第3話
「1回止まろう」
力ない真理の言葉に、幸子は静かに看板を下ろした。
「結構進んでるよ」
幸子は山頂を見上げて言った。気まずい空気が流れる気配を察し、先手を打ったつもりだったが、看板の穴からは冷ややかな黒目が向けられていた。
真理はため息を吐いてから切り出した。
「心の中で私のことバカにしてるんでしょ。顔がデカいって、だから抜けなくなったんだって」
「そんなこと思ってないよ」
幸子は首を振った。
「私が顔がデカいからこんなことになって、手伝わされて迷惑だと思ってるんでしょ」
真理の口から唾が飛んだ。下唇には小さな気泡がついている。よく見ると口角にも白い泡がついていた。顔に触れられないから汚れたまま。今は気にしている場合ではないのかもしれない。きれい好きの幸子には、親友が急に不潔に見えたが我慢するしかなかった。
「そんなことないって」
「もういいよ。私一人でここに残るから。先に下りて」
看板女は目を伏せた。
「ここに残ってどうするの?」
「私一人でなんとかする」
幸子は中腰になり、視線を近づけた。そのせいで顔の汚れが余計気になったが、気にしないように努めて語り掛けた。
「『なんとか』って一人でどうするの?お腹空いても何も食べられないし、喉が渇いても水も飲めないんだよ。それにもし雨が降ってきたら。雨水は飲めるかもしれないけど、下がぬかるんで立っていられなくなるかもしれない。それで転んだらどうするの?前に倒れたら。顔打って起き上がれなくて、息できなくて窒息したりするかもよ」
それに、と続けた。
「夜になったらたぶん真っ暗になるけど平気なの?野犬とか熊とかが出るかもよ。カエルと蛇とかも出るかもしれないし。蛾とか気持ち悪い虫が飛んできたり。真理そういうの苦手でしょ。それにトイレに行きたくなったらどうするの?そのまま垂れ流すの?」
幸子は思いつく限りの惨事を並べた。
真理はそこまで想定していなかったようで、さっきまでの威勢が消え、顔の色が失せていくのがわかった。幸子の言う通り、真理は虫や爬虫類が苦手だった。
「手伝うからさ、一緒に下りようよ。最後まで絶対付き合うから」
中腰のまま、幸子は笑みを浮かべた。
「夜になる前に頑張って山を下りよう。私たち友だちじゃん」
その言葉で真理の目から涙が零れた。それも拭うことは出来ず、頬を伝って看板に流れ落ちた。
「私バカだね。一人じゃ何にもできないのに偉そうに言って」
涙の流れた部分のファンデーションが落ち、一層不潔っぽく見える真理に言った。
「気にしなくていいよ。誰だってこういうことになったら動揺するから。私は全然平気だから。何があっても絶対助けるから。最後まで二人一緒だよ」
幸子は看板の後ろに回って優しく背中をさすってあげた。顔を前に突き出した中腰の背中をさすっていると、道端で嘔吐する酔っぱらいを介抱している気分にさせられた。真理の顔が汚れているのもそれに一役買っていた。
「じゃあ、暗くなる前に出発しよう」
背中が落ち着いてきたところで幸子が言った。
「ごめんね」
「気にしないで」
幸子の言葉を聞くと、真理は「よっこいしょ」と力強く看板を持ち上げた。
「もう少しの辛抱だから」
幸子は前に回って支えようとしたが、看板の上を何かが動いていることに気づいた。山のイラストの麓の辺りを小さな物体が蠢いている。身体を伸縮させながらを看板を登っている毛虫だった。
幸子は悲鳴をあげ、看板を掴もうとした手を引っ込めた。真理はバランスを崩し、看板が着地した拍子に顎を打った。
「なに?どうしたの?」
真理は苦痛の浮かぶ顔で訊ねた。
「毛虫」
幸子はその方を指さした。ゆっくりと真理の顔に向かっていく。
「ウソ、毛虫?マジ?やめて。助けて」
幸子が指さす方に黒目を向けて今度は真理が悲鳴を上げた。
幸子が道に落ちている枝を拾い、看板の表面をこするようにして毛虫を払った。しかし毛虫は落下せずに枝に絡みついた。幸子はブーメランのように枝を遠くへ放り投げた。
混乱の後に静寂が訪れた。二人は顔を見合わせて笑った。看板に顔がはまってから最初の笑顔だった。
「思い出したんだけど、朝テレビの占いみたら『8月生まれは羽目を外しすぎないように注意』ってなってた。当たった」
真理は幸子を見上げて言った。
「当たってるのかな」
幸子は首を傾げた。
「よくわかんない」
「じゃそろそろ行こうか」
「そうだね」
看板を持ち上げようとした真理の尻からプ~と音が漏れた。
「聴こえた?」
「まあね」
きれい好きの幸子は引き気味だったが顔には出さなかった。
二人は力を合わせて看板を持ち上げて出発した。
第1部 ―完―
顔ハメ看板から抜けられなくなった すでおに @sudeoni
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