48日目

 正午前になって少年は目を覚ました。静かで、階下に老人の気配はない。

 少年は仏間に向かった。昨夜の風は去り、外は気持ちのいい青空で、木漏れ日が仏壇をぼんやりと照らしていた。仏壇の前に座ると少年は備え付けのライターで蝋燭に火を点けた。小さな炎が写真に映りこみ、揺れるあかりの奥で両親が笑っていた。


 少年は線香を一本掴み、それを真ん中で半分に折った。二本を束ねて蝋燭にかざし、火が移ると線香を振った。煙の昇る二本の線香を香炉に立ててから御鈴を鳴らし、手を合わせた。涼しげな音が仏間に響いた。晴れ渡り、風も無い日のようで少し蒸し暑く、少年の胸元は汗ばんでいた。

 合掌を止めてから横目で老人の寝室を見た。部屋の襖は閉じられ、襖の先には気配はない。今は線香の香りが彼の鼻孔を満たしているから死臭も感じなかった。


 少年は立ち上がり台所へ向かった。流し台に陽光が落ち、蛇口からしたたる水滴を照らしている。彼はグラスに水を注ぎ、飲み干してから、ゆっくり呼吸をした。ガス台に置かれた鍋から味噌汁の匂いが漂っている。テーブルには皿が並んでいた。今朝方作った料理が盛り付けられている。皿に掛けられたラップの内側に水滴が貼り付いている。


 シャワーを浴びてから自室に戻ると本棚から適当な漫画本を抜き取って椅子に座り、頁をめくり始めた。窓から射す日の光が温かい。薄雲がゆっくりと流れていき、少年は本をめくりながら雲の動きを眺めていた。


 次第に太陽は西へ落ちていき部屋をだいだい色へ染め、振り子時計が午後六時を示す頃、呼び鈴の音が響いた。少年が立ち上がって窓の外を覗き込むと学生服を着た少女が玄関先に立っていて、彼女は少年に気付くと窓に向かって小さく手を振った。


「……吉野よしの


 少年は玄関に向かい、引き戸の鍵を開けた。擦りガラス越しの少女。少年より頭一つ小さなその影は、戸が開くのを待っている。


「こんにちは」


 玄関先で吉野よしのと言う名前の少女が言った。少年の顔を見ると彼女は肩に下げた鞄からA4サイズ程の封筒を取り出した。少年は後ろ手に玄関の引き戸を閉めると、黙って封筒を受け取った。指先で何枚も紙が入って膨れた封筒の厚さを確かめる。

 一か月以上の間、数日おきに少女は学校からの書類を配達していた。それを受け取る少年は封筒を開けてみる事があっても中身に目を通すことはなかった。


「うちに寄るのは遠回りじゃない?」


 そう言うと、彼女は小さく笑い返した。少女の後ろで傾きかけた太陽が少年の目を細くさせていた。眉間に寄った皺が濃くなる。少年は顔を背けて陽射しから逃げた。


「中間試験が近いんだけど笹倉君は大丈夫?」

「学校行ってない奴に、それ聞く?」


 少年は額の辺りに手をかざし、手の平で太陽を隠しながら言った。それでも、彼の眉間に寄った皺の深さは変わらない。


「あ、ごめん。怒った?」

「……いや、こっちこそ……いつも悪い。助かるよ、吉野」


 少年は封筒を少し掲げて、明るい声色で答えるよう意識した。二人の真上を通る電線の上でカラスが鳴いている。祖父が死んでからカラス達が集まるようになった気がする。最近はいつも五、六羽のカラスが電線に止まっている。


「ちゃんと学校、来てね。皆、待ってるから」

「皆って?」

「皆だよ。山口君に、真美ちゃんに、加藤先生もそうだし、渡辺君も……」

「渡辺が……?」


 少年は口を歪めてそう言った。眉をひそめ、少女の顔をうかがう。


「本当だよ。渡辺君、笹倉君が学校来るようになったら、皆でお好み焼き行こうって準備してるよ、東くんも部活の相談がしたいって言ってたし、西川さんもクラス委員の話があるって……」

「……吉野、わかったから」


 彼は静かに、なだめるように言うと、口を閉じた少女はふいに横へ視線を逸らした。西日が彼女の頬に、赤みを帯びさせているのかもしれない。


「もう少し考えていい? 本当にあと少し……明日で良い」

「明日?」


 吉野は少年の顔を見上げた。額にかざした彼の手が、彼の目に影を落としていた。学校に通っていた頃には無かったクマが目の下に薄く浮かんでいる。少年は何か思いを巡らすように、かざした自分の手の平へ視線を向けていた。


「……そっか、明日だもんね」


 少女は少年に一歩近寄り、背伸びすると、彼の頬にキスをした。

 かざしていた少年の手の平に彼女の前髪が触れた。ふわりと舞う香りが、鼻先をくすぐる。少女の鞄に付いたチャームが揺れて、虫の音に似た音色を立てた。


 少年はかざしていた手を下におろした。彼の眉間の皺は相変わらず。彼の頬は西日に当てられていた。

 少女は少年が持つ封筒を指で突くと


「試験範囲のノート、コピーして入れて置いたから」

「……ありがとう」

「ちゃんと勉強しといてね」


 少女が微笑んだ時、電線に並んでいたカラス達が一斉に飛び上がった。

 鳴き声が空に響き、羽音が地上にまで届く。

 真っ黒な羽が一本、ふらふら揺れながら家の玄関先に落ちてきた。


「良二、お客さんか?」


 カラス達は彼らの上空で旋回し、羽ばたいたまま離れなかった。地上の様子を見守り、何やら相談し合っているように時折鳴き声を上げる。


(死ね、もう、いい加減)


 木造の床をペタペタと裸足で歩く足音が近づいてくる。玄関が開き、家の中から老人が顔を出した。老人は白髪の混じった眉の奥にある眼で孫と、その同級生を見た。少年の鼻から少女の香りは消え、腐臭がよみがえってくる。


「こんにちは」

「はい、こんにちは」


 少女は老人に頭を下げた。軒先が作る影が老人の顔を隠して表情は見えなかったが、年季の入った老人の声が返ってくる。その声は良く響き、応じるように上空のカラスが鳴いた。


 少年は少し振り返り、睨むように視界の端で老人を確認する。薄暗い廊下に佇む、祖父。死ぬ直前まで彼の背骨や腰は真直まっすぐだった。その姿勢は今も変わらない。白く濁りかけた祖父の目を、少年は少しの間、睨んでいた。


(死ねよ)


「それじゃ、帰るね」


 少女はもう一度、老人に頭を下げてから少年に微笑んだ。彼女のほぼ真後ろで太陽が落ちていく。冷たくなってきた風が髪を揺らしていた。


「ああ、気を付けて」


 小さく手を上げる少年。少女が道を曲がり、後ろ姿が見えなくなってから彼は家に戻った。玄関に老人の姿は無い。上空で羽ばたいていたカラスが一羽、一羽と、再び電線に止まり始めた。


 家に戻ると片手に湯飲みを持った老人が台所から出て来た。老人の臭いに交じって日本酒の香りが廊下に広がる。少年は仏間へと入っていく老人の後を追った。仏間の襖の隙間から老人の背中を眺めていた。


 襖の隙間から入り込んだ西日が畳に橙色した光のラインを引いている。その光のラインの先で、老人は仏壇と向きあって正座していた。一本の線香を蝋燭の火にかざしている。彼の薄くなった白髪が時折、夕日を反射して朱色に光った。

 少年は仏壇に近づき老人の後ろで胡坐を掻いた。少年には老人の背中が昔より小さくなっているような気がした。老人は線香を香炉に立ててから御鈴を鳴らした。老人が合掌するのと同時に、少年も手を合わせた。御鈴の音が消えるまで二人はそうしていた。


「飯にしようか」


 立ち上がった老人を少年は上目遣いで見た。


(死ねよ、なあ、死ねよ)


 小さく舌打ちをする少年。老人は昨日のように台所へ向かった。少年はしばらく仏間に残った後、蝋燭の火を消してから自室へ行き、布団に入った。


 ※ ※ ※


 少年はベッドの上で目を覚ました。汗ばむ体から嫌な臭いがした。頭痛がする。一定の間隔を置いて目の裏から後頭部に痛みが走った。


 カツン、カツン。


 一羽のカラスが窓ガラスをつついていた。夜空に溶ける真っ黒なカラス。くちばしの上に並んだ二つの丸い眼が光っている。

 少年が枕を掴んで窓の近くに投げつけると、羽音と共に窓ガラスをつつく音が消えた。外には大きな月が浮かんでいる。風はなく、虫の音もほとんど聞こえない。

 振り子時計の音だけが部屋に響いていた。時刻は夜の一時十二分を指している。こめかみを揉みながら少年は体を起こした。喉が渇き、口の中が粘ついている。寝癖の付いた前髪を後ろに撫でつけてから彼はベッドから出た。少し肌寒い、部屋の空気。彼はさっきまで見ていた夢の事を忘れようと努めていた。


 階段を降り、台所へ向かう途中、仏間からの物音に気が付いた。蛍光灯の白々した光が襖の隙間から帯状になって廊下の闇に広がっていた。仏間から時折、鼻を鳴らす音や、小さな咳が聞こえた。

 少年は襖に顔を近づけて中を覗いた。線香と酒と、年寄りの臭いが隙間から流れてくる。蛍光灯の光に少年は目を細めた。


 仏壇の前に祖父が座っていた。胡坐を掻き、湯飲みを持った手を膝に乗せている。彼の背は曲がり、正座で座っていた時より小さく見えた。湯飲みに入った酒を覗きながら、物思いにふけっているようだった。

 老人は顔を上げて仏壇に置かれた数枚の写真を一枚ずつ目で追っては、少しずつ酒を飲んで、項垂うなだれた。口から小さな咳払いが出る。彼の濁った眼に蝋燭の灯が映りこんでいる。線香の煙がゆったり宙を舞い老人の白髪に染み込んでいく。

 湯飲みが空になるまで、老人は仏壇の前で思いを馳せていた。

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