第2話

 山のイラストが描かれた看板を顔にはめて仁王立ちする姿は、直視するには刺激が強すぎた。


「あれ?幸子どこ?」

 真理は両手で支えた看板を若干下に向け、ジャイアントスイングのように回転させて真後ろに幸子を見つけた。慎重に看板を下ろす。

「軽くはないけどそこまで重くもないから手伝ってくれればこのまま下りられるかもしれない」


「どうすればいい?」


「下のほう持ってくれると助かるんだけど」

 真理は地面の方に視線を落とした。


「やってみる」

 幸子が言うと、真理はまた顔がはまったままの看板の端を両手で支え「よっこいしょ」と持ち上げた。

「お願い」

 

「じゃ、いくよ」

 浮きあがった底面を幸子が持ち上げた。


「アタタタタ・・・」


 一度にぐいっと持ち上げたものだから、真理の首を突き上げる格好になってしまった。


「ごめん。一回降ろす」

 幸子は重たいものを持ち直す時のように、一旦看板を下ろした。

 重さはそれほどでもなかったが、底面を持ったせいで土で手が汚れてしまった。きれい好きの幸子は、顔をしかめて手のひらについた土を両手で払った。

 山の頂上から突き出た顔がその様子を凝視していた。人が苦しんでる時に手の汚れなんぞ気にしている場合か、とその目は訴えていた。


「今の感じならいけるかも」

 幸子は真理の視線に気づいていないふりをして笑顔を作った。


「ありがとう。もう1回やってみよう」

 真理にしても手伝ってもらえないと下山できないのだから、幸子の気づいていないふりに気づいていないふりで応じた。


 真理は「よっこいしょ」と三たび看板を持ち上げた。幸子は今度は底面ではなく、両端を掴んだ。これだと油断すると、底が上着に触れて汚れてしまうが、さっきの視線の後だけに我慢するしかない。

「いい感じかも」

 重量が適度に手に馴染み、幸子は手ごたえを感じた。顔こそ空に向けているが、真理の手にもそれは伝わっていた。

「このまま歩いてみる?」

 幸子は視線の先にある真理のアゴに問いかけた。


 顔を上に向けたままで苦しそうだったが、真理は「よろしく」とOKを出した。


「じゃあ行くよ」

 幸子は両手で看板を持ったまま後ろ向きで歩き始めてから「ちょっと待って」と歩を止めた。


「何?」


「これだと前が見えなくて危ないから持ち方変えた方がいいかも」

 一旦置くよ、と幸子はまた看板を下ろした。

「こういう風に前を見て持った方がいいかも」

 幸子は赤ん坊をおんぶする様に後ろ手にしてみせた。


「任せる」

 真理はそういうと「よっこいしょ」と四たび看板を持ち上げた。


 真理が操縦した看板を、幸子はリレーのバトンを受けるように、背面で受け止めた。

「いい感じ」

 そう言って振り返ったが、真理は天を向いていた。

「じゃあ行くよ」

 一歩一歩歩き始めた幸子に真理が従った。二人はようやく下山を始めた。



 標高の低い山は、登山よりハイキングに近かく、おかげで帰りも傾斜は緩やかだった。幸い今日は登山客が少なくて視線を気にする必要もないし、山道も広く使え、幸子は足元を見られない真理に合わせてゆっくり歩いた。


「大丈夫?」

 幸子は振り向いて訊いた。


「今のところ大丈夫」

 その声にはまだ元気がある。が先は長い。距離は知れていても、ゆっくり歩いているのだから行きの倍以上時間がかかるだろう。旅行は、行きは遅くて帰りは早いとよくいうが、いまはその反対。後ろについているのは足枷ならぬ顔ハメをした女なのだ。


 下方から話し声が聴こえてきた。山頂に向かっている一行は、声から察すると同年代の若い女性のようだ。


「隠れたほうがいいかも」

 こんな姿は人に見られたくないし、万が一写真を撮られてSNSにでもあげられたらやっかいだ。ハッシュタグに #看板女 とか #人面山 とかつけるかもしれないし、ヤッホー!と面白半分に叫ばれてもヤッホー!と返してあげられるゆとりなどなかった。


 二人は道を外れて木陰に隠れた。看板の裏面は黒だったから後ろを向けば目立たない。覆い隠すように幸子が前に立った。歩いてきた一行は自分たちよりはいくらか年長の30歳前後の女性4人組だった。

 楽し気におしゃべりして4人組が、幸子に気づくと無言になった。いけないものを見たように、すぐに視線を逸らしてそのまま足早に歩き去った。

 我慢できなくなって山道でトイレをしていると思われたようだ。後でもう一度顔を合わせることになるだろう。間抜けな友人のせいでとんだ恥をかかされたものだ。


 一行が見えなくなると二人はまた山道に戻り、下山を再開した。


 日が暮れ始めている。時計は見られないが、4時になる頃と思われた。


「ねえ」

 後ろで真理の声がした。


 幸子には、その一言だけで幼馴染のテンションが下がっていることが分かった。力も抜けたのか看板も重くなった気がした。第三者と接触したことで現状を俯瞰したのかもしれない。山だけに。


「ずっとこのままなのかな。このまま生活していかなきゃいけないのかな」

 やはり声に張りがなくなっている。


「そんなことないでしょ。麓に行けば誰かが外してくれるって」

 幸子は元気づけるように努めて明るく言った。


「もし、このまま外れなかったどうしよう」


「こんな看板簡単に壊れるって」


「そうかな」


「そうだって」


 続きがあると思ったものの何もないまま、二人は山を下った。

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