第五話 事故


 言いながら、彼は打って変わって険しい顔で虚空を睨みつけている。

 薫もそちらに目をやった。

 けれども、そこにあるのは石畳の路地と大勢の観光客。両脇に軒を連ねる土産物の町屋だけ。


「……あの」


 握られた手から伝わる緊迫感に薫は眉を曇らせた。

 何の変哲もない光景に、逆毛を立てた獣のような目を向ける、見知らぬ彼が恐くなる。


「ちょっと……、あの、僕」


 急いでいると言いかけて、諭すように告げられた。


「いいから待って。動かないで、ここにいて」

「えっ?」

「危ないから」


 語気を強めて言い切ると、力づくで薫はぐいと引っ張られる。

 彼もまた、じりじり後ろに退いた。

 何がそんなに危ないのか。薫は前方と彼を交互に見た。


 疑心暗鬼でもう一度、危険の意味を訊ねるため、口を開いたその刹那、暴走車に路上駐車の車と街路樹と人間が、なぎ倒されて潰される。

 ほとんど同時に、とてつもない爆音が薫の耳をつんざいた。


「い……っ!」


 思わず声にならない声が出た。

 反射的に背を向けて、気づいた時にはその場にしゃがみ込んでいた。

 薫が恐々振り向くと、横転した乗用車が路地沿いの町屋に突っ込んで、真横に道を塞いでいた。


 黒煙を上げる乗用車がめり込んだ町屋は、二階の窓まで砕け散り、粉雪のように閃きながら落ちている。

 観光客の喧騒も、店番達の呼び込みも消し去られ、硬直した静けさだけが残された。


「下がって、危ない! 爆発する!」


 そんな悲鳴じみた野太い誰かの声がして、薫ははっとして目を上げた。

 甲高い絶叫や救急車を呼べという切迫した声。

 逃げ惑う人々の喧騒で修羅場と化し、茫然自失の薫にぶつかり、転倒する老人さえいる。


「こっちへ」

 

 と、薫の肩を抱き込んで、事故現場とは対岸の路地裏まで連れてきたのは、先程の彼だった。

 そんな彼の肩や髪にもガラスの破片が付着して、頬にも微かな傷がある。


 薫を射抜く彼の目は、不慮の事故に遭遇しても動揺している様子もなく、場違いなまでの深い諦念に満ちている。

 だが、もし引き止められることもなく、 あの路地の先のコインパーキングまで歩き始めていたのなら。


 薫は再び振り向いた。


 行こうとしていた路地を突っ切り、正面の町屋の壁を突き破り、一階部分に斜めに運転席までめり込ませた乗用車は、数回の破裂音を響かせた直後、火柱を上げて燃えだした。

 やがて、その燃え盛る炎の中から焼け焦げた半裸の男が自力で這い出し、現れた。


 幽霊のように胸の前に伸ばされた両手の先には、溶けた皮膚がろうのように垂れ下がり、赤黒くただれた頬の上には、飛び出た目玉がおもちゃのように揺れている。

 また、黒煙から大勢の人から引きずり出された女性のコートや髪からは、白い煙が上っていた。


「あっ……、あ……」


 薫は土塀に背中を貼りつかせ、震えることしかできずにいた。

 しかし、ぬるりとした感触を掌に覚え、何の気なしに右手を見た。

 それがまだ痙攣している生温かい人間の肉塊なのだと気づいた瞬間、不意に視界が反転し、薫は意識を失った。

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