詰をしたことなど今まで一度もないのに、いきなりどうしたのだろうと渚は思う。それ以前に的中率が違いすぎる九条と射詰をしたところで、渚が負けるのは目に見えているのに。
「負けたほうが勝った方にジュースを奢る。それでどうだ?」
いつもは柔和な感じを崩さないはずの九条が、しかし今だけは有無を言わせない強さがあった。そのただならぬ雰囲気を渚は敏感に感じ取っていた。もちろん勝ちを確信して後輩にジュースを奢らせようと、こんな無体な賭けを持ち出した訳ではないことを渚もよく分かっていた。
「二的と三的で引こう。僕が後ろの方が良いよな」
後ろの的に入るということは、前の人が中てたら必ず中てなければいけないプレッシャーがかかるということ。それくらいは先輩としてのハンデということだろうか。でも九条の意図が渚にはまだ完全には掴めていなかった。
交わす言葉も見つからないまま、渚はそそくさと弽をつける。とりあえず一手を持って射場の入り口に立った。後ろにすっと九条が立つ気配がする。背筋が伸びて少し緊張が走った。普段の練習の中では、こんなに九条の気配を背中に感じることなどない。いや初めてのことではないだろうか。それは九条自身のただならぬ雰囲気のせいか、あるいは渚が過度に気にしているせいか。九条は背丈も決して大きく変わるわけではないはずなのに、背後に立つその雰囲気は包み込むほどに大きくて、そのくせ心がざわつく渚のことを見透かすような鋭さがあった。
「入ります」
その雰囲気に気圧されながら、それでも渚は的場の方を見据えてはっきりと口にする。お願いします、と九条が落ち着いた口調で言った。左足を進め、もう慣れたその動きを一つ一つ確認するように一礼し、二的に向けて歩を進めた。ここからは自分のことだけを考える、真剣勝負なのだ。渚は自分にそう言い聞かせ、九条の気配を意識の外へ押しやった。
九条が三的の本座につく。一呼吸を置いて、揃って礼をする。そして射位に進んだ。足踏みと胴造り、そして甲矢を弓に番えて乙矢は右手に取る。先に引く渚はそのまま動きを止めずに右手で矢を取り懸けた。大きく打起して顔向けをする。的はいつもと同じく遠くもなければ近くもない。左手を押し開き、力が入りすぎないように気を付けながら、ゆっくり落ち着いて会に入る。体が示す縦の線と矢が示す横の線が正しい十字を描くように、左右に大きく伸びる。小刻みに揺れる左手を徐々に正しい狙いに行くよう調節して、親指の付け根で的に向かって矢を押し出すイメージを持つ。離れてしまいたくなる気持ちを抑えて納得のいくところまで力の均衡を体の外側に広げていく。
一瞬の後、右手は大きく開かれる。
弓は左手の向こうを回ってくるりと回転する。
トンっと小気味よい音をたてて矢は的に中った。手応えのある射だった。渚はゆったりと弓を倒すと向きを変えながら足を戻し、的に正対して一歩後ろに戻った。
渚が見ると、九条は既に取り懸けに入っていた。無駄のない動作で弦を取り懸ける姿を見ると、いつもの堂々とした九条そのものだった。しかし渚は何とはなし違和感を覚えていた。取り懸けるときの弓の位置が、いつもより少し体の左にずれているように見える。それに気づいたとき、九条は弓を打ち起こすことなくそのまま左に大きく押し開いた。
「えっ、違う……!」
思わず口から声が漏れた。
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