武蔵野(市)少女

柴王

武蔵野(市)少女

 俺は、この街が嫌いだ。


 俺・大西明日夢おおにしあすむは都内のメーカーで営業として働く23歳。今日も残業を終え、家の最寄りの吉祥寺駅に降り立つのは夜の11時。


 吉祥寺。住みたい街ランキングで毎年上位にランクインするみんなの憧れ。


 でも俺は、この街が嫌いだ。


 一年半ほど前、地方の国立大を卒業した俺は、就職のためにこの街に越してきた。


 どうして吉祥寺だったかというと…………住みたい街ランキング上位の街で、良さげだったからだ。


 言いたいことは分かっている。


 だが考えてみてくれ、田舎で生まれ、田舎で育ち、挙句、華の大学生活まで地方で過ごした人間。そんな人間がようやく東京に足を踏み入れるんだ。


 ……ミーハーにならないわけがない。


 そして、最初の頃はとてもはしゃいでいた。見たことのないほどの人の活気。おしゃれな店。かわいい女の子。オーマイゴッド! なんでこれを大学時代に経験できなかったんだ、って。


 だが、月日が経つにつれてそんな感動は頭から薄れていった。


 仕事が始まり、新卒一年目から怒鳴られる毎日。毎日の残業。直接会って愚痴を言い合える友達も東京こっちにはいない。


 そうして俺は、朝早く、そして夜遅くに歩くこの街に対するポジティブな思いより、ネガティブな思いの方が強くなっていった。


 今日も、いつも通り仕事を終え電車を降り、駅の階段を下りる。


 この駅はこの時間でも光を失わない。人もたくさんいる。


 明日も仕事か、と思いながら人の波の中で階段を下りると、涙がこぼれそうになる。


 駅を出て、ストリートミュージシャンを横目に商店街を歩く。


 一瞬、「俺もあんな風に自由に思いを表現したい」なんて考えが浮かぶが、俺の凝り固まった頭はすぐにそんな考えを拒絶する。「現実見ろよ」って。


 商店街を抜けると、人口灯の光から一気に解放される。


 そこからは、まるで道路を走る車の脇役みたいに、ひっそりと歩道を歩いて住宅街の方へ向かう。


 駅から俺の住んでいるアパートまでは徒歩20分弱。


 最初は「20分? 余裕っしょ! ワンチャンワンチャン!」などとイキり散らしていた地方の陰キャ大学生であったが、毎日のルーティーンに徒歩往復40分が課されるということの重みをあの時はまったく理解していなかった。


「20分? それって吉祥寺住み? ん?」と思ったそこのお前、俺は断じて吉祥寺住みだ。武蔵野市民じゃなく練馬区民だが、そんなことは関係ない、俺は吉祥寺住みだ。


 と、脳内で自分に吉祥寺住みの洗脳をかけていると、いつものこの街にはいるはずのない、イレギュラーが俺の目に映った。


「あれ、迷子か? こんな時間に? うずくまって泣いてる……。親はどうしたんだよ」


 小学校低学年くらいのおかっぱで黒髪の女の子が、道端にうずくまって泣いていた。


 途端に、俺の中の天秤が揺れ動く。周りに他の人はいない。俺が話しかけるのか? いや、きっとこの後で誰かが声をかけるだろう。いや、でも。いやいやむしろ、俺が不審者扱いされてお縄についたらどうする!?


「…………ええい、ままよ!」


 俺は覚悟を決めて女の子の元へずんずんと歩いていく。


「…………ねえ、君、迷子かな?」


「迷子じゃ、ないよ」


 女の子は顔を上げると、涙声でつぶやく。


「でも、この時間に一人って。親御さんはどうしたの?」


「私にはいないよ。だって、私は人間じゃないもん」


「…………」


 なんだこれは、今の小学生はそういうのが流行ってるのか? それともそういうお年頃なのか?


「じゃ、じゃあ名前、君の名前を教えてくれるかな?」


「私は武蔵野市」


 なんて?


「ご、ごめん聞き取れなかったから、もう一回お願いしていいかな?」


「武蔵野市。私はね、武蔵野市そのものでもあって、武蔵野市という概念をおにーさんが擬人化して生み落としたイメージでもあるんだよ」


 …………一度、少女と反対の側を向く。


 きっと疲れているんだ。こっちに来てから彼女もできてないから、変な妄想をしてしまっただけなんだ。ていうかなにそれ、まるで俺がロリコンみたいじゃん。…………。


「さーてと、これで消えて」


 再度女の子がいた方を振り向くと、いた。変わらず悲しそうな顔をして俯いていた。


 …………仕方ない。目の前に本物の女児がいるというのなら、人を困らせる馬鹿ないたずらを辞めさせなければならない。それが大人の役目だ。


「君、人をからかうのはだめだぞ。早くお家に帰るんだ」


「……おにーさん、私の言うこと信じてないね。私は正真正銘の武蔵野市だよ?」


 くそ……これだから子どもは。こっちは早く帰りたいのに!


「お前が武蔵野市だって言うなら、証拠を見せてみろ証拠を」


 これで終わりだ。証拠なんて出せるわけがない。この少女が武蔵野市なわけないんだから……。というか、自分でも何を言っているやら。


「証拠ね、いいよ。見せてあげる。はい!」


「…………」


 少女の下半身が、地面と同化している。


「いやいや、どんな種を仕込んでやがる。この……」


 俺は少女の上半身をがっしり掴んで地面から引き抜こうとする。側から見れば事案だがそんなことを考えている心の余裕はない。


 俺はこの、自分を武蔵野市だと思いこんでいる一般小学生を矯正してやらなければならないのだ。


「ぐっ、抜けない……」


「無駄だよ、私は武蔵野市だから。武蔵野市を人の筋力で動かせないように、私を人の筋力で動かすことはできない」


 くそ、何を言っているのかわからないが、びくともしないのは本当だ。


「いい加減認めたら?明日も仕事あるんでしょ? 不毛な時間だよ、これは」


「ぐっ、こいつ! …………。ふ、いいだろう、認めてやるよ。お前は武蔵野市だ」


 もうなんでもいい。話を進めてとっとと帰ってやる。


「で、どうして武蔵野市さんがあんな場所でうずくまって泣いてたんだよ?」


「それは、おにーさんが『この街が嫌いだ』って言ってたから…………」


「はあ?そんなのいつ言った?」


 こいつに会ってから、そんな会話はしていない。


「正確には『思ってた』って言った方が正しいね。私は武蔵野市だから、武蔵野市の人たちの思考を読み取ることができるんだ」


「……いや、武蔵野市ってそんな権能あったの?プライバシーだだ漏れじゃん」


 だが、俺の思考を読んだという事実が、この女の子が普通の人間でないことをさらに証明する。……武蔵野市かはともかくとして。


「私は悲しい。武蔵野市で生きる人たちには、私を好きでいてほしいから。嫌いになんて、なってほしくないから……」


「…………」


 不思議な雰囲気のやつだが、この少女の悲しみは本物だ。俺には分かる。だって俺は、感受性豊かな「人間」なのだから。


「人が街をつくるの。人が、私をつくるんだよ。あ、これは開発するとかって意味じゃなくて、街での人と人との関わりとか、街への人の思い。それが私を武蔵野市として形作るんだ」


「…………そうか」


「そして、街が人をつくるの。立派な建物、きれいな自然、楽しい場所が、みんなの心を豊かにするの。そうして人間と街とは、長い年月をかけてお互いをより良いものにしていくの。だから……」


「俺が街を嫌いになったら、お前は悲しむってことか」


「うん」


 少女はこくりと頷く。


 …………。分かってるさ。分かっているとも。


 俺は、本当はこの街を嫌っているわけじゃない。悪いのは街じゃない。この俺だ。滔滔とうとうと襲ってくる毎日に抗うこともなく、ただ甘受して流されているだけの俺。


 それを心で理解しつつ、責任をこの街に押しつけて悪者にすることで、自分と向き合うことを避け続けてきた。


「お前が俺の前に現れた理由が、分かった気がするよ」


 俺は少女の、まるで漂白されたみたいにまっさらな瞳を見つめる。


「おにーさん。私を、好きでいてくれる?」


 少女が首を傾げる。


「…………ああ、好きでいてやるよ」


 それに精一杯の笑顔で答える。


 俺の身勝手で、この少女の瞳を汚すようなことはしたくなかった。


「えへ、ありがとう!」


 少女は満面の笑みを浮かべる。


「…………少し、歩くか」


「うん!」


 少女と並んで歩いた街の景色は、いつもと変わらないはずなのに、とても輝いて見えた。


 いつもなら早足で進む道を、少女に合わせてゆっくりと歩く。

 すると街の、今まで見えなかった、いや、見ようとしなかった部分が次々と見えるようになっていった。


「こうしてみるといい街、だな。案外。」


 俺は斜め下に視線を向けて少女に話しかける。


「案外、じゃないよ。おにーさんたちの街だもん。いい街に決まってるよ!」


「! …………そうか」


 ガラにもなく、泣きそうになってしまう。


「あ!」


「どうした?」


 急に少女が立ち止まった。


「ここから先は、私は行けないや」


「ここから先、って…………あ、そうか!」


 ここは、武蔵野市と練馬区の境界なんだ。少女が動けるのは武蔵野市の中だけ、ということか。


「そうか…………じゃあ、ここでお別れだな」


「うん。お別れ、だね」


 俺は2,3歩歩いてから、顔だけ後ろに向いて少女に尋ねる。


「なあ。最後にひとつだけ聞いていいか?」


「なあに? おにーさん」


「俺、練馬区民だけど、吉祥寺住みって名乗っていいのかな?」


 唐突な質問に少女は目をぱちくりさせるが、すぐにふっ、と笑う。


「わからないけど、おにーさんがそう思ってるなら、それでいいんじゃない?」


「……。そっか、そうだよな!」


 俺は体をひねって体を少女の方に向ける。


「じゃあ、また明日、で、合ってるか?」


「うん。また明日ね! おにーさん」


 俺は少女に背を向け、アパートに向かって歩く。


 10秒くらい経って、一度後ろを振り向いてみたけど、そこにはもう少女の姿はなかった。


 またあの少女に会えるかはわからないし、そもそもあれが現実の出来事だったのかもわからない、でも。


 俺は明日から、ちょっと違う気持ちで街を歩けるんじゃないか、って。


 そんな気がした、夜だった。

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武蔵野(市)少女 柴王 @shibaossu753

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