49日目

 窓から明かりが射し込んでいる。太陽は高い所まで登っていた。曇りがちな空は日差しを飛散させて、淡い色を空に広げている。

 少年はベッドから体を起こして、目ヤニを擦りながら窓の外を見た。今日も電線の上にカラスが並んでいる。

 少年は台所へ向かい水を飲んだ。テーブルには料理が並び、ガス台の鍋から味噌汁の香りがする。食事を一瞥すると彼は風呂場に行ってシャワーを浴びた。お湯がべた付いた汗を流すと、昨晩から続く頭痛が少し楽になった。


 自室に戻り、夕方になるまでただ椅子に座っていた彼だったが、覚悟を決めたように立ち上がると、フックにぶら下がった制服にブラシを掛け始めた。ブレザーの肩から埃が舞い、窓からの明かりが、それを照らす。ブラッシングを終えると少年は着替え始めた。久しぶりに着た制服は少し動きにくく、ネクタイの結び目を首元まで上げた後、彼は深呼吸して少し首をまわしてみた。引き籠っている間に鈍った体が少年の肩を重くさせていた。


 机の引き出しに入れていた家の鍵をポケットに入れてから少年は仏間へと向かった。途中、外に目を向けると、葉の枯れた庭木が目に入った。落葉樹の葉が地面を埋め尽くし、落ち葉の表面に溜まった滴が日を受けて金色に輝いている。仏間は雲を透かして届いた陽光に照らされて幻想的に思える。

 少年は座り、仏壇の蝋燭に火を点けた。二本に折った線香を火にかざし、香炉に立てる。それから少し手垢のついたリン棒を手にした。昨晩、祖父が酒を飲んでいた湯飲みは見当たらない。少年は手を合わせ、目を閉じ、御鈴の音を聞いた。合掌を止めてから両親の写真に少しの間だけ目を向け、それから立ち上がった。


 ※ ※ ※


 日の傾きかけた住宅地にカラスの鳴き声が響いている。家を出た少年は部活の後輩、健也の家へ行こうとした。健也の家は住宅地を抜け、商店街を通り、その先、少年の家から歩いて三十分ほどの距離。正確な道はうろ覚えだったので彼は商店街の方へ歩いた。ずっと先にある工場の煙突から煙が上がり、細く伸びながら上空の風に流されて雲に溶けていく。


「俺、秋の大会にはレギュラー入りできそうですかね?」


 健也と肩を並べて帰ったある日、歩道に掛かるひさしの下を歩きながら彼が言った。彼が背負った道着からは乾きかけた汗の臭いがしていた。


「怪我さえしなきゃね。腰痛めてるだろ? 基礎筋力をもっとつけないと体が持たないぞ」

「……ばれてました?」


 健也は少年の顔を見上げ、はにかんだ。口の横が切れて血がにじんでいる。


「回し蹴りの後、重心が不安定になってるだろ? だから、後から撃った俺の蹴りが、先に入ったんだ」


 健也の口の横に出来た傷を指さしながら少年は言った。


「まずは十分に休んで、その後みっちり筋トレと基礎トレだな」

「えー、組手もさせてくださいよ」

「怪我して大会出られなくなるよりましだろ」


 大型トラックの騒音に気づいて、一人、ひさしの下を歩く少年は顔を上げた。気が付くと商店街の真ん中まで歩いていた。ほとんどの店のシャッターは降りていて、崩れかけ、廃墟になった店もある。廃墟の前で少年は一度足を止めた。崩れた鉄筋コンクリートの間を走り抜けて行く黒猫の光る目が見えた。


 事故現場は目の前だ。

 雲の切れ目から顔を出す赤みを帯びた太陽が車道を照らしている。今、この瞬間、とても静かで、周囲には車の気配はない。さっき走り抜けていったトラックが巻き上げた埃が舞っている。


 少年は車道に出て事故現場に立った。

 アスファルトにブレーキ痕が残っている。それ以外は普通の車道だった。あの事故の後、そこに沢山置かれたはずの花束は、今はもうない。

 少年の背中を照らす夕日が車道の真ん中に長い影を作っていた。その影の肩が震えている。彼は大きく息を吸って、吐いた。少し離れた所から数人の足音が聞こえた。


 少年が振り向くと、数人のクラスメートが歩道を歩きながら談笑していた。事故現場の脇を通り過ぎる時、彼らのうち数人が車道に立った少年に視線を向けたように思えた。

 クラスメートの渡辺わたなべあずまの二人と少年は目があった。彼らは少年を一瞥すると急に静かになったような気がする。そのまま視線を反らし、歩いて行く。少年は少し俯きながら彼らの後ろ姿を見つめていた。

 クラスメート達が道を曲がって姿が見えなくなってから、少年は歩道に戻り、少しネクタイを緩めると自分の家へ引き返した。肩の震えは治まっていなかった。


 ※ ※ ※


 玄関先には少女が、吉野よしのが立っていた。彼女は夕日に目を細めていた。日は沈みかけていて、反対側の空に月と星が薄らと浮かんでいる。少年に気づいた吉野よしのが手を振った。


「その恰好、何か久しぶり」


 少年は何も答えなかった。彼女の前を通り抜け、まっすぐ家に入ろうとする少年の手を少女が掴む。


「何かあったの?」


 玄関の引き戸から手を放すと少年は力が抜けたように、そのまま地面に吸い寄せられた。引き戸に寄り掛かって、両膝を立ててその場に座り込んだ。


「結局、何も出来ないまま、帰って来ちゃったよ」

「……そっか」


 少女は少年の前にしゃがみ、彼の顔を見た。うつむく彼の顔に影が被さっている。


「四十九日には、って思ってたけど……」


 電線の上でカラスが喉を鳴らしている。秋の虫の音が響き、風が吹く度、草木が乾いた音を立てた。雲は流れ、空は晴れてきたが、日陰は少し肌寒い。


「その後輩君、どんな子だったの?」

「……馬鹿で、体も頑丈じゃなかったけど、良いセンスしてたよ。あいつなら県大会で優勝できたかもしれない」


 うつむいたまま少年は口を開いた。


「足技が上手くて、各上の相手でも逆転できる度胸もあった。生まれつき体が柔らかいんだろうな、足が鞭みたいにしなるんだ。ああいう蹴りは軌道が読めない」


 少年の口から出る言葉の殆んどを少女は理解していなかったが、彼女は黙って頷いていた。


「俺が部活サボると、後輩のくせに文句言ってきてさ。特に最近は、会う度に部活に来いって騒いでたよ……」


 それから少年は言葉が出て来なくなった。ずっと肩が震えているのは寒いからかもしれない。大きく息を吸って、吐いた。

 少女の影が動いたような気がして顔を上げると、彼女は少年の顔を覗き込んでいた。彼女は地面に膝をついて、立膝で座る少年の膝に手を乗せて身を乗り出した。少女の薄い唇が少年の顔に近づき、彼女の香りが慰めのように感じた。


 少年は顔を背けて少女をかわした。彼女は少年の横顔を見ながら、

「あの……ごめんなさい」


 小さな声で謝った後、彼女は体を引いた。真っ赤な夕日が逆光になって彼女の表情は良く見えない。


「こっちこそ、ごめん」

 顔を背けながら少年は言った。立膝を崩して彼は地べたに胡坐を掻くと、少女の顔を見ないまま彼は口を開いた。

「部活に行かない理由を健也けんやに言えなかった」

 カラスが鳴き始める。少年の声より喧しい声で。少女は少年と目を合わせるように屈んで、彼の声に耳をひそめた。


「家の爺さんが死んだ」

「え?」少女が声を上げる。「いつ?」

「二か月以上前、健也けんやの事故より、ずっと前」

「でも昨日、お爺さんいたよね? 玄関先で挨拶したよ」


 少年は黙っている。彼は吉野の顔を見ることができなかった。電線に止まったままカラスが羽ばたいて、黒い羽毛が玄関先に落ちた。


「笹倉君、ちょっと、よくわかんないよ」

「……うん」

 彼は頷いた。「仕方ないよ」地面に向かって彼は呟く。


 風が冷えてきた。夕日が一秒ごとに輝きを失っていく。日向と影の境界が薄くなり、月や星が近づいてくる。少女はうつむく少年のブレザーの袖を引っ張った。


「そろそろ、帰るね」


 少女の指が少年の手首に触れた。彼女の指は冷えていて、爪の色は真白くなっていた。少女がその場から立ち上がると、彼女に合わせて少年も腰を上げた。

 太陽はもうない。濃い紫色に染まった空に街並みの影が浮かんでいる。


「昨日渡したノートのコピー、もう見た?」

「……いや」

「ちゃんと、勉強しておいてね」

 少女は膝やスカートに付いた砂を払った。肩にさげた鞄を担ぎ直して

「それじゃあね」


 小さく微笑んで少女は少年の前から去っていく。少年は何か忘れているような気持ちで二、三歩、彼女の後を追った。太陽の去った西の空は刻々と体温を失い、藍色に変わる空の中、ひと際輝く金星がつかまたたきを謳歌おうかしている。


吉野よしの!」

 少年は玄関先から飛び出して少女の背中に叫んだ。

「俺! 約束は守るから!」

 少年の声が響いた。周囲に人の気配はなく、二人を見ているのは電線の上で喉を鳴らすカラス達だけ。


 振り向いた少女のはにかむ口から白い歯がこぼれた。

「明日、学校で待ってるね」


 吉野の後ろ姿を見送る少年の真上で、カラスがわめいている。少女の姿が見えなくなるまで少年は少女の背中を見送っていた。


※ ※ ※


 家の奥から線香の香りが漂ってくる。香りを辿たどって、日の落ちた薄暗い廊下を進み暗い仏間に入ると、仏壇の前に座った老人が線香を立てていた。少年が天井に吊るされた蛍光灯を付けて畳に座ると、リン棒を持った老人が一瞬振り返り、彼の顔を見た。

 それから御鈴を鳴らし二人は手を合わせた。少年の肩から少し力が抜けていった。御鈴の奏でる揺らぎが彼の緊張をほぐしていった。


「飯にしようか」


 襖をあけて老人は台所へ行った。少年は仏壇に近づいて蝋燭の火を仰いで消した。立ち上がる前に一度、両親の写真を見た。彼は写真立てに積もった埃をブレザーの袖で軽く拭いてから、仏間の電気を消して台所へ向かった。味噌汁と白米の香り。簡単な料理がテーブルに並び、湯気を上げている。少年は引き戸の隙間越しに老人と目があった。


「どうした、良二?」


 老人はお椀に白米を盛っていた。炊飯器から昇る湯気が台所に溶けていく。沸騰しかけた味噌汁が鍋を内側から叩いている。

 少年は引き戸を開けて台所に入った。


「試験が近いんだ」


 少年はテーブルに近づき、椅子を引いた。腰を下ろすと煮物の香りが漂った。彼は胃の辺りをさすった。とても腹が減っていた。


「じいちゃん、明日から学校行くよ」


 老人は御椀を少年の前に置いた。それから白米を少しだけ盛ったお椀を自分の前に置いた。


「そうか」


 それだけ言うと老人は合掌した。少年も手を合わせ、箸を持った。二人は黙ったまま、飯を口に運んだ。時折響く食器の音が心地よかった。




 食事の後、少年は再び外に出た。彼は商店街の中にあるスーパーへ向かい、花束を買った。スーパーを出た頃、時間は八時を過ぎていて、風は冷たく、少年の肩に力が入った。


 ひさしの上に等間隔で並ぶ明かりが商店街を照らしているが、周囲に開いている店はほとんど無い。どこもシャッターを閉じている。

 壁が壊れ、砕けたコンクリートが散乱している廃墟になった店の前まで足を進めた時、少年は歩道の上に置かれたいくつもの花束に気が付いた。花を包装するビニールが明かりを反射して輝いている。

 少年は花束に駆け寄った。健也の事故があった場所だった。


 少年は周囲を見渡した。商店街のひさしの下、少年のずっと先の方に、制服姿の男子が数人歩いていた。


「おい!」


 少年は大声で学生たちを呼んだ。


「おい! 渡辺!」


 少年の声が商店街に響いた。彼らのうち一人が振り向いた。遠くを歩く学生の表情は薄暗くて見えない。他の学生たちは背中を向けている。


「ありがとな」


 学生は再び前を向くと歩いて行った。彼らの声が遠くなり、しだいに後ろ姿は暗がりに包まれていった。

 少年は積み重なった花束の前にしゃがむと、自分が持ってきた花束をそこに置いた。静かに、手を合わせる。風と虫の音が辺りに響いていた。ずっと遠くの音も聞こえる。車道を走る車の音や、遮断機の下りる音が少年の元まで届いた。


 目を開け、立ち上がってから、少年は深呼吸した。息を吐いてから両手の平で自分の頬を叩くと爽やかな音が響く。それから振り向くことなく、家までの道のりを歩いた。身軽になった気がした。彼は忘れてはいないが、そこに残してもいなかった。




 家に帰ると台所からの明かりが廊下に漏れていた。引き戸の隙間から中を除くと、老人が流し台に立って食器を洗っている。流れる水の音、重なる食器の音。


「ただいま」


 老人は首を回して少年を見た。蛇口から流れる水が食器に浮いた汚れを落としていく。


「ああ」


 老人は小さく頷くと再び、泡立つスポンジで食器を擦った。


「寝るのか?」

「試験が近いから……少し勉強してる」


 それから少年は祖父の背中に向かって「おやすみ」を言った。何も言わないまま祖父の背中は小さく頷いた。流れていく泡が弧を描いている。弧は水に乗って螺旋状に伸び、最後には流れて行った。


 少年は自室の机に座ると、少女から受け取った封筒を開けた。ノートのコピーを取り出して目を走らせながら筆記用具と教科書を机に広げた。スタンドライトを点けると、窓ガラスに反射した光が空の月と並んで真白く輝いた。電線に並ぶカラス達の影が見える。

 数学の教科書を開いて、ノートのコピーに書かれた数字を追いながら、少年は庭で鳴く虫の音に耳を傾けた。多くの虫が集まっている事に気付いた。さざ波のように音は響き、揺れる。そこにカラスの喉鳴りが溶け込んで、少年の耳の奥で渦を巻いた。

 いつのまにか少年の目蓋は、うつらうつらと重くなっていった。電線にとまるカラス達の光る眼が、机に体を預ける少年の姿を見ていた。


「良二、入るぞ」


 少年の部屋の前で老人が言った。それからドアを開けると、机に突っ伏した少年の背中が見えた。彼は右手にシャープペンシルを持ったまま、左腕を枕にして眠っている。老人はおにぎりと漬物が乗った皿を少年の机に置いた。電線に止まっていたカラス達は飛び上がると、どこか遠くへ飛んで行った。

 老人はタオルケットを少年の背中に掛けた。寝顔の眉間には深い皺が寄っている。スタンドライトを消し、握ったままのシャープペンシルを取り上げた。老人はシャープペンシルをペン立てに戻してから、音をたてないように机から一歩下がった。


「……じいちゃん……」


 孫の声に老人は足を止め、顔を上げた。少年の背中は規則的に上下し、寝息を立てている。喉を鳴らしながら、虚ろな声で少年は口にした。


「……ごめんな」


 老人は照明からぶら下がる紐を掴んだ。少年は口を閉じて、再び寝息を立てている。その息は、虫の音や、風の音と混ざり、老人の耳にまで届いた。


「お前は、何も悪い事はしてない」


 孫の背中に向かって呟いてから老人は明かりを消した。窓から差し込む月明かりが少年の部屋を照らしていた。


 部屋の壁際。ドアの近くに、昔、老人が孫に作った本棚がある。

 本は倒れ、棚から落ち、床に散らばっている。参考書やマンガ本の表紙は折れ曲がり、破れた辞書のページが散乱している。


 本棚の隣に、かつて老人の部屋にあった振り子時計が落ちていた。

 時計の針や振り子を覆うガラスは割れて、畳の上に散らばっている。青白い月明かりに照らされて細かなガラスが光っていた。時計の針は一時十二分を指したまま止まっている。鋭利な形に割れたガラスの欠片が分針に引っ掛っていた。


 その隣で、老人の孫が死んでいた。

 昔、老人が壁に取り付けたフックにネクタイを掛け、床に足を伸ばし、座るような姿勢で首を吊っている。苦し紛れにつかんだカーテンが引き千切ちぎられて、少年の手元でしわくちゃになっている。頭は前に垂れ、顔は下を向けていた。彼の髪に月明かりが映りこみ、白く輝いている。漏らした物が、彼のズボンや床を汚していた。


 老人の後ろ、机の辺りからは、今も寝息が聞こえている。


(死ね。早く楽になれ)


 老人は少し俯きながら少年の部屋から出た。音を立てないよう、そっとドアを閉じる。足音を立てないように階段を下り、仏間におもむいた。明かりを点け、仏壇の前に座った。老人は御鈴の横に置いた湯飲みに手を伸ばした。湯飲みは酒で満たされている。彼は仏壇の写真を眺めながら静かに湯飲みを口に運んだ。

                     完

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