死ね

D・Ghost works

47日目

 老人は日本酒の入った湯呑ゆのみを仏壇に置いてから御鈴を鳴らした。それからリン棒を戻し、古傷と深い皺が刻まれた手で合掌した。細長い線香の煙が昇り、仏間に香りが広がる。湯飲みの酒が御鈴の音色を感じて、その表面を小さく揺らしていた。


(死ねよ)


 少年は手を合わせる老人の後ろ頭を睨み、柱にもたれて立っていた。


(死ね)


 線香の煙の奥に写真がある。老人の息子と、その嫁の写真。少年にとって、両親の写真。

 御鈴が静まると老人は目を開け、合掌を止めた。禿げ上がった頭。白髪の混じった眉。振り返った老人は白く濁りかけた目で少年を見た。


(死ね、死ね)

「夕飯にしようか」


 そう言って老人は台所へ向かった。仏間に静けさが満ちていく。

 襖を挟んだ奥の部屋は老人の寝室で、そこから年寄りの臭いが漂っていた。その部屋、その臭いを嗅ぐたび、少年は吐き気がする。さっきまであった食欲はもうない。


 彼は両親の写真に視線を向けた。蝋燭の明かりに照らされて写真が揺れている。仏壇に近づき、さっきまで老人が座っていた座布団に膝を着くと、座布団の布地は彼の膝から体温を奪うほどに冷たかった。

 少年が蝋燭の小さな火を手の平で仰いで消すと、両親の写真は影に消えた。薄暗い仏間を照らすのは窓からの月明かりだけ。


 晩秋は日が落ちると寒く、夏の間は忘れていた底冷えを少年に思い出させた。彼はしばらく仏壇の前で俯き、肩の震えが治まるのを待った。顔を上げると写真立てが白く曇っていた。


 仏間を出ると真っ暗い廊下の先で、台所から漏れた光が帯状に広がっているのが見えた。光の帯は凹凸した床板に沿って湾曲して、そこを歩くと古い木造の家がきしみを上げ、たわむ。


 台所から味噌汁の匂いが漂っていた。少し開いた引き戸の奥で老人がお椀に白米を盛っている。テーブルには簡単な食事が並び、皿からは湯気。隣の居間から点けっぱなしのテレビの音が台所へと流れ込む。テレビから放たれる音は声や笑いが混じりあって、何を言っているのか聞き取れない。


「どうした、良二りょうじ?」


 お椀を手にした老人が顔を上げた。引き戸の隙間ごしに目が合った少年は眉間に力を籠めると背けて玄関に向かった。靴を引っ掛け、荒っぽく引き戸を開け、外へ出る。戸にはめられたガラスが揺れ、そこに映った家の明かりが震える。

 台所から顔を出した老人は、肩を怒らせて歩く少年の背中を見ていた。それから老人は開きっ放しの引き戸を閉めに行った。ガラス戸がサッシの上でカラカラと音を立てた。


※ ※ ※


 日没後の寒さが、上着を着て来なかった少年に後悔を与えていた。周囲は住宅地。風に運ばれた夕食の香りが流れる。しばらく歩いてから少年は振り返り、自分の家の玄関を見た。

 古びた木造家屋。他の家々と同じように台所の換気扇から湯気が上がっている。すぐに前を向くと彼はまた歩き始めた。空気は冷たく、彼の肩を強張らせた。


 少年の足は住宅地を離れ、駅近くの商店街へと進んだ。商店街の路肩には、腐り始めた枯葉の山。多くの店はシャッターを閉じている。ここ数年、ほとんどの店が閉じたまま。

 外壁が崩れ、廃墟と化した店もある。砕けたコンクリートや、剥き出しの鉄骨が転がる廃墟の暗がりの奥で二つの丸が光っていた。少年は足を止め、目を凝らした。風が吹き、溜まった砂埃が舞う。

 真っ黒な猫の黄色い目が、暗がりから少年をジッと見ていた。


笹倉ささくら先輩?」


 高校の学生服を着た少年が声をかけてきた。彼は帯でくくった道着を肩に背負っていた。小さくはにかみ、良二に会釈した。


「やっぱり笹倉先輩だ」


 少年に気付いた良二は「おう」と片手をあげて答えた。


「どうしたんですか?」

「ああ、猫が……」


 廃墟に目を向けると猫は消えていた。風に運ばれた枯葉が、砕けたアスファルトの間をカサカサ音を立てて転がっているだけだ。


「いや……部活帰りか?」

「はい、大会近いんで」


 後輩の声は明瞭めいりょうで、人気の少ない商店街に良く響いた。彼の体からは運動で流れた心地よい汗の臭いがする。


「もうそんな時期か」

「先輩も顔出してくださいよ。最近、幽霊じゃないっすか」


 彼は口の左端だけを吊り上げて微笑んだ。口の右端は切れて血が滲み、痣になっている。担いだ道着にも点々と赤い染みがついていた。


「……なあ幽霊って信じるか?」

「幽霊? もしかして、そこに居たんですか?」


 後輩は廃墟の奥、暗闇に目を向け、目を細める。


「いや、冗談だ」

「話しそらさないで下さいよ。俺に空手教えてくれたの先輩なんですから。次の大会、一緒に団体戦出たいんです。俺、マジ強くなったんで」

「お前なら、個人戦の方が上に行けるだろ?」

「まだ、先輩には敵わないっすよ」

「おい、健也けんや!」


 道路の向かい側の歩道に学生服を着た少年が数人歩いていた。「健也!」と名前を呼ばれた後輩は振り向いて彼らに手を振った。


「飯食いに行こうぜ!」

「おう、今行く!」


 健也の張り上げた声が、空に響く。それから彼は良二に頭を下げた。


「それじゃ、先輩、失礼します。部活来てください。約束ですよ」


 そう言ってから健也は車道を渡り、仲間の元へ走って行った。彼は近づいてくる大型車に気付いていなかった。良二の目の前でヘッドライトの明かりが――


※ ※ ※


 少年は布団から跳ね起きた。目が覚めた後もクラクションの音が幻のように耳にこびり付いてる。この夢を見る度、いつも頭痛がした。喉がカラカラに渇き、咳がこぼれる。時計は夜の一時十二分を指していて、眠りながらりきんでいたのか首の筋肉がこわばっていた。彼は立ち上がり、階下の台所へ水を飲みに行った。


 台所のテーブルには食事が並んでいた。どの皿にもラップが掛けられている。ガス台に乗った鍋から味噌汁の匂いもする。炊飯器は保温状態になっているが、少年の食欲は眠る前と変わらない。

 水を一杯飲んでから少年は台所を出た。廊下は冷たく、足の裏が冷えた。窓ガラスを叩く木枯らしが庭先の木々の枝をバタつかせていた。


 階段へと進む手前で仏間の襖が少し開いている事に気付いた。そこから微かに死臭が漂ってくる。少年は死臭の方へ進み、襖を開け、仏間に入った。真っ暗な仏間。廊下から漏れてきた明かりが畳を照らし、淡い黄色に輝く。

 足を進めながら少年は仏壇を見た。仏壇は影に染まり、両親の写真は見えなかった。御鈴の横に置かれた空の湯飲みが見えるだけ。死臭に混じって、燃え尽きた線香の香りがする。


 仏間の奥、老人の寝室に近づくにつれて臭いは強くなった。廊下から伸びる明かりに、真鍮製の襖引手ふすまひきてが照らされて淡く光っている。


 少年は引手に手を掛け、襖を開いた。

 重苦しい死臭。

 部屋の中央に敷かれた布団の中で、祖父が死んでいる。

 腐敗が始まり、目は落ち窪み、布団には染みが広がっていた。


「良二? 何か用か」


 振り返ると少年の後ろに祖父が立っていた。逆光で顔に影が落ちている。白く濁った瞳が少年を見つめている。


(死ね)


 少年は老人を睨み、身をかわし、仏間を出た。老人の視線を背中に感じる。


(死ねよ)


 仏間から出る直前、少年は一瞬だけ振り返った。寝室へ入っていく老人の後ろ姿が見えた。老人の足元に敷かれた布団。その中に寝そべる自分の死体に、老人は反応を示さなかった。




 早足で階段を上がってから少年は深呼吸した。二階まで死臭は流れてこない。自室に戻った時、少年は自分の肩が震えている事に気付いてベッドに潜り込んだ。窓からの月明かりが部屋を照らしていた。ぼんやり青みがかった光。頭から眠気は消えて、体の震えはいつまでも治まらなかった。布団の中で丸まったまま、少年は目だけ動かして部屋を眺めた。


 窓際に机が置かれている。教科書やノート、子供の頃に作った船の模型が乗っている。祖父の作った机だ。少年は小学校の頃からこの机を使っている。日に焼けてこそいるが、使い勝手は変わらない。


 机のすぐそばの壁にはフックが取り付けられている。制服やジャケット、ネクタイが掛かっている。フックに掛かった物の多くは薄っすらと埃をかぶっていた。これも老人が作った物だ。祖父がまだ若いころ、両親が生きていたころ、この部屋に取り付けた物だ。


 フックのすぐ横の壁には時計が掛かっている。木製の古い振り子時計で、元は老人の部屋にあった物だ。老人が学生の頃から動き続け、今もカチカチと時を刻んでいる。


 少年の背丈ほどある本棚には漫画本や辞書、問題集などが並んでいる。中学に入る前、庭先でこの本棚を作っていた祖父の姿を少年は覚えている。あの頃も、まだ祖父は若かった。両親が居なくても少年は平気だった。


 眠気が目蓋に落ちてくるまで彼は部屋を眺めていた。肩の震えは治まり始めたが目は冴えたままだった。風が家の外壁を叩く音がする。強い風が吹くと二階の部屋は揺らいだ。夜の間、風は吹き続けた。外が白み始めた頃、少年はようやく眠りにつく事が出来た。

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